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レジスタンス-それはありふれた絶望だった-  作者: アンリ
第四章 圧巻のナイチンゲール ―ワタベ―
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5.歓喜の歌

 それからも朝昼晩と配膳係の青年は歌を歌い続けた。


 ミヤギは青年が来るのを配膳口の前で忠犬よろしく待ち続け、戸が開けば嬉々として食事を受け取っている。


 そして俺に新たな趣味、もとい習慣ができた。食事をとりながら、今しがた聞いたばかりの歌を脳内で反すうするのである。メロディというものを意識すると以前よりも歌を覚えていられることに気づいたのは大発見だった。


 数日とたたずにキリュウには嫌味を言われた。


「お前までおっさんのような顔つきになりやがって。気持ち悪いんだよ」


 だが歌を思い出している時間はどうしても顔が緩んでしまう。


 だからある日、思いつきでルームメイトに背を向け、どぎつい色の壁を見ながら食事をしてみた。やってみると意外と悪くなかった。貴重な食事の時間に好きなように彼の――ナイチンゲールの歌に思いを馳せることができたから。


 まだ正確な歌詞を聞き取ることはできていない。廊下の向こう側から現れてそのまた逆の角を青年が曲がるまで、ややくもぐって聞こえる声を耳で追うので精いっぱいだ。しかし、ナイチンゲールの歌には確かに真心がこもっていた。気まぐれだろう、日によって音階やテンポが変わることがあるが、青年の歌は俺の心にいつも何かしらの感情を励起したのである。


 そう、この頃には音階だとかテンポだとか、ちょっとした専門用語までミヤギから教えてもらっていた。鞭で打たれた日に優しくしてやったからか、ミヤギは俺にさらなる親しみを覚えたようで、頼みもしないのに歌や音楽について詳しく教えてくれる。


 音楽とは音を楽しむことで、メロディは声以外でも作ることができるらしいとか、そのための器材がいくつもあってそれらを楽器というのだとか。そういったことだ。


 ミヤギの話のすべてを理解できたわけではない。だが、そうやって知識を増やすたびに、歌に関する分析を深めていくことができたのは収穫だった。


 たとえば――青年は様々な歌を歌うけれど、朝と昼と夜とでそれぞれ曲調が統一されているように思えた。朝は聞く者に活力を与え、昼は労わり、夜は癒す――そんな歌だと思ったのだ。


 ある日、口ごもりながらもミヤギにそう言ってみた。すると目を細めてうなずいてくれた。


 俺の解釈は合っていたんだ――そう思ったら途方もなく嬉しくなった。


 ささやかな自信はこの収容生活で初めて得た人間らしいものだった。


 その喜びを反すうしたくて、仕事中も作業の合間に頭の中でナイチンゲールの歌を何度も再現した。この歌はきっとこういうことを言いたいに違いない、この歌はこういう意味付けができそうだ――そんなふうに。


 その頃、ナイチンゲールの歌だけが俺を人間たらしめていたのだと思う。


 与えられる傷も痛みも、突然の丸刈りも、徹夜のねじ作りも、鞭打ち五十回の罰も――己のダメさ加減に今生への期待を失いつくしても――心に彼の歌が響いていれば耐えられた。いや、それどころか毎日が充実したものになった。楽しいとすら思えるようになった。


 それは嘘偽りのない真実だったのである。




 ただ、忘れてはならなかったのだ。


 そういった痛みや苦しみの数々を甘受せねばならない俺達は、その程度の存在であることを。




  ◇◇◇



 花道を歩くナイチンゲールをミヤギが発見したのは、常になく暑い日が続くとある朝のことだった。


 いや、正しくはその目で発見したわけではない。ミヤギの耳が彼の歌声をとらえたのだ。


 いつものごとくぼんやりとした面持ちで俺の前を歩いていたミヤギは、聞きなれた歌声を耳にした瞬間、ふわりと顔を綻ばせた。だがすぐにその非定常な出来事の意味を正しく推察したのである。


 列を離れ、ある方向に迷いなく駆けだしたミヤギ、それを若さゆえに瞬発力のあるタケダが追いかける。遅れて俺も追いかけた。


「どうしたおっさん!」

「待てよ! 勝手な行動をしたらまずいって……!」


 どちらの制止の声もミヤギの足を止めることはできなかった。しかも年寄りのくせに意外と足が速い。いつもの愚鈍な印象からは想像のできない俊足だ。


 駆けて駆けて――建物の角を曲がったところで、突如向かいから現れた太陽にミヤギがとっさに腕で目を隠した。それでようやく止まってくれた。


「ようやく追いついたぞっ……!」


 久しぶりに全力疾走させられて、ミヤギの肩を捕まえた頃には俺の呼吸は完全にあがっていた。心臓はうるさいくらいに早鐘を打っている。だからこの三人のうちで俺だけがまだ気づいていなかった――あの配膳係の青年が歌っていることに。


 他の二人がある一点を凝視していることに気づき、とっさにそちらに顔を向けると、まぶしいほどの光景の中心にその青年がいた。


「……え?」


 あの日、配膳口ごしにたった一度見ただけの彼が――ナイチンゲールと勝手に名付けられた青年が、花道を足取り軽く歩いていたのだ。


 ただの配膳係がそこを歩く理由、そしてその先にある煌びやかな新棟の在る意味……それは一つしかない。


「おっさん、あれ……!」

「ええ。ナイチンゲールです」


 だがそれ以上は言葉にならないようで、ミヤギはぐっと喉を鳴らすと、顎を上げ、まっすぐに青年を見た。


 青年は聞いたことのない歌を歌っていた。


 ここで暮らしていると、ふと気を抜けば頭が狂いそうになったり、何もかもがどうでもよくなりそうになるのだが……そんな愚かな俺達のために彼は歌で生きる力を、労わりを、癒しを与えてくれていたのだと俺は思っていた。事実、彼の歌はミヤギと俺のことを確かに救ってきた。だが、彼が今歌っている歌はそのどれとも違っていたのである。


 言葉にならない感情が沸き上がる。湧き上がり、小さな胸の中で渦を巻く。


 それは息苦しさを覚えるほどだった。


 ――誰も何も言えないでいる。


 口を開くことすらためらわれる光景の前で、俺は食い入るように青年を見つめ続けた。タケダもミヤギを連れて戻ることを忘れて放心している。だがそれも当然だ。朝日に照らされ草花の中を歩く彼の姿、それに歌声――どれ一つとっても絶望とは真逆の感情に彩られているのだから。


 そう、彼は歓喜の歌を歌っていたのだ。


 遠目では彼がどういう表情をしているかまでは読み取れないし、足取りと歌声、それ以外に彼の内面を推し量れるものはない。しかし、そのたった二つからでも歌い手の感情がこちらに十二分に伝わってくる。


「どうしてあんなに嬉しそうなんだろう……?」


 そうつぶやいたのは、この場でもっとも歌を理解しないはずのタケダだった。


 何が青年をそこまで歓喜させているのかは俺にだって分からない。なぜなら誰もが知っていたのだ――あの花道の先には過酷な実験の末の無残な死しか待ち受けていないことを。


 もちろん、誰もがその運命を受け入れてはいる。逆らうことのできない事柄を運命と呼ぶならば、ここに収容されているすべての男達には運命に逆らうような無駄なことをする気概は毛頭ない。なぜなら、自分達は『そういう運命』を与えられるにふさわしい愚鈍な生き物だと理解しているからだ。そして来世での幸福を熱望しているからだ。


 尊きアルファ系にこの身を捧げることで、彼らのこれまでの恩恵にふさわしい責務を一つでも果たしたい。そしてできれば――できればこれをもって来世での幸福を頂きたい。……それだけなのである。


 だとしたら――あの青年も死を当然のこととして受け入れているのだろうか?


 だがそうは思えなかった。


 俺達は運命を受け入れている。かといって死が怖くないわけではない。そこまで立派な人間であればこんな風に愚者の烙印を押されここに収容されることはなかった。だから普通はあの花道をゆっくりと歩く。自らの愚かさにうなだれつつ、隠しきれない涙をぬぐいつつ。そういう同胞をここに集う男達は幾人も見ている。


 しかし彼は違った。うなだれるどころか、やや顎をあげて楽しそうに歌っているのだ。まるで行きつく先に甘美な何かが待ち受けているかのような――そこに行くのが嬉しくてたまらないような、そんなとびきりの歓喜に彩られた表情で。


 タン、タララ。

 タン、タララ。


「……いったい誰ですか。わたしたちは人間以下の動物だって言ったのは」


 そうつぶやいたミヤギから、ふつふつと沸き立つ憤りを感じた。


「誰ですか。わたしたちはただ生きているだけの役立たずだと言ったのは!」


 握りしめられたミヤギの拳は雪のように白くなっている。


「あれを見てくださいっ……!」


 振り返ったミヤギの目が赤いのは血走っているからのようでもあり――まるでこの短時間で泣きはらしたかのようでもあった。


「彼を見て動物だって言えますか? 言えるわけがない! 彼の歌は……彼の歌は人間の歌です……!」


 タン、タララ。

 タン、タララ。


 青年はひたすら進む。


 歌いながらもひたすら進む。


 軽やかにはずむ歌は、彼がずいぶん遠くに行ってしまうまで途絶えることなく聞こえた。


 そして彼は新棟の中へと消えていった。


 俺はむせび泣くミヤギの肩にそっと腕を回した。 



  ◇◇◇


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