居眠り姫は賭けをする
手ならしに書いた作品です。
「お父様、賭けはわたくしの勝ちですわね」
「認めたくはないが、そのようだな」
栄えあるラザフォード侯爵家令嬢アリシアはぱちんと扇を閉じて、さっきからずっと押し黙っていた父親の方へ向き直った。夜会服を着た父親はため息をつき、先ほどから広間の中心で注目を集めている青年をうんざりした目で見た。
「お前にぴったりの、いい男だと思ったんだがなあ」
「まあ、こうなってしまったからには仕方ないですわ、あなた」
隣にいた妻が慰める。彼女は夫の夜会服と同じような色合いの青いドレスを身にまとっていたが、そのドレスは一見地味だがよく見ると同じ色合いの糸で細かな刺繍がなされており、近づいた人間をはっとさせるほど美しいドレスだった。国内でも有数の穀倉地帯を領地に持ち、また外交において重要な地位を占めているラザフォード侯爵の妻として相応しい。
「仕方ない、この賭けは私の負けだ」
「さっきから何をこそこそと父親と話し合っているのだアリシア!」
広間の中心にいた美しい顔立ちの青年___ドルイット公爵の次男、マーカスが大声で叫んだ。そばにはピンクブロンドの髪の少女がいる。彼女はメリル・グレアム男爵令嬢として知られており、その美貌で数多くの男たちを引き付けてやまず、また、貴婦人たちのゴシップの格好の的でもある。
一方のアリシア嬢は、顔立ちは整っているものの、どちらかというと地味な部類に入る。まっすぐな黒の髪に茶色の瞳、落ち着いたワインレッドのドレスはよく似合うものの、彼女くらいの年齢の令嬢が着るには落ち着きすぎているともいえた。
「アリシア、お前のように怠惰で居眠りばかりしていて、おまけにここにいるメリルをいじめていたようなそんな女と結婚するわけにはいかない。よって僕はこの場で、お前に婚約破棄を言い渡す!」
「だ、そうだ。居眠り姫。誰か、ドルイット公爵を呼んできてくれないか?話したいことがある。ついでにエルモア伯爵もだ」
「その必要はない、ラザフォード侯爵。この度は愚息が大変申し訳ないことをした」
人々をかき分けて姿を現したのは、堂々たる体躯の紳士だった。金髪碧眼は息子と同じだが、隠しようのない威厳をまとっている。ドルイット公爵その人であった。
「懸念していた通りになりましたな、ドルイット公爵。お約束通り、マーカス殿と我が娘アリシアとの婚約を解消させていただくということでよろしいですかな」
「やむを得んな。愚息にとっては不幸な事だが、あいつ自身が選んだことだ。申し訳ない、アリシア嬢」
「構いませんわ、ドルイット公爵。では、お父様。約束は守っていただけますわね?」
「もちろんだ」
話がまとまりかけたところで、息を切らして現れた男がいた。小柄だが誠実そうな中年男性で、おどおどした様子を隠していない。彼は先ほどまで反対側の壁で親しい友人たちと酒を飲みながらこの騒動を見守っていたのだが、いきなりラザフォード侯爵に呼び出され、何のことかさっぱりわからないままここに慌てて駆けつけてきたのである。
「ああ、エルモア伯爵。よくぞ来てくださった。落ち着いて、何か飲み物でもいかがかな?」
「いえ、私は、その」
国内でも有数の大貴族に話しかけられ、文官として責務に励んできた真面目な伯爵は、びくびくした様子でラザフォード侯爵を見上げた。
「話というのは、おたくの息子さんのことだ。詳しい話は後日することになるが、お宅の息子さんの嫁に、うちのアリシアをもらってくださらんか?」
「…え?しかし、うちの息子は長男次男とも結婚しておりまして…ひょっとして三男のトマスにですか?」
「そうだ。アリシアから聞いているが、誠実で成績も優秀な、好青年ということではないか。うちの娘はこういうのも何だが気立てがよく、優しい娘だ。お宅の息子さんにぴったりだと思うのだが…おや、エルモア伯爵が気を失ったぞ。誰か来てくれ」
◇
「また居眠りか、アリシア嬢」
割り当てられた机ですやすやと眠るアリシアを見て、トマスはあきれた様子で彼女を見た。
彼はくすんだ金髪に冴えない青色の目をした、ぱっとしない容貌の青年である。かけている大きな眼鏡が、ますますそれに拍車をかけていた。彼は貴族たちが通う学園内の成績優秀者のクラスで、学級委員を務めている真面目な青年だった。
今は授業が終わった後で、次の授業までの中休みである。
「マーガレット嬢、アリシア嬢を起こしてやってくれないか」
「もちろんですわ。アリシア様、目をお覚ましになって」
「う、うーん…おはようございます、マーガレット様」
「おはようございます、じゃないですわ、アリシア様ったら。夜よく眠れていませんの?」
「まあ、そんなところでございますわ。ごきげんよう、トマス様」
目を覚ましたアリシアは、トマスを見て朗らかに笑った。目の下にはうっすら隈がある。髪はやや乱れていて、美女には程遠い。トマスはそれを見て苛立ちを隠せなかった。なぜ、このように居眠りばかりしている彼女が、自分と同じ成績優秀者のクラスにいるのだろうか。
「アリシア嬢、目が覚めてよかったな。次は経済学のクラスだ。小テストがあるらしいから、今度こそ君に勝たせてもらう」
「まあ、トマス様。成績で勝ち負けを競うものではありませんわ。空しいだけでしてよ」
「そんなことはわかっている。今度君に勝利したら、一週間君が居眠りをやめる約束だ」
「わかっていますわ。トマス様、頑張ってくださいましね」
まるで人ごとのように言ってアリシアはにこにこ笑った。それにしても不思議な女性だとトマスは思う。暇さえあれば図書館で本を読み、放課後はクラブ活動に専念するわけでもなく、さっさと帰ってしまう。一応、昼休みは友人と昼食を共にしているようだが、交友関係はさほど広くない。それでも、人を引き付ける不思議な魅力がある。学年内でも彼女にあこがれている男が何人もいるのだ。
「トマス様、何か考え事ですの?」
「いや、何でもない」
「そうぼんやりしていると、またアリシア様に負けてしまいますわよ」
アリシアの友人のマーガレットがそう言ってからかう。確かに、このクラスでアリシアと一緒になってからずっとトマスはアリシアに勝てたためしがない。不正を疑ったこともあるが、厳しい教師が担当している歴史学の範囲が事前に知らされていない小テストで、アリシアがやすやすと高得点をたたき出したことで、その疑惑は溶けてなくなった。
「では、わたくしが勝ったらトマス様がお昼をご馳走してくださるということでよろしいですわね?」
「購買のサンドイッチの何がいいのかわからんが、まあそういうことだな。でも、いいのか。婚約者のいる君が、僕と昼食を共にしても」
「トマス様だけではないわ。マーガレット様も一緒でしょう?それにマーカス様は、最近男爵家の令嬢に夢中ですの」
その言葉にマーガレットとトマスはぎょっとしたが、アリシアは気にしていないように言葉を続ける。
マーカス・ドルイットはアリシアの婚約者だ。幼いころから決められていた婚約だったが、最近マーカスはメリルという新興貴族の男爵令嬢とよく一緒にいるところを目撃されていた。学園内にいるおしゃべり雀たちがもうすぐアリシアはマーカスに捨てられるのではないかとひそひそと噂している。なんせマーカスはドルイット公爵家の息子で、アリシアは侯爵家の長女だ。家柄がマーカスの方が上で、婚約を解消されても文句は言えないはずなのだ。
そこまで話が単純に行くかねえ、とトマスは思っている。なんせ、ラザフォード侯爵家は国内有数の穀倉地帯を領地に持ち、また、外交でも活躍しており、政治での重鎮としての立場をしっかりと維持している。それに比べてドルイット公爵家は、昔は王家の姫君が降嫁したこともある名門だが、最近はあまりぱっとした話を聞かない。マーカスだって、本来公爵家の令息という立場であるならば成績優秀者クラスに在籍しているべきなのだが、いまだに移籍の話は聞かない。
「君がそれでいいのなら、僕は別に構わない。でもこれだけ言わせてくれないか?マーカス様はアリシア嬢のことをもっと大切にするべきだ」
「いいんですのよ、トマス様。所詮親同士が決めた婚約ですもの」
この学園では学生の立場は親の地位にかかわらず、平等ということになっている。だから伯爵家の三男坊のトマスが、侯爵家のアリシアにこういう口の利き方をしても許される。卒業したらきっと違う世界に住むことになるだろう。
なんせトマスは弱小貴族の三男坊、いくら成績が優秀でも、卒業後は文官になって糊口をしのぐだけで精いっぱいだ。
アリシアは親の財産を受け継ぎ、マーカスとともに幸せな暮らしをするに違いない。だからトマスは、ほんの少し感じた心の痛みには気づかないふりをして、席に着いた。
ちなみに、小テストには負けた。
◇
「アリシア、話とは何だ」
「お父様、お時間を割いていただきましてありがとうございます。話というのはマーカス様のことですの」
「マーカス殿か…」
それを聞いたラザフォード侯爵は渋い顔をした。最近マーカスが娘をないがしろにしていたことに彼は気づいていたが、若者のよくある暴走だろうと思っていたのだ。自分も青春時代、婚約者がいるにも関わらず、一つ上の学年の綺麗な伯爵家の娘にあこがれたりもしていた。今は妻である婚約者にはそのせいで頭が上がらなくなってしまったが、それでも卒業後はきっぱりとほかの女性に目を向けるのをやめ、妻とは良い関係を築いている。
「マーカス様は今度の夜会でわたくしと婚約破棄するおつもりらしいの」
「婚約破棄?なんだ、それは」
「まあ、お父様。最近の流行をご存じありませんの?恋愛小説でよく出ますのよ。主人公がヒロインをいじめていた婚約者である悪役令嬢に婚約破棄と断罪を言い渡すんですの」
「くだらん。お前、そんなものを読んでいたのか。そんなものを読むくらいなら語学の一つでも学ぶがいい」
「お父様ったら、わたくしが五か国語を習得しているのをご存じでしょうに。話を続けますが、マーカス様は今度の夜会でそれを宣言するらしいんですのよ」
「ふん、馬鹿馬鹿しい。そんなことをしてみろ、ドルイット公爵家は社交界に顔出しができなくなるぞ。男性側から女性に婚約解消を申し出るなど、マナー違反にもほどがある」
この国の慣習では、よほどのことがない限り男性側から女性側に婚約解消を申し出るのは重大なマナー違反とされている。おまけにマーカスとアリシアの婚約は、ドルイット公爵家側から申し込みされてきたものだ。ラザフォード侯爵家がそれを解消するというのなら筋は通るが、ドルイット公爵側がそれを解消するとしたら大変なことになる。
アリシアの経歴に傷がつくし、ラザフォード侯爵の顔にも泥を塗ることになるだろう。
おまけにこの婚約でラザフォード侯爵領とドルイット公爵領で提携されることになるいくつかの商談が白紙に戻る。そうしたらドルイット公爵家の損害は測り知れない。
「マーカス殿はそもそもなぜお前をないがしろにしているんだ?自分の立場というものをわかっていないのか、あの若造は」
「わかっていないからわたくしをないがしろにしているのでしょう。わたくしも会ってご忠告しようと思ったのですが、あの方わたくしに会おうともしないんですのよ」
「馬鹿な。お前に会おうともしないだと?今度の夜会のエスコートはどうするんだ?まさかあの若造、お前にドレスの一つも贈ってきていないのではなかろうな」
「その通りですわ、お父様」
「すまない、アリシア。まさかそこまで馬鹿だとは思っとらんかった。ドレスについては好きなものを作るといい。私はドルイット公爵に会い、事の次第を問いただしてくる。エスコートはお前の従兄弟にやらせろ」
「お父様、まだ話は終わっていませんわ」
顔が真っ赤になったラザフォード侯爵をアリシアはやんわりと押しとどめた。家族のことになると途端に暴走するこの男を止めるのは、並大抵のことではない。ラザフォード侯爵は椅子から飛び出そうとしたが、なんとか座りなおした。
「なんだアリシア」
「わたくしお父様と賭けをしたいんですの。もしわたくしが勝ったら、マーカス様と婚約解消して、わたくしの好きな方と婚約したいわ」
「ふむ?では、この父が勝ったらどうするのだ」
「そうですわねえ。マーカス様と結婚してもようございますわ」
「まあ、あの若造の独断の婚約破棄などという勝手がまかり通るとは思えんからな。で、賭けの内容は?」
「マーカス様が今度の夜会で婚約破棄を宣言することにわたくし、賭けますの。お父様はしない方に賭けたらよろしいわ」
「なるほど。まさかあの若造もそんなに馬鹿ではあるまい。よかろうアリシア、その賭け乗った。で、お前が婚約したい相手は誰だ」
「同じクラスのエルモア伯爵家のトマス様と。誠実な方ですわ」
「エルモア伯爵の息子か。エルモア伯爵ならその堅実な仕事ぶりで知られている立派な男だ。その息子なら悪くはなかろう。調べさせるか。セバス」
「承知しました」
ラザフォード侯に代々仕えてきた“影”である男は、書斎から音もなく姿を消した。ラザフォード侯は娘の方に向き直って言った。
「伯父上にも一応連絡しておくべきか。万が一ということがある。アリシア、お前はもう行ってもよろしい。ところでお前が調べていたサパン地方の代官の汚職疑惑はどうなった?」
「あれならクロでしたし、お母様にもうお伝えしましたわ。どうも小物のようですわね。グラン王国とつながっているとか、そういうことも想定していたのですが、ただ単に自分の私腹を肥やしたくてやっているだけのようです」
「ふむ、新しい代官を任命せねばなるまいな。誰がいい?」
「代官補佐の青年がいいと思いますわ。上官が私腹を肥やす横で過労死寸前まで働き、なんとか民の暮らしを良いものにしようと努力しておりましたから」
「なるほど、わかった。では今度こそ行ってもよろしい、アリシア。新しいドレスはうんといいものを作れよ」
◇
「マーカスがグリフィス公爵の養子になれないというのは、どういう意味ですの!」
母親のキンキン声が聞こえてきて、マーカスは思わずはっとした。あの夜会の翌日から、マーカスは自分の部屋で謹慎することを余儀なくされていた。愛しいメリルにもグレアム男爵に引き離されて以来、会えていない。続けて父親のうんざりした声が聞こえてくる。
「何って、そのままの意味だ。マーカスはグリフィス公爵の養子にはなれん。先ほど手続きを破棄するとの連絡があった」
その言葉にマーカスは思わず部屋から飛び出した。父親に慌てて聞く。グリフィス公爵というのは名家中の名家で、何代か前に王家の姫君が降嫁しただけのドルイット公爵家とは違い、現在でも王家との深いつながりがある。
現当主には妻子がおらず、そのまま家が絶えてしまうことを嘆いた現国王によって、養子をとることでの存続が許されていた。それほどの名門なのである。マーカスはグリフィス公爵の養子になるということが幼いころから決まっていた。
「ど、どういう意味ですか?父上…」
「お前に部屋から出る許可は出しとらんぞ、マーカス」
「父上、なぜですか?なぜ僕がグリフィス公爵の養子にはなれないのですか?そのために教育を受けてきたのに」
はあ、とドルイット公爵はため息をついた。昔から何回も聞かせた話を、彼はもう一度繰り返す。
「いいかマーカス、もうこれきり、一度しか言わんからよく聞け。グリフィス公爵には妹君がおられて、その方を公爵は溺愛していたということは知っておるな?」
「はい、父上から聞きました。確か、レティシア様という方でしたよね。大恋愛の末にラザフォード侯爵家に嫁がれたとか」
「うむ。そして現ラザフォード侯爵を出産された後、亡くなられた。そんなわけでラザフォード侯爵にとってグリフィス公爵は伯父になる。グリフィス公爵はな、妻子を不幸な事故で亡くされた後唯一の身内である甥御殿をそれはもう可愛がっておられたのだ。甥御殿に娘が生まれると、公爵は喜ばれた。生まれた娘がレティシア様に生き写しであられたからだ」
「…それが何の関係があるんですか。所詮アリシアは女でしょうに」
「大馬鹿者め。グリフィス公爵は以前から明言しておられる。アリシア嬢の夫となる男を養子に取り、次期グリフィス公爵に育てる、とな」
「……」
「なんだ、その顔は。わかっていてあのメリルとかいう男爵家の娘に乗り換えたのではなかったのか」
「グリフィス公爵は僕の努力を認めてくださっているはずです。アリシアの夫でなくとも養子にとってくださるはずです」
ドルイット公爵は驚いた。息子がここまで現実を見ていないとは思わなかったのだ。後妻の息子だからとやや甘やかしたのが良くなかったのかと今更ながらに悔やんだ。長男のルークではこうならなかっただろう。きちんとアリシア嬢を尊重し、他の女などに現を抜かすこともなかったはずだ。たとえそこに愛がなくても。
「まさかそんなことを考えていたのか!成績ではアリシア嬢に劣り、優秀者クラスにも一向に入れないお前が?お前のしてきた努力なんて結果につながらなければ何ともならんわ。もういい、お前のことをどうするかは決めてある。親戚の辺境伯のところへやる事にした。一騎士としてしっかり鍛えてもらうがいい」
「で、ですがメリルは?」
「ああ、そのことならグレアム男爵から手紙を受け取った。メリル嬢は学園をやめて裕福な商人の息子に嫁ぐことになったと」
「そ、そんな。メリルは僕と愛し合っていたのに」
「ふん、どうだかな。案外それもお前の幻想かもしれんぞ」
◇
「本当にマーカス様にはうんざりしたわ」
ピンクブロンドの髪の少女がうんざりした声で言った。
ラザフォード侯爵邸の庭にある瀟洒なテーブルのうえには、美味しそうなお菓子と紅茶セットが並べられている。
テーブルにはアリシアとマーガレット、そしてメリルの三人が就いていて、楽しいお茶会の真っ最中である。
アリシアはほほ笑んで紅茶を飲んだ。
「まあ、メリル様。あんなにマーカス様と仲良くしてらっしゃったのに?」
「顔がよかったからですわ、マーガレット様。ちょっと粉をかけてみたら、まさかあそこまで食いついてくるとは思ってなかったんですの」
「じゃあどうして、きっぱり断りを入れなかったんですの、メリル様。あなたのせいでマーカス様は辺境送りだそうですわ」
「入れましてよ、何度も何度も。その度にあの方、私の言葉を明後日の方向へ誤解なさるんですの。しかも、自分の都合のいい方向に」
メリルはいわゆる誤解されやすい女性である。彼女は良い嫁ぎ先を探していたが、そのために男性に声をかける必要があった。しかし、家柄のいいお金持ちの男性というのは、たいてい婚約者がいるものである。その度に婚約者の女性から顰蹙を買い、結果としてメリル・グレアム男爵令嬢は身持ちの悪い女だといううわさが社交界で広まってしまった。
メリルは途方に暮れたが、しかしそれはそれとして、嫁ぎ先は見つけなければならない。父親は仕事で忙しく当てにならないし、母親は流行り病でとうに亡い。新興貴族であるグレアム男爵家には伝手もないので、情報もろくに入ってこないのである。
そんな中学園で近づいてきたのがマーカスだった。あまりにも積極的なのでまさか婚約者がいるとは夢にも思っていなかったのだが、アリシアの存在を知った時には手遅れだったのである。婚約者がいるのならばお付き合いできないと言えば、「アリシアに何か言われたんだね、守ってあげるよ」と言い、ご自身を大切になさってくださいと言えば、「大丈夫、僕の将来は安泰だから。メリルを幸せにしてあげるよ」と言い張る。教科書を忘れてしまい、貸してもらおうとしていたら「可哀そうに、アリシアが教科書を隠したんだね」と言ったのにはほとほと呆れてしまった。
一方、アリシアはアリシアで途方に暮れていた。こんなポンコツを次期グリフィス公爵にするのかと思うと、とてもではないが心情的に無理だったからである。どうしてお父様はもっと優秀な方を選んでくださらなかったのだろう、なんとか婚約を解消できないだろうか。そもそも亡くなった祖母に生き写しというだけで、なぜ自分が次期グリフィス公爵を決定する立場にいるのだろうか。自分は父親から財産を生前贈与され、そこそこの身分の誠実で素敵な青年と結婚し、家で大好きな本を読んで暮らしたかったのに。優秀だし長女だからという理由で、領地にかかわるあれやこれやや外交にかかわるあれこれを調査し、報告してきたが本当は普通の令嬢のように安穏とした生活を送りたい。
慎ましい令嬢でいてほしいというマーカスの命令で地味な格好をしてきたが、恋だってしたいし着飾りたいしメイクだって楽しみたかった。数え上げればきりがない。
父親から頼まれた調査と、マーカスについての悩みでアリシアは夜、眠れなくなってしまったのだ。
そこに降ってわいたのがメリルとマーカスの噂である。メリル本人がマーカスをなんとかしてくれと突撃してきたときには、神様は実在するんだと思ってしまった。
「まあ、わたくしとしては思った通りに進んでよかったですわ」
「私も嫁ぎ先が見つかってよかったですわ」
アリシアはメリルに嫁ぎ先を世話する代わりに、マーカスの情報を売るように持ち掛けたのである。接触にはアリシアの配下を使い、魔法のかかった用紙で手紙をやり取りし、どうしても直接接触しなければいけない時にはいじめている風を装った。もちろん、マーカスが誤解しやすいようにである。そうやってアリシアはマーカスが婚約破棄を宣言することを企んでいると知り、父親に賭けを持ち掛けた。
「マーカス様はわたくしのことを所詮は女、男である自分の添え物に過ぎないとおっしゃっていましたが、本当は逆でしたのよ。わたくしはステーキ、マーカス様は添え物のクレソン。いえ、クレソンに失礼ですわね」
「アリシア様、ステーキとはなんですの?」
「近頃流行りの庶民料理だそうですわ。大きなお肉を熱い鉄板で焼いて、塩コショウをして食べるのだそうです」
「まあ、美味しそう。いただいてみたいわ」
「今度アンディに連れて行ってもらおうかしら」
「アンディ?メリル様の嫁ぎ先の方のお名前ですの?」
「そうなんですのよ、年は私の10歳上なんですけど、とっても優しくて、でも時々ピシッと言ってくださいますの。商才もおありなのよ。確かに外見はちょっと熊に似ていてマーカス様にはやや劣りますが、素敵な方なんですの」
アリシアがメリルに用意した嫁ぎ先は、ラザフォード侯爵領でも名うての商人の息子である。自由奔放なメリルは貴族に嫁ぐより、裕福な商人に嫁いだ方が幸せになれると思い、アリシアが紹介したのだが、一目会うなり二人は恋に落ちてしまったようだった。
メリルは今、アリシアが手配した家庭教師に揉まれながら、必死に商売についての勉強をしている。グレアム男爵は自分の娘が裕福な商人に、しかもあのラザフォード侯爵家と関係がある家に嫁ぐことで、大いに満足しているそうだ。
「結婚式にはいらしてくださるわね?マーガレット様もアリシア様も」
「もちろんよ、メリル様。それにしてもお二方ともうらやましい。わたくしも真実の愛というのを知りたいわ」
まだ婚約者のいないマーガレットが、ほう、とため息をついた。
「あら、マーガレット様だってこの前王立騎士団団長ご子息のエドガー様と、仲良くお話をしてらっしゃったと聞いておりますわよ?」
「メリル様ったらそんな…エドガー様は素敵なお方ですけど、まだ恋というほどでは…」
「あの方でしたらよく鍛錬を他の騎士の方となさっておりますから、今度差し入れをお持ちになるとよろしいわ」
「もう、アリシア様まで!」
三人の笑い声が庭に響いた。
◇
「どうして僕なんだ」
「あら、トマス様。どうなさいまして」
「アリシア嬢…どうして僕を選んだ?」
後は若いお二人で。その言葉とともに両親たちは屋敷の中へと消えた。今頃はグリフィス公爵とラザフォード侯爵夫妻とともに今後について話し合っているころだろう。トマスとアリシアは、ほんの数日前にお茶会が開かれていたテーブルに就き、二人でぼんやりと花壇の花を見ながら話をしていた。
「トマス様はわたくしのことがお嫌いですか?」
「いや、君のことはあれだけ居眠りをしているにも関わらず、好ましく思っている。でも君は?僕はこの通り容姿もパッとしないし」
「その眼鏡をかけているところ、とても知的で素敵に見えますわ」
「取柄と言えば、自分でもいうのは何だが成績がいいのと真面目なことくらいだ。運動神経も無い」
「トマス様、わたくしね、もう大言壮語をするだけで将来性のかけらもない男性にはうんざりですのよ」
「それが理由か?でも僕にだって将来性はないぞ。なれるとしたら王宮の文官がせいぜいだ」
「なれるんでしたら立派ですわ。わたくし、真面目で堅実な方が好きなのです」
「ほかにいくらでもいるだろう、こんな男」
トマスがそう言うとアリシアは目を伏せた。そして、ほうとため息をついた。
「いいえ、おりませんわ。新学期の初日、疲れ切って居眠りをしていたわたくしに対して、『体の具合でも悪いのか?大丈夫か』と聞いてくださった殿方は、貴方だけでしたわ」
「それは、君がくたくたで途方に暮れていて、具合が悪そうだったからだ」
その日の前日、自分が成績優秀者クラスに入れないにもかかわらず婚約者は成績優秀者クラスに入れるということを知ったマーカスは、アリシアを呼び出して罵倒した。女のくせに僕より成績がいいなんて何様のつもりだと。最終的にはティーカップを投げつけられ、なんとかかわしたものの、着ていたドレスには染みがついてしまった。
アリシアは謝罪する執事に連れ出され、家に帰ってきたものの、両親は共に不在で、泣きつく相手もいなかった。
そのまま一晩、眠れない夜を過ごし、次の日新しいクラスでトマスに声をかけられたのだ。
「思えばあの時からわたくし、トマス様のことをお慕いしていたのですわ。だってあなたはわたくしが知る中で、一番真面目で責任感があって、優しい男性なんですもの。もちろん、ジェフリー大伯父様とお父様は除きますけどね」
「そこまで褒められると、照れるからやめてくれ」
「やめませんわよ。これから共に長い時間を過ごすのですから、慣れていただかないと」
「…僕は、そこまで責任感がある男じゃない。君に声をかけたのだって、君がその…ええと…可愛かったから…」
「え?」
アリシアはびっくりした顔でトマスを見る。可愛いといわれたのは初めてだった。
「その…僕は三男坊だから、後を継ぐ家もないし、将来結婚する女性に裕福な暮らしをさせてあげられるほど有能な男じゃない。でも、お見合いを断り続けてきたのはそれだけじゃない。一目見た時からアリシア嬢が可愛くて、その、どうしても吹っ切れなかったから…だから、昼休みに君と過ごせるのは、うれしかった」
「え、え、え」
思いがけない告白に、アリシアは挙動不審になる。トマスは笑顔でアリシアに言った。
「は、初耳ですわよ、そんなこと」
「それはそうだろう。僕は、一生独身で、墓場まで持っていくことにするつもりだったんだから」
「わ、わたくしたち、両思いでしたの?」
「どうやらそのようだ」
「わたくし、居眠り癖がありますわよ」
「マーカス様と婚約解消してから、その癖は無くなっただろう」
「顔立ちもパッとしないし」
「何を言う、君は磨けば社交界の花になれるよ。君は可愛い」
「結婚してからも本を読み続けますわよ」
「僕だって読書は好きだ。一緒に本を読んで過ごそう」
「グリフィス公爵のお家目当てだと思われますわよ」
「構わない。僕たちがこれからグリフィス公爵家を盛り立てていくから。最高の当主だとみんなに認めさせよう。二人で」
「トマス様、こんなに情熱的な方でしたの?」
「アリシア嬢限定だ」
トマスはふわっと笑って花壇の花を一本抜きとり、跪いてアリシアに差し出して言った。
「居眠り姫。結婚してくれないか?たとえ僕がグリフィス公爵を継げなくても、働いて君を幸せにするから」
「え、ええ…はい」
アリシアは反射的に花を受け取った。顔が赤くなっていくのを感じる。トマスの耳も真っ赤に染まっているのが見えて、ああ、彼も照れているんだなと思うと愛おしさがアリシアの胸にこみあげてきた。