第2章 盗難
恒藤の机の上にはUFOキャッチャーで落ちてきたぬいぐるみが置いてある。なんの変哲もなく、個性も見受けられない、中国のアセンブリーラインで量産されたものだろうが、恒藤には何故かこのぬいぐるみが特別なもののように思えた。しかし、いくら眺めても、いくら待ってみても、このぬいぐるみは粛然と机の上に固まっている。
さっきのあれは何だったったんだろうか? こういう場合にふと脳裏をよぎるのは当然トイストーリーである。ウッディやバズ・ライトイヤーのように生命があり、人目を忍んで人形たちの世界を営んでいるのか? ついに彼らもボロを出して俺の前で手を動かしてしまったのか?
そうやって想像を膨らませているうちに、恒藤も段々と馬鹿馬鹿しくなってきて、ベッドに寝転んだ。明日からは通常の時間割りだなあ。そう思いながら天井を見つめていると、睡魔が彼を襲い、微睡んだかと思うと、いつのまにか深い眠りの中へと落ちていった。
そしてしばらく何もない日が続いた。
恒藤はまるで用水路に落ちた枯葉のように、穏やかな水流にじっと身を任せ漂うような生活を送っていた。しかし、彼に事件が訪れた。
体育の授業が終わり、着替えを済ませて教室に戻ってくると、後ろの席の方で人だかりができていた。普段の様な賑やかさかはなく、辛辣な静けさを漂わせていた。
「え? 何事?」
恒藤と共に行動していた友達は、教室に入るなり一目散に付近にいたクラスメイトに訊ねた。
「盗難らしいよ」
一番近くにいた女子が残念そうな顔をして答えた。
「財布と家の鍵が無くなったんだって」
人だかりの中心にいたのはクラスの中でもいたって優等生で真面目な山下沙也加だった。どうやら、彼女が被害者らしい。恒藤は山下と特別縁があったわけではなかったが、クラスの男子の何人かが彼女に好意を抱いていたことを知っていた。
「本当に盗まれたの?」
恒藤はさっきの女子に訊ねた。
「多分そうだと思うよ。たまたま今日は貴重品類を更衣室に持っていかなかったみたいで、心配して戻ってきてすぐ確認したら案の定無くなってたらしい。沙也加は真面目なのにちょっと抜けてるところあるから」
「なるほど」
山下沙也加の周りでは教員を呼ぶか警察を呼ぶかの相談が始まっていた。確実に盗まれたという主張があるのは山下ただ一人で、他の人には悪質な盗難かどうかの確証がつかめずにいたのだった。もちろん、当の本人もどこかに無くしたのかもしれないという疑念もなかったわけではなく、身の周りをくまなく探し、記憶を必死に辿っていた。
「まあ、俺らにはわからないよな。早く警察を呼んだ方がいいんじゃね?」
恒藤の友達はさほど関心がなさそうにそういうと、自分の席にさっさと戻っていった。恒藤も戻りかけようとしたが、さっきの女子が恒藤を引き止めた。
「あいつ、女子に対してやけに冷たいよね。まあどうでもいいけど。恒藤くん、先生に知らせてきてくれない?」
そう言い終わるか終わらないかのうちに、次の数学の授業の教師の小沼が教室に入ってきた。彼は髭を不精に生やしたがたいのいい中年で、その見た目に反して陽気な人柄から、生徒の人気を集めていた。授業の腕もさながら、高校生の扱いも手馴れており、授業以外のことにおいても世話焼きな性格だった。
恒藤が事情を説明すると、山下沙也加と教師の小沼は授業開始ぎりぎりまで話し合いをした。小沼は今日の放課後にでも警察に被害届を提出することを勧めた。警察の捜査だと見つかる確率はかなり低い可能性があるから、家の人と相談して鍵を作り直すことも視野に入れるように、と小沼は最後に判を押した。
その放課後である。恒藤は学校から駅へ向かう帰り道に山下とすれ違った。彼女は玄黙な表情で脇道から出てくるところだった。
「あれ、どうした?」
恒藤は思わず声をかけてしまった。山下も声をかけられたことに一瞬驚いたが、
「…ああ、恒藤くん。警察に行こうと思ったんだけど、やっぱりやめた」
と、今にも泣きそうな声を出した。恒藤は初めて山下沙也加の顔をまともに見た。真っ直ぐな黒髪が垂れる奥で、丸い瞳は薄く濡れていた。
「何故?」
恒藤は不思議に思った。何故今にも泣きそうなのだろう。
「警察に言っても今すぐに見つからない気がするし、両親に電話がいったら仕事の邪魔になっちゃう」
「で、これからどこに行こうとしてるんだ?」
「塾かな。鍵がなくて夜まで家に帰れないから」
そう言うと、山下は一層目を濡らせたが、すぐさまカーディガンの袖で軽くそれを拭き取って、軽くうなだれた。恒藤は久々に人を可哀想だと同情した。それから、さっきの状況を思い出して、何か力になれないかと考えた。
そういえば、と恒藤は思った。実は先程の数学の授業中にぼんやりと考えていたことがあった。
「もしかしたら、犯人が見つかるかもしれない」
と、恒藤は言った。
「実は、体育の時間中、俺はいつも財布はカバンに入れたままなんだ。今日もそうだったけど、1円も盗られてない。さっき状況を知って少し考えたんだが、犯人は身近な人間だと思う」
「どうして?」
山下は不思議そうに訊いた。恒藤は続けた。
「俺の財布が盗まれていないことから、おそらく無差別な金銭目当ての犯行ではない。さらに鍵まで持ち去ったのだから、住所を知っていたり山下さんのことをよく知っている人物だということが伺える。多分、家の財産か、山下さんに対する嫌がらせを目的としてるんだろう」
と言いながら、恒藤は一人の人物を思い浮かべていた。同じクラスの椚田善光だ。確証が得られているわけではないが、山下沙也加に関係がある人物の中ではもっとも怪しい一人だった。椚田は一見普通に見えるが、心底では金に執着心が強く、いざという時には何を仕出かすかわからないような人間だということを、恒藤は知っていた。そして、山下沙也加に好意を寄せているということも。
恒藤は椚田がどことなく嫌いだった。グループディスカッションの授業の時に同じ班に割り振られたことがあった。頑なに自分の意見を曲げないところは恒藤に似通うところもあったが、行動、思想には何か危なげなところがあった。恒藤の班に与えられたお題は、「少子高齢化が進むに連れて、地方都市に何が起こるか」を議論して、問題点を絞り、その解決策の一例をあげるという事だった。椚田は、若者の生活満足度という観点から高齢化加速説を唱えた。
「高齢化が進むに連れて問題になるのは、若者の生活満足度の低下だ。高齢者の割合が増えると、地方自治体は予算をより福祉に回さなくてはいけなくなる。その他の予算を保とうとすると、税率が上がるだろ。そうなると今でもギリギリな地域活性化のクオリティーが下がり、娯楽施設すらまともなものが少なくなる。それらに不満を持った若年層は上京して出ていくから、高齢化は加速していくと思う。どうすればこれらの状況を打開できるか? 簡単な話、高齢者と若年層を地域的に分ければいい。こっちは高齢者の街で巨大な老人センターのビルが聳え立ち、この街は若者の街で巨大な河合塾が聳え立つ、といったように」
椚田は満足げにそんなことを言った。