7. いい子症候群
朝はそうでもなかったけれど、午後の授業が始まったあたりから急に風が強くなった。グラウンドでは砂埃が舞い上がっている。春の嵐だ。
授業も本格的な内容に入っていくけれど、4年生のときより難しいという感じはしない。
放課後になると、いつものように図書館にいると複数の女子がやってきた。彼女達は大きな声はださないが、おしゃべりを続けた。その声から逃れるために本棚の列にまぎれこんだ。特に読む気もないけれど、本を探すフリをする。
何気なく開いた本は『いい子症候群』というタイトルだった。
『手がかからない子供。親は楽でいい。しかし、子供がいい子でいるというのは異常なことだ』
なんだこれはと思いながらも、いつのまにか読みふけっていた。薄暗い本棚の間でページを無言でめくり続けた。
気がつけば生徒に下校をうながす放送がながれていた。わたし以外だれもいない図書室から足早に出て行った。
夕暮れの道を歩いていると、ゴミ置き場からひっく、ひっくという泣き声が聞こえてきた。背筋をぞくりとさせ、歩みが慎重になる。
ぱっと街灯がつくと、つまれた黄色いゴミ袋にまぎれて小さな人影が見えた。ぶつぶつと何かをつぶやきながらゴミ置き場を荒らしている。
怖々とぞきこむと、その人影は波濤シブキだった。
また変なことをしていると思いながら素通りしようとする。嗚咽交じりの声で「ねえ、どこ、どこにいるの」といいながら、必死にゴミ袋をひっくり返してる。あたりにはゴミが散らばりひどい状態だった。
近所にはゴミ置き場の管理にうるさいおばさんがいた。燃えるゴミの日にコンビニ弁当のプラ容器を出した家にわざわざゴミを突き返しにいっていたのを見たことがあった。
明日、朝からあの甲高い声を聞くことになるとうんざりする。
「……あんた、なにしてるのよ」
「入江ミサキ……。ラジオ、ラジオがないんだよぅ」
話を聞くと、彼女の父親にラジオを捨てられたのだと言う。学校に持っていっていたことがばれたらしい。
「いいじゃない。あんな古臭いラジオ」
「だめだよ。あれがないとお兄ちゃんが見つけられない」
また言ってる。
「あれはお兄ちゃんがいなくなる前にボクのために残してくれたものなんだ。お兄ちゃんはお母さんを探しにいったんだから」
嘘ばっかりだ。こいつの中では兄は遠い場所に旅立っただけらしい。
「やめなよ」と止めようとしたけれど、ごみ袋をひっくり返すのをやめようとしない。顔なんて涙と鼻水でひどいもので、そんなこいつに「お兄さんはもういないんだよ」とは言えなかった。
「はぁ……、どこまで探したの」
「手伝ってくれるの?」
ぱっと顔を明るくさせてくるこいつのことが本当に面倒だと思った。
「見つけたら、ちゃんと散らかしたゴミも片付けなさいよ」
探している間、波濤シブキはしきりに何かに話しかけるように声をあげていた。
「お兄ちゃん、ねえ、どこ? ここ?」
「あーもう、うるさい。黙って探しなさいよ。ラジオが返事するわけないでしょ」
「するよ。いまも聞こえてるんだから」
教室でもぶつぶつとラジオに話しかけている姿も見かけた。あれは亡くなった兄との交信だったらしい。やっぱり変なヤツだ。
放っておいて探していると、ゴミ袋の中に固くて重い塊を見つけた。
「あった、これでいいの?」
差し出すと感謝の言葉もなく奪い取られた。ラジオをいじりだすとまた兄に向かって話しかけていた。わたしの耳には何も聞こえてこない。だけど、心底ほっとした表情をしていた。
「それ壊れてるじゃない。聞こえるわけないでしょ」
「入江ミサキにも聞こえるはずだよ。才能あるから」
「なによ、それ。意味わかんないし」
詳しく聞いてみてもわけのわからない説明がつづいたので理解を放棄した。でも、このラジオを首からいつもぶらさげて、本当に大事にしていることだけはわかった。
窓から差し込む日差しで目が覚める。昨日は過ごしやすかったのに、朝だというのに既に強い日差しに目を細める。これだけ暖かいなら日中は春の陽気を通り越して夏の暑さになりそうだった。
薄着を選ぼうとしたけれど、もしもクラスメイトと違っていたらと悩んだ。平気でジャージで登校してくる男子がうらやましい。悩んだ結果、簡単に羽織れるパーカーを選んで学校に向かった。
ランドセルを背負って歩いていると、妙なだるさが残っていて手足が重い。あのあと散らばったゴミの掃除までしたせいだろう。なにをやっているのだろう、自分は。
変な歩き方になってないか気をつけながら学校に向かう。横断歩道のそばでは警察官がきびきびと生徒達と誘導していた。
生徒達のあいさつには笑顔で返し、優しくて頼りがいのある警官の姿だった。家ではあいつの父親。どんな顔であの子を叱ったのだろう。
あいつは変なやつだけれど、あれだけ大事にしているものを一方的に捨てるのはやっぱりおかしい。
昨日のことを思い出しているとついきつい目をしてしまったのだろう。
「何か用かな?」
落ち着いた大人の声で聞いてきた。
「お巡りさんは波濤シブキさんのお父さんなんですよね?」
大きな体で見下ろすと、わたしの顔をみてそれから胸につけた名札とランドセルを順番に確認していく。
「キミは、あの子のクラスメイトかな?」
「はい」
「あのときもあの子を連れて行ったね」
声色が変化した。さっきまで頼りがいのある警官だったのに、娘のことを話した途端怖くなった。
「どうして、邪魔をしたのかな?」
「それは……」
大人の男の人に抗議するなんてしたことはなかった。通り過ぎていく生徒達がちらちらとこちらを見ていた。脚が震えそうになったけど、同時に嫌悪感も立ち上ってきた。
こんな風に押さえつけようとするのが本当の家族なのだろうか。
「あのラジオが、あの子にとって大事なものだからです」
「友達思いなのはいいことだろう。だけど、学校に余計な物を持ってきてはいけないと先生から言われているはずだ。ルールは守らないといけない。私もそれをあの子に教えようとしたんだ」
わがままな子供を言い聞かせるように、だけど反論を許さない口調で押さえ込もうとしてくる。あのとき、うつむきながら泣き出しそうな彼女の姿を思い出す。
「だからって、子供が大事にしているものを勝手に捨てるなんてよくないです!!」
大きな声でいいきった。そうすると、顔を強張らせてにらみつけてきた。そのむき出しの敵意を前に足が立ちすくむ。
目の前で手が持ち上げられた。殴られると思ったとき、車のクラクションの音が聞こえた。とっくに信号が変わって、運転手が迷惑そうにこちらを見ている。
わたしは唇をかみながら、向こう岸に走って渡った。
教室に着くと、クラスの様子がおかしかった。昼休みに入る頃には空気の違いをはっきりと感じていた。
そこそこ上手く立ち回っていたつもりだったけど、まだ一月とちょっとが経ったクラスの中での立ち居地ははっきりと決まっていない。どこの派閥にも深く食い込むこともなく、同じ班の生徒とも頼りにできるほどの関係はつくれていない。
誰もわたしと目をあわせようとしない。偶然かと思ったけどそうじゃないことはわかった。
そうなった理由はわかる。今朝のやりとりを見ていたからだろう。大人に逆らうおかしな子、その印象はそうそうはがせるものじゃない。
最悪の一日だ。本当になにをやっているのだろう、自分は。