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レジスタンス-それはありふれた絶望だった-  作者: アンリ
第四章 圧巻のナイチンゲール ―ワタベ―
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8.来世での幸福を捨ててでも

 そしてミヤギは宣言したとおりに実行した。


 毎日毎日、朝昼夜と。


 まずは軽く喉を慣らす。やがて時間が来たら、配膳口の近くで歌を歌い出す――聞きとがめられない程度の声量で。


 朝は聞く者すべてに活力を与える歌を。

 昼は聞く者すべてを労わる歌を。

 夜は聞く者すべてを癒す歌を。


 歌詞はミヤギが自作した。ナイチンゲールの声は室内では聞き取りにくかったから、こういう歌なのだろうと想像して音に言葉をあてがったのである。それは俺が思ったとおりの言葉の連なりで――初めて聞いた時には涙をこらえるのに精一杯だった。



 *



 いつだってミヤギの暴挙を止めることはできた。ミヤギや俺だけではなく、この部屋に住むすべての人間のために、こんな危険な行動をゆるしていてはだめだと分かっていた。


 だがミヤギの歌を聞いた瞬間、俺はもろ手を挙げてこの運命に降伏した。……するしかなかったのである。


 間近でナイチンゲールの歌をもう一度聞くことができた幸福は、きっと今生において最高のもので、それゆえ見たこともない来世への憧れは急速にしぼみ、代わりに現実の歌、刹那の甘いひとときに酔いしれたのである。


 キリュウには当然脅された。あのおっさんは何をしているんだ、と。早くやめさせろ、と。


「お前達が転造機の前で毎日無駄話をしているのは知っているんだぞ」


 うらやましいほどに立派な二の腕をちらつかせながらすごまれたが、俺は一切ひるまなかった。そして自分でも意外なほど冷静に応じることができた。


「キリュウはこの部屋の長だからおっさんの歌を止める権利がある」

「歌? あれは歌というものなのか」


 これには答えず、「覚えてるか?」と続ける。


「前に歌いながら配膳をしていた青年がいただろう? 彼は死んでしまった。だからおっさんは彼の歌を歌い継ぐことを決めたんだ。歌には伝えたい何かを伝える力があって、彼が伝えたかったことをおっさんは代わりに伝えていくと決めたんだよ。なあ、キリュウはおっさんの歌を聞いてどう思う?」

「どうっ……て」

「もしもあの歌に怒りや恐れだけでなく、何か惹かれるものを少しでも感じてくれているなら……それがおっさんが遺したいものなんだと俺は思う」


 きつく唇を結んだキリュウだったが、ようやく言った。


「それは正しいことだと思うか?」


 正しいか正しくないか――それは非常に重要な判断材料だ。


 物事を判断するときには正しさを重視するよう俺達は教育されている。


 その正しさを証明するものとは、教科書や新聞――アルファ系が監修する文献――、それに親や先生といった年長者の発言――アルファ系の教育を受けてきた人間――との整合性、相関度しかない。


 感情で動いてはいけない。一時の衝動で決めてはいけない。自らの愚かさを自認し、賢い者に従う謙虚さを忘れてはならない。


 楽な方に流されてもいけない。美味いものばかりを摂取すれば醜く肥えて早死にするのと同じ理屈だ。苦しいことに美徳を見出せる人間となれば一人前だ。


 それは幼い頃より繰り返し言い含められてきたことだった。


 デルタ系であれば誰もがそうだ。


 だが――。


「俺は正しいと思っている」


 ああ――俺は天性の愚か者なのだろう。


 何を欺いても、何に背いても、来世での幸福を捨ててでも――ミヤギのしていることを支持したいのだから。


 俺の中に住み着いた歌、音楽は俺をおかしくさせているのかもしれない。


 いや、それはミヤギもだ。ミヤギこそが狂人の筆頭だ。


「もしもおっさんを止めたいなら、キリュウ、あんたがやってくれ。俺にはできないよ」


 すまないと言い添えると、キリュウはしばらく押し黙り「少し考えさせてくれ」と言った。



  ◇◇◇



 死という名の峡谷の間に渡り綱一本で立っているような、そんな日が続いた。


 粛々と歌を歌いつづけるミヤギの表情は常に穏やかだ。だがそれは明らかに死を覚悟したうえでの穏やかさだった。


 俺も、キリュウもタケダも、そんなミヤギの歌を黙して聞き続けている。もはや誰にもミヤギを説得することはおろか、力づくで止めることができなくなっていた。それに俺以外の二人もミヤギの歌から言葉で言い表せない何かを得ているような――そんな気がしていた。


 だが正直――いくらミヤギが歌っても何も変わらないだろう。歌は刹那の快楽となんら変わらないからだ。しかもこの快楽は致死性の毒を多分に含んでいる。ミヤギが歌うことは、俺とミヤギだけではなく、無関係なキリュウとタケダの命まで危険にさらしているのだから。なのにどうしてこんな無意味かつ危険な行為を黙認しているのか……自分でも分からなくなる時がある。他の二人もきっと同じような心境にあるはずだ。


 だがある日、状況が変わった。


 配膳口の戸がいつものように開いたとき、顔を見せた若者がトレーを差し出しながら、歌うミヤギに向かっておそるおそる訊ねてきたのだ。


「その歌はワカバの歌……ですよね?」


 突然の問いにミヤギがうろたえた。この特区の不文律として、他の部屋の者と私的な会話をすることは禁じられているからだ。


 若者は答えないミヤギに対して丁寧に頭を下げた。


「いつも歌ってくださってありがとうございます」


 思わず歌をやめたミヤギに若者はほほ笑んだ。


「ずっとあなたの歌を聞いていました。毎日ずっと。歌詞は違うけれどあなたの歌はワカバの歌です。あなたはワカバの歌がすごく好きなんですね」


 ミヤギがためらいながらもうなずくと、「やっぱり」と若者が笑みを深めた。


「僕はあなたの歌を覚えました。あなたが毎日歌ってくださったから覚えられたんです。だからこれからは僕が歌います。あなたよりも僕のほうが危険が少ないですから」


 確かに、外に守衛がいるかどうかも分からずに歌う日々は、この部屋の人間にとって決死の行動だった。


 ミヤギが何も言えずにいると、若者はもう一度「ありがとうございます」と言った。


「僕だけじゃないんです。配膳係の誰もがワカバの歌を覚えきっていないことを残念に思っていたんです。歌を歌うということに慣れていないから……。僕や他の人間、それにあなた。これだけいればもう大丈夫です。誰か一人でもいれば、ワカバの歌を受け継いでいくことができます」


 そうして僕達は生きていけるんです――そう若者が言った。


 この世界でずっと――そう言って若者がほほ笑んだ。


 ミヤギの背後で若者の話を聞いていたら、喉の奥からせりあがってくるものがあった。


 そうか――俺はこの世界でずっと生きていたいんだ。

 来世がどうとかではなく、この世界で生きていたいんだ。

 どんな俺であろうとも、この世界で生きていたいんだ。


 ただそれだけなんだ――。


「どうか……歌ってください」


 ミヤギが肩を震わせ、言った。


「わたしもこの歌とともに生きます。皆さんと生き続けます」


 その日から歌を歌うのは配膳係の隠れた仕事となった。



 *



 そのわずか二日後にキリュウが新棟へと招かれた。


 守衛に呼ばれて部屋から出る寸前、キリュウは「抱きしめてくれないか」となぜかミヤギに乞うた。「もちろんです」と応じたミヤギは自分よりも頭一つ背が高いキリュウの背に腕を回した。


「サンのことはずっと覚えていますからね」


 ミヤギの肩に額を載せたキリュウの目には、いつからだろう、涙が光っていた。


「さっきのはどういう意味なんだ」


 キリュウが去った後にそっと訊ねると「わたし、キリュウの親御さんに似ているらしいんです」とミヤギが嗚咽をこらえながら言った。


「どんくさいところもわたしによく似ているって言ってました」

「そっか」


 なぜキリュウがミヤギばかりに突っかかっていたのか、そのくせミヤギが歌うことをゆるしたのか、それになぜミヤギがキリュウのことをサンと呼んだのか――それがようやく分かったのである。


 それからほどなくしてミヤギもキリュウの後を追った。そして俺も年を越す直前に二人と同じ運命をたどったのである。


「ほら。もっと悲しみなさい。もっと、もっとよ!」


 小学校の入学式で初めて見たアルファ系――あの女神を彷彿とさせる女性によく似た研究者によって、この長くもない人生を終えたのだった。


「……んもう。どうして泣かないのかしら。駄目なサンプルね」




 駄目ですみません――とは思わなかった。


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