7.わたしがここに来た理由
正直、タケダの話はまったく理解できなかった。
祈るとは神に対する行動であり、己のすべてをつまびらかにすることだからだ。
それが――『祈る』とは祖先や自然界と繋がりたい時にすることであり、死後、人は精霊――天使のようなものになるのだという。しかも、そんな与太話を信じている人種が――俺達やアルファ系とは異なる人種がこの世界にいるのだという。
――まったく理解しがたい。
だからタケダの話はミヤギに伝える気にもならなかった。……伝えられなかったというのが正しいのかもしれないが。
そんなミヤギだが、数日もするとなんとか自力で立ち直ってくれた。だがミヤギは変わった。ほとんどの時間を一人寡黙に過ごすようになってしまったのだ。
そんなミヤギに俺は掛ける言葉もなかった。いや、それどころではなかったのだ。ナイチンゲールを最後に見かけたあの日のショックが今更ながらにみぞおちに響いて辛く――そう、ありていに言えば、生きていることそのものが苦しくてどうしようもなくなっていたのである。
俺にとって、生きることとは息をすることと同じ、ごく当たり前のことだった。そこにいれば自然としてしまうだけの行動、そんなものだったのだ。この特区に収容されてからはその考え方が顕著になっていた。生死をアルファ系に委ねているがゆえに、生とは自分の手の内にあるものではなくなっていたのだ。
だがあの衝撃の光景に出くわして以来、この事実に抗う気持ちが芽生えてしまったのである。
ここに来てからも毎週、神への供物として血液を捧げてきたけれど、あの採血されている時の充実感も光悦も、今ではまったく感じなくなってしまった。それどころかおぞましさすら覚えた。俺の命を勝手に奪わないでくれ――と。
それほどまでに今ここで生きていることが苦しく、辛かったのである。
だがミヤギは俺とは違った。
ただ悲しんでいるわけではなかったのだ。
さらにひと月ほど過ぎたある日、ミヤギが俺に向かって高らかに宣言したのだ。「わたしがナイチンゲールになります」と。転造機に油をさしながら。
予想外の発言に、俺は作業の手を止めてミヤギのことを唖然と見つめた。しかし、ミヤギは俺の懐疑的な視線を受けてもいっこうに恥じることも怯むこともしなかった。
「それはいったいどういう意味だ?」
ようやくそれだけを問うと、ミヤギが軽く目を見開いた。
「どういう意味ってそういう意味ですよ」
「だからどういう意味だよ。全然わからん」
苛立ちつつある俺に対して、ミヤギは冷静なままだ。
「ここ最近、わたしはナイチンゲールの歌をずっと思い出していました」
「ずっと……って」
そこでようやく得心がいった。
「まさかずっと黙っていたのは」
「そうです。頭の中に楽譜を描いていたんです」
「……楽譜?」
「楽譜とは音の設計図のようなものです」
ミヤギがにっと笑った。
「わたし、実は楽譜を理解しています。自分で音楽を作ったこともあるんですよ」
「……それは本当なのか?」
青天の霹靂だった。
デルタ系には音楽を生業とする者はいないはずだ。
なぜならデルタ系は音楽というものを知らないし、音楽を聞く習慣も権利もない。
幾度も目をしばたく俺に、ミヤギが根気よく説明をしていく。
「音楽を作る人を作曲家といいます。音は自由だと以前言いましたよね。そういった音をどういう順序とリズムで繋げていくかを決めるのが作曲家の仕事なんです。音をね、楽譜に特殊な記号で記すんです」
「記号……」
「ええ。ようやくすべての楽譜を完成させました。ナイチンゲールがこれまで歌ってきたすべての歌をこの頭の中に描ききることができたんです。ああ、暗譜は得意なんですよ」
「ちょちょ、ちょっと待てよ。てか、なんでおっさんは音楽にそんなに詳しいんだよ」
以前も似たような質問をしたことがあるが、答えてもらっていない。
「だからわたしは作曲家なんですって」
「もっときちんと説明しろ」
引き下がらない俺に、ミヤギが根負けしたように語り出した。
「確かにデルタ系には本当の意味での作曲家はいません。わたしも自称作曲家です。……わたし、実はケアンズでオーケストラの楽器の手入れ係をしていたんです」
「ケアンズ? オー、ケストラ?」
「ケアンズはアルファ系の住む都市の一つです。オーケストラというのは、たくさんの楽器でもって演奏をする集団のことです。オーケストラのための大きなホールがあるんですけどね、一度に二千人が入ることのできるそのホールに、目にも眩しい衣装をまとったアルファ系が夜な夜な集まるんです。そしてオーケストラの演奏を聞くんです」
夜とは家で静かに過ごすものじゃないのか?
夕食をとり、入浴し、今日の出来事を事細かに日記につけ、家族がいれば相互に語らい、そして明日の労働のために眠る――それがすべてではないのか?
「わたし、ケアンズ生まれなんです。ホールの地下で育ち、物心ついたときから家族とともに楽器を手入れしてきました。リードを作るのも弦を張るのも任されていました」
おっさんは俺の知らない世界を語り続ける。
「ケアンズにもケアンズで働くデルタ系のための学校がありましたが、中学卒業後はホールから一歩も出ず、朝から晩まで毎日仕事をしていました。だからアルファ系の演奏も毎日飽きるほど聞いていたんです」
もちろん、若かりし頃は音楽についての造詣は何もなかったという。ただやるべきことを淡々とこなすだけの日々だったそうだ。
ただ、意味は分からないながらも四六時中音楽を浴び続け、言葉にならない感情を揺さぶられ続けたミヤギは――ある日、廃棄を任された楽譜に何気なく目をやり、唐突に気づいたという。ち密に設計された音が連なると音楽になり、楽譜はその設計図だということに。
その頃にはミヤギはすでに音楽を好きになっていた。だから楽譜を独学で解読しようとしたのは自然なことだった。ちなみに作曲をするようになったのは四十代に入ってからだそうだ。父母が相次いで死に、妻と二人の子を抱える一家の長として強い不安を覚え――それが処女作を生み出す衝動、きっかけとなったという。
「何かを吐き出す方法がほしかったんですよね。それがわたしにとっては身近な音楽だったというわけです。夜にちまちまと、ね。一曲作るのに半年かかりました」
「そりゃあ……すごい」
「すごくなんてありませんよ。さっきも言ったように自称作曲家ですから、これまで作曲したものは家族にすら聞かせたことがありませんし、楽譜にもしていません」
「それはデルタ系の間ではそういうことをしないのが当たり前だから……なんだろう?」
「まあ平たく言うとそうです」
渋い顔をしてうなずいたミヤギだったが、すぐに表情を明るくした。
「でもそんなわたしの役に立たない能力が役立つときがとうとう来たんです。ナイチンゲールの歌はすべて頭の中に入っていますから、朝昼夜と、これから配膳の時間に歌います」
「そんなことに意味があるとは思えないよ」
冷たく聞こえるかもしれないと思いつつも私見を述べたが、ミヤギはすでにやる気に満ちあふれていて「聞こえる人にだけ聞こえればいいんです」とまで言う。
「耳にこびりついて忘れられなくなるまでずっと歌ってやりますからね。わたしがここに来た理由はきっとこのためなんです。そうですよ、きっと」
いつしかミヤギはあり得ないほど興奮し、紅潮した顔、額にはうっすらと汗もかいていた。




