3 精霊祭の夜に
広場の中央でしめ縄の火柱がゆるゆると昇天している。冬は何処、付近は初秋の日和のように暖かかった。住民たちの笑顔は炎に照らされて明るい。温もるように火を囲んで、各々の皿に盛った料理を楽しんでいる。木の実や果実、鳥獣の素焼きなど、味わいのある山の幸だった。酒を飲んでいるものもちらほらいるが、女子供はミルクだった。
ノーブルもまたミルクを飲みながら空を拝んでいた。
「わたしはここからはるか南西のルククという島の出身だがね、三十年前に精霊学を大成させるために旅に出た。そのころには実は目も見えていたんだよ」
そういって目をさすった。何をしているのかと観察しているとノーブルは瞼に指を突っ込んだ。ぽと、と手のひらに落ちたものを見て驚く。
義眼だった。
「ある汚染された水源地でアミトと呼ばれる邪悪な精霊に会った。無学なわたしはそいつの精神に不用意に触れたんだね。彼はわたしを呪い、光を奪ったんだよ」
そういって、窪んだ自身の眼孔を見せた。まるで谷底のように深く、どす黒い中に赤い血の瘤が見える。
「精霊の遺恨だよ。あいつはわたしの人生を呪った。先駆けとして呪われた目を摘出することで全身に広がることを食い止めたが、それでもあいつの呪詛は今もわたしの脳髄に残り、魂を苛み続けている」
「精霊が人を呪うのですか」
聞いたことのない概念だった。
精霊はどこか茶目っ気があって、いたずら好き。良いとかか悪いとかそういうものではなくて。だからそのものに安心し切っていたのだ。
「その高貴なる精神を阻害したり、もともとそいつが悪霊だったり。呪うこと自体を好む性質のものもいる。その身を浸してようやくその危険性にわたしは気づけたんだ」
義眼をはめ直すと彼は両の掌をこすり合わせた。寒さはそんなに気にならなかったが、彼は冷えているようだった。
「精霊学の研究は止めないよ、両目を失ってもね。人生を賭して成し遂げると誓ったんだ」
「精霊は祀りの対象であるという風におっしゃいましたが」
彼は静かに頷いた。
「当たり前ということがいけないね。感謝し、奉ること。この地が姿の見えない存在に感謝し、その恩恵を受け続けていること自体が精霊にとってありがたい関係性なんだ。山をよく手入れして、住みよい環境を保つこと。そうすれば邪悪な精霊は近寄らない。ほとんど迷信だけれど、実際に在り続けたことなんだよ」
彼は知ってか知らずか、しめ縄を指した。祭りは佳境、しめ縄が崩れるように地面に落下する。炎の煽りがよりいっそう激しくなった。空が朱に染まりゆく。
「光を失ったわたしは感覚がいっそう研ぎ澄まされた。宵の空に浮かぶ明星のような精霊たちの喜びが伝わるんだ。見てごらん。あの炎に踊って歓喜している」
村人たちが炎のそばに集まった。民族音楽に踊り、手を結んで空に祈りを捧げる。
——ありがとう、わたしたちはあなたの注がれる精神に感謝しています。
故郷にはなかった概念だと思う。スタックリドリーは真摯な気持ちでそれを見守った。
「ところでキミはずいぶん精霊を抱えているね」
「えっ!」
言葉に驚いて、ばっと振り返ったがやっぱり何もいない。心臓が止まりそうだった。
ノーブルはからからと笑う。
「キミが精霊に好かれていることくらい分かっていたよ。キミは何のために旅をしているんだい」
問われてスタックリドリーは幼き頃に自身に起こった出来事をノーブルに話した。精霊と会話し分かりあったことも。約束通りあの場所のことは秘密にして。
彼はとても興味あるらしく深々頷きながら聞いていた。
「旅に出たのは僕を助けてくれた精霊のことが知りたかったからなんです。祖母は大いなる幸運といっていましたが、僕にはその名前も正体も分かりません。ただ、僕は本当にそいつのことが知りたいんです」
「旅に出た大いなる幸運、わたしにも心当たりはないが。何しろ世界は広い、長い人生が残されているキミですら出会えないかもしれない。それでも旅にいくというんだね」
「はい、旅とは向こう見ず。そういうものではないでしょうか」
明白な受け答えをノーブルは気に入ってくれたようだった。
「キミさえよければ、わたしの知っている知識をいくらか手渡そう。有意義に使えば時間は逃げたりしないよ。この地に少し滞在して、わたしのそばで勉強していかないか」
スタックリドリーは目を見開いた。思ってもみない申し出だった。
精霊学を学べると思うと気持ちが浮き立ってどうしようもない。
「はい、ノーブル先生!」
そうしてスタックリドリーはノーブル老人に師事してその日だけは村で過ごし、翌日から数週間イルマナ渓谷に野宿することとなった。