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レジスタンス-それはありふれた絶望だった-  作者: アンリ
第三章 涙は何滴あれば悲しみを -ザック-
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エピローグ

「すまないが俺がここに来るのは今夜が最後だ」


 その夜、部屋に訪れるや開口一番に告げた俺にソウは至極驚いた。


「ええっ! どうして?」

「明日には国に帰らなくちゃいけなくなった」


 ポータブルフォンの電源はあれからずっと切っているし、プライベートのメッセージボックスは一切見ていない。だがこの仕事の依頼元から緊急回線を使って連絡が来てしまったのだ。あなたの父親から至急あなたをロサンゼルスに戻したいとの強い要望を受けた、と。異例ではあるが本日付で契約を満了とする、と。ご丁寧にエアチケットの予約までされてしまっては帰る他ない。


「大丈夫だ。あっちに戻ってもフェイスコールやメッセージで家庭教師は続けてやるから。ほら、このラップトップはお前にやる。餞別だ」


 それはドローンの監視システムを運用するために用意しておいたものの一つだった。まだ一度も起動したことのない新品だったが、ここに来る前に必要なソフトのインストール、設定はあらかた済ませてきた。


「じゃあ、まずはフェイスコールの使い方を教えるな。……ソウ? どうした?」


 いつからだろう、ソウは前髪で顔が見えなくなるほどうつむいていた。高性能なラップトップに未体験のツール、しかも家庭教師は続けてやるとなれば喜ぶものと思っていたのに、その反応は予想外だった。しかも膝の上に載せられた両手がかすかに震えている。


「……ソウ?」


 顔を覗き込もうとしたその瞬間、きらりと光るしずくが一滴、前髪の奥の方からぽとんと落ちた。


「さみしいよ……」

「さみしい? ……ああ、俺がいなくなると困ると思っているんだな。確かに画面ごしだと不安かもしれないが、大丈夫だ。遠隔での授業や会話なんてよくあることだし慣れれば……」

「違うよっ!」


 急に大声を出したソウにこっちが驚いた。


「ザックがいなくなるのがさみしくて悲しいんだよ! なんで分からないのっ?」


 涙に濡れた顔をあげ、強くこちらを睨みつけてくる。


「悲しい、だって……?」

「そうだよ!」


 袖で乱暴に涙をぬぐうソウはいまだ俺を睨みつけている。その表情はどこか憎らしそうだ。


 ふいに、真っ白で大きな何かに包まれたような気がした。


 重力を無視した浮遊感を心が感じる――。

 なんて柔らかくて温かい――。


 ああ――きっとこれだ。そう思った。


 ジェイクが必死にしがみついていた人間らしさは、きっとこういう感覚を生み出すために必要なものなのだ。きっとそうだ――きっと。


 もう少しで父の問いに応えられる気がする――。


「……悲しい時って涙を流すじゃないか」


 突然の会話の転換がゆるせないのか、口をとがらせたソウは何も言わない。


「涙ってさ。何滴あれば悲しみを表現できるものなんだ?」

「え?」

「一滴でもいいのか。十滴は必要なのか。もっともっと、しずくでは表現しきれないほどの量が必要なのか?」


 急に饒舌になった俺にソウの目がやや見開かれる。

 だが止まらなかった。


 そう――ずっと知りたかったのだ。


 悲しみとはどういう感情なのかを。


「上から下へと流れていく筋が一つでも生成されなければだめなのか。それとも、量よりも質なのか?」


 俺も涙は出るが悲しみという感情については理解できない、とあらためて白状すると、「涙はただの体液だよ」とソウがようやく口を開いた。


「あのね、悲しくても涙が出ないときはあるんだよ」


 無言でいることは無知な自分を認めるのと同義だ。それが分かったのだろう、ソウが緩く首を振った。


「こんなことを言ったら悪いかな……。僕は君達のことがずっと怖くて、でもちょっとうらやましくもあったんだ。でもやっぱり、僕は僕でよかった。他の誰でもないこの僕で。今すごくそう思う」

「……どうしてだ?」


 おそるおそる訊ねると、誇らしげにソウが言った。


「大切な人を大切だと思えるのはこの心があるからだよ」


 その瞬間――何かが頭の中ではじけた。


「……どうしてなんだよ」

「え? だから」

「どうしてなんだっ……!」


 突如感情を高ぶらせた俺にソウが驚いている。目を丸く見開き、言葉を失っている。だがこちらに向かって伸ばしかけた手を伸ばす勇気はないようだ。中途半端な位置で握りしめられた両手が、今すごく憎らしく感じられる。


 そうだよ、こいつはいつだって俺に触れようとはしないんだ――。


「俺にはそんな人間はいないっ! 大切な人間なんてこの世に……! 一人も……!」


 それは俺だけのことではない。すべての同胞に当てはまることだ。本当に大切な物は持たないようにしているし、自分以外に大切な人間などいないのが当たり前なのだ。


 いや――違う。


 少なくともあいつは違った。


 ジェイクは違った。


 だったら俺もジェイクのようになればいいのか? サプリメントを限界まで絶ち、心の制御機能を無効化し、弱さを受け入れ、ふがいなさと共に生き、どうにもならないことに立ち向かう無謀さを手にいれればいいのか?


 だがそれでは――俺はもう俺自身じゃなくなる。


「お前はあの特区で辛い思いをしたんだろう? 幾度も苦しんだんだろう? 人間を人間とも思わない扱いを受け、否定され、苦しみを与えられていたんだろう? 俺は知っているぞ! あの特区はドローンにとってもっとも屈辱的な場所の一つだからな!」


 殴るように言葉をぶつけていく。


「なのにどうしてお前はっ……! どうしてお前は俺なんかのことで悲しくなれるんだっ……!」


 理不尽な怒りをぶつけていることは重々承知している。だが荒い息をなだめながらも言葉を飲み込むことはできなかった。


「悲しみは絶望への入口じゃないのか……っ?」

「……ね。どうしてそんなふうに思うの?」


 激情に支配される俺にかまわず、あくまでも冷静に返してくるソウの黒い虹彩は、まるで波一つない夜の海をうつしたかのようだった。


 闇が激情を、太陽を――俺自身を飲み込んでいく。


「そうであってほしいと……そう思っていたんだ」

「どうして?」

「お前らに……人間であってほしかったから」


 ああ――なんという矛盾だろう。


 ソウを一目見た瞬間、俺はこの少年を確固たる人間とみなすと決めた。だがその前提こそが間違っていたのだ。そのことに今さら気づかされたのである。『みなすと決める』ということは、ソウの本質は動物だと考えていることと同義だったのだ。


 だが、しかし、いや――。


 ああ――言葉は無意味だ。


 そうだ、俺はこの少年をとても気に入ってしまっているのだ。サピアリィアルなのにドローンなんかを。


 ジェイクが俺に抱いた想いも、この俺が今抱く想いに似ていたような気がする。あいつはフィランなのに、FSAの長官の息子なんかに――本当に馬鹿な奴だ。


 だがジェイクが馬鹿だというなら、俺も大馬鹿だ。


 でもそれは薄々気づいていたことだった。ジェイクに見抜かれるよりもずっと前から気づいていたのだ。俺はサピアリィアルの規格外に違いない、と。


 規格外、それは社会的抹殺を意味し、肉体的な意味での死にも直結する忌むべき烙印だ。


 なぜなら、規格外とみなされた人間へはサプリメントが配給されなくなってしまうからだ。


 だから俺は自分のアイデンティティに悩みつつも現実から目を逸らしてきた。俺はサピアリィアルだと自らを洗脳し、無理をしてでもサピアリィアルらしい言動を選択してきた。……絶対に認めたくないことだったのだ。認めれば奈落の底に突き落とされる。さながら翼をもがれた天使のように。


 天使は天界でしか生きられない。翼をもがれる瞬間の天使の絶望は致死量の毒と同義だ。


 俺も同じだ。俺もサピアリィアルの社会を追放されたら死ぬ他ない。『非人間』とみなされれば死ぬ他ないのだ。


 けれど――。


「絶望しても、愚かでも、人間であればいいなと……そう思っていたんだ」


 胸が苦しくて仕方がない。


 一切考えないようにしていたことを、俺は今なぜか言葉にしていた。他人に打ち明けていた。


「おかしなことを言うんだね」


 言葉通りに笑うソウは俺の発言の意図を理解していない。


「僕は人間だよ。こうして言葉を話せるし考えることができるじゃないか。手先を動かせるし二次方程式だって解けるよ。そんなことができる動物がいる?」

「……いいや」


 ああ――これは同情だろうか。人間でありたい俺に対する同情だろうか。


「いないよね」


 それとも憐憫だろうか。


「……ああ」


 ジェイクが俺に抱いた想いによく似ている、なのに違うこの少年への感情は――この感情の正体は一体なんなんだ?


 なぜ心がこんなにも軋むんだ?


「すまない。俺が間違っていたよ」


 そして意を決して続けた。


「お前は俺の友だ」


 まだサピアリィアルが存在しない時代における友人〈フレンド〉という意味を込め、俺はその言葉をソウに贈った。


 この時、ソウは友人の意味を知らなかったはずだ。


 だが特に訊ねてくることもなかった。



 了



第三章はお読みのとおり、最近の時世に近しい状況を過去として描いていますが、実はそういったことが起こる前、2018年に書いたものです。

この苦しい現実を敢えて小説に用いた(エンタメ化した)わけではないことをここに記しておきます。


なお、これから続けて公開していく第四章もその頃に同時に書いたものですが、こちらはどちらかというと第一章に似たテイストになっています。

変にグロい内容にはしていませんが、心が重くなるようなシーンばかりですのでご注意ください。


【補足】

もしかしたらわかりにくかったかもしれないので「なぜザックがソウを人間だとみなしたかったのか」について書いておきます。


この世界では人間の姿かたちをしている者は大きく二つに分けられます。

サピアリィアル〈優位者〉、そしてインフィアリアル〈劣位者〉です。

ソウを含むジャパンの民であった者はみな、インフィアリアルであり、さらにドローンとして区別されています。


サピアリィアルとインフィアリアルの違いは、ラストジャッジメント以前に遺伝子操作をした者の血縁であるか否か、その結果これまでの人間とは異なる能力を得た者か否か、です。

そして現在、サピアリィアルは自分達だけが人間だと思うようになっています。


そしてザックは自分がサピアリィアルの規格外だと思っています。

ここまでの話では彼がどういった能力・才能を有しているかは曖昧になっていますが、なかなか仕事が続かなかったり、性的に淡泊だったりと、【自分が満たされ】きっていないことに以前から気づいていました。

これはサピアリィアルにとっては異端扱いされる特徴です。


他のことで同胞並み、またはそれ以上の成果をあげられればいいのかもしれませんが、まだザックはそこまで至っていません。

(それゆえドローンについてフルペーパーを書きたいと思ったりしたのですが)


もしも本当に自分が劣っていたらどうしよう……と、ザックは悩んでいました。

劣るということは、サピアリィアル〈優位者〉の名に反します。


でも、もしもインフィアリアル〈劣位者〉に人間とみなせる者がいたら……自分も人間だと思えるのではないか?

たとえ劣っていても人間として認めてもらえるのではないか?


ザックはそう思っていたのでした。


実際は優劣関係なしに、人間は人間であるはずなのですが、遺伝子操作の先には人間の定義も変わることはあるのかもしれません。


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