第1章
【第一章】
前漢第六代の皇帝であった景帝の第四子が劉余。その血筋に連なる劉焉。
劉焉は、皇帝一族の正統である宗室として、若くして中郎に任じられる。その後、恩師の喪に服すため官を辞し、学問に励んだ。人々にも学問を教えることで名声を得て、一目置かれる事となる。洛陽県令・冀州刺史・南陽郡太守・太常などを歴任していた。
その頃、中央では政治腐敗が広がり、全土では黄巾党が乱を起こし、不安定な時代であった。中央での混乱の中にあることを避けたいと思っていた劉焉は、益州に天子の気があるとの言葉を聞き、益州への派遣を望み、そしてその望みは叶えられる事となる。綿竹を拠点として、密かに益州での独立を企て、地元の有力者を懐柔して権勢を誇っていた。
劉焉には四人の男児があったが、三男の劉帽以外は、長安で献帝に仕えていた。献帝は、劉焉の増長を諌めるため、四男の劉璋を使者として派遣したが、劉焉は諌めを聞かぬばかりか、使者として訪れた劉璋を、長安に帰す事なく、手元に留め置いた。
長安で董卓なき後、権勢を誇っていた李傕との争いの中で、長男次男が命を落とし、いくつかの不幸が重なったことから、劉焉は病を得て他界した。
周囲は穏健であった劉璋を「担ぎやすい存在」と捉えて、劉焉の後継者として上奏し、益州の支配は劉璋が取る事となる。
巴蜀の豊かさと、父・劉焉の築いた地盤。そして何より宗室としての民からの尊敬。大きな力を持ちながらも、劉璋は人が良過ぎた。史実では、劉備の入蜀により歴史から姿を隠すが、この歴史の中では、少し様子が違っていた。
先の転封により、巴蜀に赴いた須哩の一党は、誠実に巴蜀の運営を志した。
「よし、まず各地に陣を構えた仲間が行き来しやすくするために、協力して埠頭を制圧して。」惹州公の一言で、諸将が流れるように動く。
「うん。順調ね。じゃあ、各地の城を支配下に置くよ。指揮官、計画の立案、よろしくね。」
「あ、無理しちゃダメだよ。できる人ができることを。力を合わせて、巴蜀を治めるからね。」
巴蜀の各地で支配の揺らいでいた城を支配下に置く一方で、諸将へは自強と軍屯による開拓を促した。
着任の四日後には巴郡の柷県、翌日には涪陵郡の丹興と巴西郡の西充国を同時に、さらにその翌日には梓潼郡の広武を支配下に置いた。それぞれの城の規模や、住み着いた野盗の力量を見ながらの攻略であるが、山東で鍛え抜かれ、また、須哩の誠実さに惹かれて新たに合流した諸将の力量は圧倒的で、何の憂いもなく、支配地を増やして行った。
この頃、嬉しい動きもあった。病で養生していた、先君・弩州公が病の床を脱し、軍を率いて、活動を再開した。しかし、隠居した身として惹州公を支える姿勢は崩さなかった。
「いいね、いいね!じゃあ、今日はひと回り大きい城を、二手に分かれて制圧しよう。汶山郡の綿竹関。ここは劉璋様には先王ゆかりの城。しっかり抑えよう。もう一つは蜀郡の郪県ね。」
卓上の料理を選ぶような気軽さで、惹州公は指示を出す。しかしそれは諸将の力量への信頼あればこそ。諸将も、それをよく理解しているので、全力で準備し、懸命に取り組む。
ここ巴蜀においても、須哩の相互信頼と団結力は揺らぐことなく、いっそう強くなっている。
【章末】
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