7.神はいない
退路は断たれた。
こうなってはナルセの提案に従うほかない。今、俺が死なないためにすべき最良かつ確実な手段はこの二人を黙らせおとなしくさせること、すなわち子供を生かすことだ。
こういうときこの特区の制度、連座制の恐ろしさを痛感する。信頼どころか素性も何も知らない他人に自分の生き死にを委ねなくてはならないのだから。そういう意味ではナルセは至上最悪の運命共同体だった。偶然相部屋になったにしてはひどい采配ではないか。やはりここに神はいないのだろう。
「……分かったよ」
「オオノ!」
「ただし! 今からは俺に従え。いいな?」
「……この子に害は加えないか?」
不安げな表情になったナルセに同調するように、そっくりに眉を下げた子供がナルセの腰に抱きつき俺を上目使いに見上げてきた。俺はそれを目線だけで受け止め、腹から深く息を吐いてみせた。
「分かってるって。俺だってまだ死にたくはない。……ああ、お前らはここで待ってろ」
少し歩いたところに赤髪の守衛を見つけ、俺は有無を言わせず二人から離れた。台車を曳いて守衛に近づき、挨拶と共になるべく事務的に告げた。
「被験者に選定されていたF棟のジウという子供がいたそうですが、このとおり今朝死んでいました」
その守衛は死体を金色の瞳でちらりと見て「死んだ者は不要だから捨ててこい」と淡々と述べた。
アルファ系はデルタ系の顔を識別できない、らしい。同じ黒髪黒目で、特に同年代は個体差がないように見えるそうだ。であれば、少し離れたところでナルセと共に待つ子供と台車の遺体、二人の違いも分かるわけがない。それゆえ報告という名のこの壁を乗り越えれば後はなんとでもなると俺は予想したのだ。案の定、うまくいった。
だから立ち去ろうとし、「ちょっと待て」と背後から声を掛けられた瞬間。
緩みきっていた俺の心臓は痛いくらいに飛び跳ねた。
だが実際はただ不思議そうに訊ねられただけだった。
「お前達デルタ系は血が流れ続けると死ぬらしいが本当か?」
いわく、今日の研究は『どこまで血を抜いたら死ぬか』という課題の元実行されるものらしい。さまざまな年齢の被験者を集めて実験するそうだ。サンプル数は大目に用意されているそうで、一人不足しても結果には大きく影響しないようなことも言った。
「血の色は同じなのになぜこうも違うのだろうな?」
じっとこちらを見つめる金の瞳は幼子のように無垢で澄んでいた。それに俺はとっさに頭を下げていた。他にできることは皆無だった。言葉は恐怖によって完全に失われ、だが怯えを表に出さないように必死の思いで頭を下げ続けるしかなかったのである。
純な心から発せられる問いには時として極悪な威力がある。
そしてその疑問を解消するために俺達はここに集められているのだ――。
そう自覚させられることは、喉元に添えられている刃を目視するよう命じられたかのようだった。
刃は初めからずっとそこにあった。なのに見えないふり、何もないふりをしてきたのは俺自身だ。なんて愚かな自分。嘲笑する現実。どんなに賢く器用に振る舞ってみせても、俺はただの劣位種、デルタ系でしかないというのに――。
守衛が去り、ようやく戻ってきた俺の様子がおかしいことにナルセは気づいたようだった。だがナルセは何も言わず、俺も口を開こうとはしなかった。
俺達は無言で台車を曳き、焼却場に入り、死体を積むエリアにソウ――今はジウの体をそっと横たえた。今日一番の仕事だからここにはまだ他の死体はない。
俺はジウのそばで手を合わせた。ここには俺達のための神はいない、それはついさっき痛感したばかりの絶望だ。だが分かっていてもなぜかそうしたくなった。
神を求める頭の中で、なぜか赤髪の守衛の言葉が幾度もリフレインした。閉じる瞼の裏では二つの金の瞳がじっとこちらを見つめてきた。合わせた手のひらが恐怖に同期して震えるのを、力を込めて押さえつけながら――俺は長い時間神を求め続けた。
やがてナルセが俺の隣に膝をつき、同じように手を合わせた気配を感じた。
「……デルタ系には神はいないって言ってなかったか?」
答えは返ってこなかった。