雲をつかむ
バナナとヨーグルトで朝食をすませて街路にでると、明るい日差しのなか雨に恋顔をしながら、紫陽花が健気に微笑んでいた。昇った太陽はそしらぬそぶりで、透明な光をあちらこちらに屈折させながら、熱気をまき散らしていた。
公園のベンチに腰掛けたぼくは、音楽を友に歩いて溜め込んだ余熱を冷ましていた。藤棚がつくる影は拍子にあわせて楽しそうに体を揺らしているみたいだった。愉楽の扇風機にあたって、気がつけばぼくは人間ドラムになっていた。みぎ足はバスドラ、ひだり足はハイハットとスネアとタムといった具合に。呼吸はそのまま音もなく詩を歌いあげていた。音楽と一体になっていたのだ。
画布に描かれた風景は大きく開けていた。藤棚から見える風景は、森の一角がきれいに切り取られているようにぽっかりとしたものだった。空というのは高いところにあると思いがちだが、そうではない。ぼくを優しく囲んで、ぼくが見ているのがまさしく空だったのだ。その避暑地は地上数センチから空がはじまっている場所だった。
すぐ近くに階段のようになった鉄棒。ずっと先の端には運動用の機器。その向かいの離れたところにはブランコ。揺れる遊具の傍に砂場。
真珠色の小さなゴム毬が陽光を照りかえしながら転がってゆく。追いかける2歳になったくらいの男の子。頼りない足取りを見守る両親。誰も乗せていない乳母車。
ぼくは音楽や空と一体になったまま漫然としていた。その時、突然に男の子がこちらに近づいてきて、じっとぼくを見つめてきた。太陽に意志があって焼き尽くしてしまおうとするようなじっとだった。
とたんに胸のなかで喧騒が起こった。音と空気との一体感から離れたくない寂しさ、降ってわいた興味ありげな視線に応えたいという気持ちがしのぎあいだしたのだ。
男の子の視線は、まるで永遠の謎を解き明かしたいかのように真っすぐだった。全身ぴくりとも動かさずに、一種無表情に見える顔で、じっとぼくを見つめてくる。
すっと、画布のなかに大きな人が描き出された。その人の口元が動いているのが見えた。
ぼくは反射的にイヤホンを両耳からむしり取った。
「こんにちは」
男の子のお父さんの柔らかい声。
「こんにちは」
画布のずっと端に描かれはじめていた、男の子のお母さんの穏やかな声がつづけて聞こえた。
「こんにちは」
ぼくは、ご両親をチラと見たのだろが、本当のところ、男の子の視線をずっと受け止めていたのかもしれない。その視線は「コレカラ3プンカン、マバタキモセズニ、ミツメナサイ」というプログラムに従順に従っているようだった。
お父さんの面白がるような、
「ほら、困ってるよ。ボール遊びしよう、ヨシちゃん、こっちこっち」
つづけてお母さんの、
「ヨシアキちゃん、困まらせちゃだめよ。お父さんとこにボールがあるよ」
という声がした。
実際ぼくは、子どもの純粋な目でじっと見つめられるのが、苦手だったので、ちょっと困っていた。いや、ちょっとどころではなかった。とても困っていた。でもなぜか視線を合わせつづけていたい気持ちがあった。
「こんにちは」
現実に戻ったぼくは、感情を込めた声でヨシちゃんと呼ばれる彼と見つめ合ったまま、もう一度挨拶をしてみた。
でも、じっとは何も変わらなかった。
ぼくは空虚に思える挨拶を何度か繰り返した。
「ヨシちゃん、ほらほら困ってるってばー」
「ボールで遊ぼうよー、おじさん困ってるよー」
どれくらいそうやって見つめ合っていただろうか。彼からすれば何かに興味深々であり、視線を逸らせられない理由があったのだろう。そしてぼくからすれば、真剣ゆえに一種無表情に見える彼の視線の奥にある興味がどこにあるのかを知りたかったのだろう。
永遠のような時間が過ぎたあと、ヨシちゃんと呼ばれた男の子は、不満とも退屈ともいえないなおざりさを漂わせてボール遊びをはじめた。
ぼくはイヤホンをはめ直して、音楽の世界に戻ろうとした。だが、彼の興味がどこにあったのかが気になって、愉しむどころではない。男の子もぼくも、どこかそわそわとして、互いを気にしあい、ときどき視線をぶつけあっていた。
一体どうしてあんなに見つめてきたのだろうか? きっと何か気になることがあったに違いない。彼がじっとをはじめる前に、ぼくは何をしていたっけ? そうだ、人間ドラムになりきり、呼吸で詩を歌っていたんだ。ということは? そうか、そうか、わかったぞ。彼はきっと……。
降ってわいたような清々しさがあった。だけれどもぼくが推察したことが正しいとは言いきれない。さてどうしたものか。またしても困ってしまったとき、偶然なのか必然なのか、彼がまた意味深な顔をして近づいてきたのだ。まろびそうになりながら。
また困らせては……と思ったのだろう、ご両親は彼のすぐ傍らにいた。
ぼくはゆっくりとイヤホンを外して、お父さんに向かって口を開いた。
「ぼくさっきリズムとってたんですけど、多分、それが気になったんだと思いますよ」
「ああ……」
とお父さん。
隣のベンチにいた男の子が会話を聞いて、すぐ近くにやってきた。
「これが気になるんでしょ。音楽だよ。聞いてみる?」
ぼくは手にしたイヤホンを彼の両耳に近づけてみた。
さっきとはすこし違うじっとで彼はぼくを見つめていた。でも、その顔には音に耳を澄ましている表情が入り混じっていた。不思議に思い吃驚したのか、しばらくすると彼はイアホンから離れた。でも興味を失ったようではなかった。
「ヨシちゃん、初体験だねー」
とお父さん。
なんだか嬉しくなり調子に乗ってしまったぼくは、
「これは、スター・ウォーズっていうやつだよー。もう少し聞いてみる?」
そう言って、またイヤホンを近づけてみた。
「音楽だよ、恐くないよ」
イヤホンを中ぶらりにして揺らすと、彼の目がそれを追っているのがはっきりわかった。
「ほら、パン、パカ、パーン、て」
男の子は聞きたいのと恐れが入り混じった顔をしながら、しばらくオーケストラの奏でる音に耳をそばだてたりしていた。
次の瞬間、男の子がこの世のものと思えぬ笑顔で笑った。天上の笑顔というやつだ。産毛のある小さな耳が天使の羽のように見えた。そしてまたその瞬間こそ、男の子が男の子でなく、ヨシアキちゃんというひとつの人格をもった人間として、ぼくの心の画布にはっきりと描き出されたときでもあった。
公園を散策したことで溜まっていた熱はとっくに去っていたが、心は妙にあたたかかった。
人間は地上に生きているのではない。地上数センチからはじまる空に暮らしているのだ。そんなわけだから、ちょっとした愉しさを分け合うことさえとても苦労するのだ。空に浮かんだ白い雲を掴みあおうとしているのだから。