2 ここにいるよ
そのページにはようやくの文字で一文こう書いてある。
——お父さんとお母さんは精霊になりました。
当時、自身はどういう思いでこれを綴ったのだろう。その時の気持ちを全く覚えていないから困りものだ。懸命だったことは確かだけれど、半ば錯乱的に綴っていたはずだ。抱いていたのが希望だったのか、絶望だったのか、それすら覚えていない。
あの日、四歳のスタックリドリーは医師の両親とともに隣村へ診療にいく途中だった。前々日の大雨で足元はぬかるんでいて、村に残れといわれたがそれを拒んだ。経緯はさすがに記憶にないが、甘えたで一緒にいたかったのだと思う。
なだらかな山道の至るところに雨の名残りがあって、汚血色のブチャ虫が地面に出ていた。豊潤な体を踏みつけぬように避けて慎重に足を運んでいると、ふとささやき声が聞こえた。
「精霊って知ってるかい、小さなリドリー」
ぎょっと驚きに足を止めて振り向くが誰もいない。不思議なものをつかまされた心地になってじいっと宙を訝しむが、やっぱりいない。
次の瞬間、背後で轟音が聞こえた。振り向くと土砂が両親を押し流していた。一瞬の出来事だった。
なにが起きたか理解できずに呆然としていると背後で気配がすっと消えた。振り向いてもあの声の主はいなかった。
結局、遺骸は一週間経っても見つからず、両親抜きの葬儀が執り行われた。
大好きな両親を失ったことは大変に悲しくて、悲しくて。人生にこんなに辛いことがあっただろうか。悲嘆に暮れている幼いスタックリドリーに祖母は寄り添った。
「泣かないでリドリー、空を見上げてごらん。精霊が笑っているよ」
「涙が出ちゃうんだ」
優しい手のひらでスタックリドリーの幼い頭を包むとこういった。
「安心をし。お父さんもお母さんも精霊になったんだよ」
「僕にはもう会うことはできないの」
「いつも見守っているよ」
置かれた手の暖かさにみじめな気持ちになって、爆発したように泣いた。そして泣き明かした翌日、腫れた目で忘れぬように日記帳に祖母の言葉をそのまま綴った、そんな記憶がある。
記憶はいつまで経っても記憶のままで、事実も後悔も変じることはなかった。だから、こうして日記帳を見返すたびにいつも思う。
どうして精霊は自身を助けてくれたのだろう。両親はなぜ助けられなかったのだろう。何が運命を別ったのか。
あのとき、呼び止められていなければおそらく自身も死んでいたはずだ。
さすがにもう何度も見返して、泣きたい気持ちにはならなくて、不思議なその一文を考えていた。祖母にはこの世に蔓延る命の潮が見えているのだろうか。
世界に渦巻く、精霊という名の大いなる力。その潮流のなかに自身の生が巻き込まれたような厳かな気持ちになって目をつむった。つぶした瞳の奥に果てない宇宙が見える。
命はどこからやってきてどこへとゆくのだろう。そんな途方もないことを考えた。
ふいに、ぱきっと、家鳴りがして目を見開いた。中空を見るが何もいない。飾り羽を吊るした天井の角、木枠の窓辺、むき出しの梁を隅々までにらみつける。
日記帳が捲れたことといい大方一人でいるとは思えなかった。はあっと吐息して不機嫌に振り仰ぐ。
「いるんだろ、精霊。出て来いよ」
しんとした部屋に苛立ちだけが散ってゆく。
「お前たちなんて全然怖くないからな」
半ば挑戦的にいってみると、次の瞬間不思議なことが起きた。机に転がっていたペンがひとりでに動いて壺の中のインクを吸ったのだ。ペンは宙にふわふわと浮遊する。
驚きのあまり目をきりりとさせた。こんなこと今まで一度もなかったというのに。
ペンは独りでに動くと日記帳の文字に丸をつけ始めた。
スタックリドリーはそれを読み上げる。
「こ」
「こ、に…………」
囲われた文字を順に連ねて読み上げる。
「こ・こ・に・い・る・よ」
はっとして、叫んだ。
「勝手に部屋に入るな!」
ペンは力なく転がって日記帳を汚した。今聞こえたのは小さな笑い声だろうか。いたずらの余韻だけが部屋に残った。