4 星降る渓谷
イルマナ渓谷の底を流れる渓流のそばに荷物を下ろした。目の悪いノーブルにこの場所はそぐわないと思ったが彼があえて指示した。なので足元の安全な場所を選んで誘導した。
朝のせせらぎが耳に心地よい。辺りには澄んだ鳥のさえずりが聞こえていた。水中に獲物を探しているのだろう。住んでいる住民たちの気配りと精霊の相互扶助がこうした景観を作り出しているのだと思うと、秩序そのものへのありがたみが沸いてくる。
(感謝って大事なんだ)
与えられた恩恵のありがたみを感じて空を見た。やっぱりこの山は自然と暖かい。
ノーブルは開けた河原を慎重にすり足で進み、大きな石を見つけると腰かけてしばし黙した。
話しかけようとしたが、広がる話題もない。林から枝を拾ってくると伝えて少し離れた。
スタックリドリーには乾いた枝を拾い集める間中も森の息吹が聞こえていた。
緑が揺れて葉音が輪唱するように広がる。鳥が離陸する瞬間に梢が匂い立ち、清涼な風に肺を膨らませた。
五感が研ぎ澄まされる、生きていると感銘した。精霊の好きそうな場所だ、だから選んだんだ。
戻って薪を合掌に組んでいるとノーブルが話しかけてきた。
「スタックリドリー、この場所にいて気づけないかい。精霊たちがたくさんいることに」
作業の手を止めて、目を閉じ聴力を研ぎ澄ませる。いわれてみるといるような、いないような……
はっとして振り返る。もしや、背後でまた揶揄っているのではないか。
まじまじと見つめたが、何も映らない。
怪訝にしているとノーブルが笑った。
「安心しなさい、普通の人間には見えないんだよ。精霊が望まなければ、姿はおろか声も聞こえたりはしない」
(ようするにあいつらはどこまでも見て遊んでるってことか)
自分の人生は揶揄われ続けるのかと思うとちょっと癪だった。相手が人間でも精霊でも。スタックリドリーは口をへの字に曲げて、面白くないとふんっと鼻を鳴らした。
◇
日中はノーブルの話を聞いていた。精霊の習性だとか、癖だとか。それをスタックリドリーは興味深く聞いた。実際に見ることの出来ていた祖母よりはるかに詳しい。知識を集積させるとはこのことで、自身にとってとても好まれたことだった。
夜になると川辺の土に眠った。イルマナ渓谷に無数の流れ星が降り始める。
静かな川のさざめきが地面を伝って背に響く。涼気で目は凛と冴えていた。
薪もそろそろ消えそうだ。炎が小さくなってゆく。隣のノーブルの高説を聞きながしながら、世へ思いを侍らしていた。取りとめもない話だから聞き流して欲しいといわれたのでそうした。
彼は三十年という歳月をかけて世界を旅した。船と自らの足を使って、海を渡り、山を越え、谷を越え。この地ははるかに遠かっただろう。それでもまだ先へ進むという。
世界は広く、知らない場所のほうが多い。
人生は死なない限り終わらなければ、旅もまた終わらない。飽くることのない探究心が老人の意識を引っ張り続けているのだろう。
己もそのように根無し草でありたい。家族はもういないから、だからなおのこと憧れる。
「故郷を捨てるってどんな気分ですか」
故郷はまだ近い。だから、心の底で戻ろうと思えば戻れるような気もしていた。
「解放感だよ。知りたいが勝ってしまったんだ」
そうでなければ旅などしていないだろうなと独りごちる。
「この地の星はどんな風に見えるかな。教えてくれないか、リドリー」
ノーブルの瞳はまっすぐ夜空を射抜いていた。開けていても見えないだろうが、そうすることで何かが違うのかもしれない。
スタックリドリーは想像力の助けになればと、感じたことを正直に伝えた。
「とても輝いてます。なんていうんでしょう、ぺペットの村で見た星よりはるかに強い。美しいとか綺麗だとか優しい雰囲気ではなく、心を揺さぶるくらいに強いって思えるんです」
「そうかい」
感慨深い声だった。何かが感性に響いたのだろう。
「これから話すことは確証もない話だよ。でも真剣に聞いてくれ。わたしは旅をしているうちに気づいたんだ。精霊の恩恵が多い地に限って星がよく光っていることにね」
いわれてみればと、スタックリドリーは故郷の星と頭上の星を比べてみた。
たしかに違う。儚いとか尊いとか。そういう繊細な言葉がまるで当てはならないのだ。
「気のせいといえば気のせいなんですけど、たぶん違います。先生の話を聞いて、さっきいったことってやっぱりそうだなって思えてきて」
何という表現が適切なんだろう。探るように答えているとノーブルが応じた。
「ずっと考えていたんだけれどね、星の輝度と精霊の関係、この現象には何かの因果関係があるのではないかと思われるんだ」
ああ、師の好奇心だ。スタックリドリーは自分が今、学問をしているんだと疼いた。
「わたしはこの疑問をキミに今、手渡そう。この地で出逢えた縁だよ。この答えをキミ自身の旅路で見つけてくれないだろうか」
「先生はどうされるんですか」
ノーブルは即答せずに少し沈黙していたが、やがて諦めたようにこういい切った。
「理解しているかい、してないんだろうな。わたしは目が見えないんだよ。見える風にしているけれど、やっぱりひとつも見えない老人なんだ」