4 恐れと震え
どこからか流れてくる森の涼気に身をゆだねながら精霊を探した。
独りじゃない。複数の声だ。大勢でいるのだろうが、正体が分からない。ゲームなんて宣うからには探してもらいたがっているのだろうが、それで連中は満足するのか。
それにしても、隠れているくせに正体を暴いてほしいなんてどんな奇怪な性質の奴だろう。
手記には精霊はいたずらを好み、気まぐれとあった。それに今度はへんちくりんと書き加えておこう。
「どこにいるんだ、見つけてほしいならヒントを出さないと続けないぞ」
ちょっと上から押さえつけるようにすると精霊はその態度を喜んだ。
「当てないと森を出さないといっているんだ」
あ、と口を開いた。出さないだって? 真実がようやく分かってしまった。
この森は深いんじゃない。精霊がそう見せているだけなんだ。
進んでも進んでも抜けられないのにはそういうわけがあったのか。
「お前たちは迷い込んだものをどうするんだ」
「どうする」
「どうもしない」
「静かに沈んでゆくだけさ」
やっぱりこの森には失われた魂が滞留している。でなければ腹の底に残るような陰鬱な気配は醸し出せない。
「スタックリドリーの命が欲しいのか」
空に勇むと背後で落ち着いた大きな気配があった。
「命は粗末にするものではない」
驚いて振り向くと妙齢の青年が立っていた。青いローブをまとって、白い髪をなだらかに腰元まで下ろしている。この落ち着きは。
「キミは」
「精霊だ」
この稀有なる男が。初めて未知なるものと対話できた瞬間だった。
ずっと見てみたいと思っていたのに、驚くほどに感動がない。冷静過ぎる生き物をまっすぐ見定めていた。
「わたしはこの森を支配するトラスという」
「トラス……」
息をのんだ。威風堂々たるさま、誰にでも見えるならば高級の精霊だ。
「キミは震えているか」
「いいや、震えていないよ」
まっすぐに答えると背後でまた気配がした。振り向くと同じ風貌の今度は髪の短い男が立っていた。
「わたしはこの森を支配するストラクフという。キミは恐れているか」
瓜二つの声に困惑が込み上げた。
「震えているか」
「恐れているか」
「震えているか」
「恐れているか」
二人の精霊に挟まれて心を揺さぶられる。前を見て、後ろを見て。景色が回転を始めた。目を回しそうなほど混乱し、世界が溢れかえると巻き毛を抱えて煩悶した。
「どっちでもない!」
大声で叫んで声を遠ざけた。身振り手振りで窮状をあらわにする。
「困っているんだ!」
「ほう、困っている」
トラスが問いかけた。
「そう、困っている。どうすれば森の外に出られるんだ」
その答えは持ち合わせなかったようで二人して黙した。
「リドリー、キミは精霊に問いかけられたはずだ」
そういったのはストラクフだった。
「問いかけられた?」
スタックリドリーは精霊との会話を思い出した。
――わたしはどこにいるのでしょう。
そうか、とはっとした。わたしとは精霊のことではなくスタックリドリー自身のことを示唆していたのだ。すなわち精霊は自分がどこにいるかを自身で導き出せと伝えていたのだ。
「ようやく問いかけに気づいたようだな」
「でも答えがそう簡単に出てくるのかい」
二人に問いかけられてしばらく黙考した。
(どこにいるんだろう)
進んでも進んでも迷い込む。永遠にたどり着けない森の中。考え込んでいるうちに思考は埋もれていく。まるで樹海のようじゃないか……
(あっ…………)
そう思って見渡した。薄白い森に迷い込んだ人間が独り。周囲には誰もいない。すなわち孤独。呼びかけるものもいなければ、誰も構いやしない。そうここは。
声を張り上げた。
「精霊聞こえているか、今まさに僕は真理の道にいる! 恐怖に震えてもいなければ独りきりを恐れてもいない。ここは誰もが抱える心の森だ。はまり込めば、抜け出していくのも己ひとり。戦うのも己ひとり。悩み続ければ深みにはまり込む。己を信じて律すること、突き進むこと。それが答えだ!」
回答を迎え入れるように言葉が降り注いだ。
「おお、やっと分かったか」
「人間は独り、いつでも悩むときは独り」
心がふっと軽くなる瞬間があった。抱えていた闇がにわかに晴れ渡る。戦い続けたあの夜も無駄ではなかったのだと。
「最後に自らを助けるのは自分自身ということを忘れないで」
精霊が真理を導き出せたことに歓喜している。トラスとストラクフはスタックリドリーを挟んで笑った。
「答えを見つけられるものはそう多くない」
「疑念におぼれて一生抜け出せないものもいるんだ」
森の片隅に目をやると白骨がいくつも転がっていた。
「キミが求める人生の答えははるか東にある」
「人生の答え?」
「大いなる幸運もまたこの森を抜けたのだよ」
「この森にいたのかい!」
「通り過ぎたのさ」
試練を乗り越えたことで一つ実が軽くなった気がした。彼もまたこの地を歩んだのだと。
「内緒にしておくなんて精霊はずいぶん意地悪なんだな」
「分かり合えると思うことの方が可笑しい」
「人間は人間、精霊は精霊」
「混じることもないさ」
軽口を薄く叩くと次第に視界がまどろんでゆく。
「キミは好きだ」
最後の言葉はどっちがいったか分からない。たぶんどちらでも大差ないだろう。静かに去るように景色は消えた。
目覚めると陽の落ちた真っ暗で、森の外に一人いた。入ってきたところとは明らかに違う広大な場所でスタックリドリーは突っ伏すように倒れていた。目前の森は黒く鬱蒼と茂っている。あれほど美しかったあの森が。
森で経験したのは真実だろうか。それとも少し奇妙な夢を見ていただけ。すべてが幻惑の中で確証がない。奇特なスタックリドリーには、もう一度確かめたくなる好奇心があった。だが、さすがにもう一度踏み入る勇気はなくて、足をそっと引き戻した。
視線を伸ばせば、遠くに故郷の山並がかすかに映る。これももうじき見えなくなるだろう。
新しい地を知って、自身はいよいよ世界への旅路を歩み始める。
前にあるのは恐怖でもなければ、震えでもない。
ただ、知りたいんだ。
懸命に手記に記す。続きを綴れと託された大事なものだから。かじかむ手を懸命に動かした。
消えそうな地平線に大きな町の明かりが灯っていた。