6.ナイチンゲールの消失
ガタガタと軋む台車の音が聞こえたら、それが配膳の合図だ。日に三回の食事は、こうして毎日定刻どおりに各部屋に配膳される。日常は日常のままだ。
だが――そこにはもはやナイチンゲールの姿はなかった。
歌を口ずさむ鳥はいなくなってしまったのである。
たった一羽の鳥がいなくなっただけで、ミヤギは唯一の灯を失ったかのように分かりやすく落ち込んだ。あのキリュウまでもが「静かすぎるな」とつぶやいたほどだった。
雨が降る直前の曇天のような重い空気が、気づけば俺達の部屋を支配していた。
*
衝撃の場面を目撃してから三日後のことだ。
工場からの帰り道、疲弊し、力なく最後方を歩いていたら、タケダが足を緩めてわざと列から距離をとりつつ俺に近づいてきた。
「ミヤギさん、大丈夫でしょうか」
周りを気にした小さな声だが、その問い方には労わりが感じられた。だから俺も素直に自分の思いを吐露していた。「俺も心配してるんだ」と。
ナイチンゲールの消失――これはもしかしたらアルファ系がミヤギに与えた罰なのかもしれない。そんな風にすら思えていた。だとしたらこれはとても重い罰だと思う。ここでの唯一の楽しみ、喜びを奪われたら、ミヤギに残されたものは悲しみだけではないか。そういう状況を絶望というのではないだろうか。
ミヤギは絶望しなくてはならないほどに罪深い愚か者なのだろうか。
もしもそうなら――俺も右に倣え、だ。
俺も感情を隠してはいるものの、ミヤギと肩を並べるほどの強い消失感を味わっていた。こんなことなら歌なんて、音楽なんて知らなければよかったと思うほどに。
もしかして――何かを失うことでここまで悲壮になれる単細胞だと見抜かれていたから、だから俺やミヤギはここに収容されているのかもしれない。
そんなことも思ったりしている。
「あの配膳係……多分ですけど、隠れガンマ系だったのかもしれません」
ガンマ系を知ってるかと問われ、首を振る。
「ですよね」とタケダが薄く笑う。
「僕はアオモリに住んでいたんです」
ぼんやりとしていた俺の頭に、その物珍しい地名が風を吹き込んだ。
「この国の最北端に住んでいたのか」
思えばこの若者とこうして身の上話をするのは初めてのことだった。
この収容所では盗聴器や監視の類が数多く配されているから、気軽に会話をすることができない。だから、ここに収容されて最初に話をする相手といえば、普通はアルファ系の守衛だったりする。気安く話しかけてくれるのも、この特区での常識や日常を事細かに教えてくれるのも本当にありがたく思っている。……とはいえ同胞と会話しにくい雰囲気には正直息がつまりそうになることもあるが。だから今も周囲に視線をやりながら慎重に会話をすすめている。
「だがアオモリにはあまり人は住んでいないんだろう?」
インフラが未整備だから冬は住めたものではないと聞いたことがある。それを伝えたところ、タケダが寂し気な笑みを浮かべた。
「一応それなりには住めるんですよ。確かに年中極寒ですが、インフラなんてものがない時代にだって人は住んでいましたし」
「えっ。インフラがなかった時代なんてあるのか?」
「……はは。そう信じているんですね。知らされていないっていうのが正解かな」
その言い方にむっとした。
「知る必要があることはきちんと学校や政府によって知らされている。それでいいんだよ。俺達デルタ系はそれでなくたって馬鹿なんだから。なんでもかんでも知ろうとしても頭がおかしくなるだけだ」
俺やミヤギにとっての歌、音楽のように――。
嫌な雰囲気になりかけたが、先に折れたのはタケダの方だった。
「すみません。今はその話をする必要はなくて。僕が言いたかったのはあの人は隠れガンマ系だったんじゃないかってことで」
いわく、ナイチンゲールが色白だったのは、純粋なデルタ系ではなかったか、隠れガンマ系となってビーハイヴよりも北方に住んでいたからではないかとのことだった。
「僕はアオモリの最北部、海沿いの村に住んでいたんですけど、そこでは冬になると食料を求めてガンマ系がやってくるんです。彼らはあの配膳係よりも色白なんですけどね」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
あわてて話を止める。
「さっきから聞いていたら変なことばかり言うんだな。お前が言うことを真に受けると、人間にはアルファ系とデルタ系以外の人種もいるってことになるぞ。そんな話は聞いたこともない」
上と下、天と地、良と悪、優と劣――そんな風にこの世に存在するものは二つに分類できるものだというのは常識だ。人間でいえば、それはアルファ系とデルタ系のことでもある。
「それにビーハイヴよりも北に人が暮らせる土地があるなんて話も知らないぞ」
「すみません。それについても今は論点じゃなくて。ええと、つまり。そう、僕が言いたいのは、あの人はきっと精霊になったんですよ」
「精霊?」
「ガンマ系は自分達のことをアースリング<地球人>と呼んでいます。すべてを自然に委ねた生き方を信条としているそうですよ。あ、ガンマ系はですね、僕達デルタ系とも、すべてに優れたアルファ系とも違う人達なんです」
なぜタケダがこの摩訶不思議な話を始めたのか、それは次の台詞でようやくわかった。
「ガンマ系の人達は会うたびに自分達の仲間になることを勧めてくるんです。彼らの仲間になれば、自然界に住む精霊の加護を受けられるようになるんだそうですよ。そして死を恐れることがなくなるんだそうです。死後、魂は精霊へと形を変えるだけだと言っていました。まれに彼らについていってしまう人がいるんですけど、残された家族は、山から転落したとか海に落ちたことにして、その人を戸籍から除外しています」
壮大なおとぎ話を聞いているようだ。
精霊とは何かと訊ねたら、天使のようなものだと答えられた。
「いえ。僕も詳しいことは知らないんです。……ただ、あの朝、あの人の不思議な声を聞いていたらふと思い出したんですよ。ガンマ系も時折ああいう感じの声を出していたなって。しゃべるのとは違っていて、だけど違和感とか恐ろしさは全然なくて……そういう声を」
ある日、誰かが彼らに訊いたらしい。何でそんな不思議な喋り方をするんだ、何を言っているんだ、と。するとそのガンマ系はこう言ったそうだ。祈っているんだ、と。
「自然界の至るところに精霊がいるんだそうですよ。目に見える見えないは関係なく、感じるものなんだとか。そして精霊の気配を感じた時、祈りだというあの奇妙な声を発するんです」
「祈、り……」
「ええ。自分達の祖先や自然界との繋がりを感じたいとき、ああいう変わった声の出し方をするんですって。それが祈るということなんですって。だからあの人、きっと隠れガンマ系だったんですよ。だから死ぬことが怖くなかったんですよ。きっとあの人には見えていたんです。精霊や、死後の安らかな世界が」




