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レジスタンス-それはありふれた絶望だった-  作者: アンリ
第三章 涙は何滴あれば悲しみを -ザック-
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10.殴りつけたくなる相手なのに

 翌日からソウの強い要望を受けてプログラミングも教えることになった。派生的に、英単語やブラインドタッチといった基礎的なことから、文法やフォニックスについても学習項目に加えることになった。ここでの俺の滞在期間はあまり残されていないから悠長なことはしていられないのだが……当の生徒が頑として譲らないのだから仕方ない。


 ソウの熱意のほどはこちらが戸惑うほどだった。時間を惜しむがゆえに必死にならざるを得ないのだろうが、こいつをこれほどまでに突き動かしているのが『世界を変えたい』という馬鹿げた願望、それにすでにこの世にいない人間なのだと思うと何とも言えない気持ちになる。


 絶対に無理だから諦めろ――そう言ってやるのが優しさだろう。しかし、なかなか言うタイミングがなかった。それほどまでにソウは学習に力を注いだのである。



 *



 そして十日ほどが過ぎ、俺は今夜もソウの教育に精を出していた。


 日の下に出ないがゆえに色白の肌をしているソウは、こうして知的な問題に取り組んでいるとドローン以外の人種に見えないこともない。


 もっと時間があれば、と詮無いことを思う。もっと時間があれば、ソウをドローン随一の秀才に育てあげることができたのに。だがこのままだと大学の教授レベル――サピアリィアルの基準で凡人未満だ。


 ただ、ソウがこの世界を変えたいと思う理由は『この世界』のためでも『この地球で生きる人間』のためでもない。あくまで我欲、どういいつくろっても一個人のためだ。それはインフィアリアル〈劣位者〉らしい馬鹿げた思考回路で、であれば下手に知識を与えない方がいいのだろう。高度な知識は高潔な人間にしか使いこなせないものだから。


「……ふう」


 机の下、無意識で握りしめていたこぶしから徐々に力を抜いていく。


 正義感ゆえにソウのような人間は許しがたい。許せなくて腹が立つ。だがここでソウを殴れば、俺のドローン教育計画は泡と帰すだろう。それは嫌だ。ドローンは人間であるという仮説のもとに施してきた教育の効果は、フルペーパー〈論文〉にまとめれば採択されると確信している。それにドローンの夢物語に正義を振りかざしても意味のある結果が得られるはずがない。


 あの特区でドローンを殴ったことも忘れていない。


 あれはなんとも後味の悪い行為だった……。


 ソウは俺の変化や様子を察することなく、モニタを睨みつつ黙々とコードを打ち込んでいる。この十日間でタイピングはかなり速くなった。


「なあ。悲しいってどういう気持ちなんだ?」


 あの日のドローンとの会話を思い出したら無意識で訊ねていた。


「悲しいは悲しいだよ。他の何かで言い表すことなんてできない」


 こちらを見ようともしないソウに重ねて訊ねる。


「もっと具体的に説明してくれないか」


 モニタを凝視していたソウはやや不快そうにタイピングする指を止め、少し考えた後言った。


「ザックは一張羅の服が破れたらどう思う?」

「縫えばいい。ていうか、いくらでも好きなものを買えばいい」


 お前達と違って。


「うーん。じゃあさ、明日食べようと思っていたリンゴがなくなっていたら?」

「別の物を食えばいいし、リンゴはいつでも買える」


 お前達と違ってな。


「買えばいいばかりだね」


 ソウが嘆息する。


「じゃあ買うためのお金がなかったら?」

「バンクから引き出すなりクレジットカードを使えばいいじゃないか。おい、俺は悲しみについて訊いているんだがな」


 だがソウのたとえ話はまだ終わらない。


「ザックはゴキブリって食べたことある?」

「いや。というか昆虫自体食べない。不作の時にゴキブリを食べる人種もいるがな」


 その人種とはディジェネレイショニストのことだ。彼らはすべてを自然に任せ、身近にあるもので生を繋ぐことを良しとしている。要はスピリチュアルにはまりすぎた時代遅れの集団、その名のとおり〈退化者〉だ。


 これと真逆なのはシンプルトンで、彼らは昆虫を貴重なたんぱく源とみなし、工場で人為的に育てた昆虫をスーパーマーケットの棚に平然と陳列している。今、地球上には肉食のための動物は存在していないし、汚れた海で育った魚は食用に適さなくなっている。


「それがどうかしたのか」

「ゴキブリっておいしいのかな」

「さあな。食べたことがないから分からないが」


 正直、あんな外見のものを食える奴らは狂っていると思う。


「それだよ」


 ソウの人差し指がピンとこちらを向いた。


「悲しいって感情も同じだよ。自分で感じない限り分からないと思うんだ」


 それができたら苦労しない。しかしそれは言わなかった。ドローン相手にむやみにサピアリィアルの特異性を暴露するのはリスクとなり得る。


 だが、自分で思いついたことなのに苦笑いが浮かんできた。


 リスク――?

 たかがドローンごときにリスクだと?


「俺は悲しいと思ったことがないんだよ」


 試しに暴露してみると、「だろうね」とうなずかれた。


「さっきの話を聞いてたらわかるよ。ザックって悩みとかなさそうだから」

「それはつまり、悩みは悲しみの元になるということか?」

「絶対じゃないけどね。たとえばリンゴだって、突然床に落ちて割れるなんてことがあるでしょ」

「お前の話を聞いていると、何かを失った時に悲しくなりやすいんだな」

「……そうだね。傷つけられた時も悲しいけど、心から大事なものを失った時の悲しみは自分が死ぬよりもよっぽど辛いよ」


 そうだ、とソウが無邪気な目をこちらに向けてきた。


「ザックにとって一番大事なものって何? そういう話はしたことがなかったね」

「自分自身だな」

「へえ。そこははっきりしているんだ」

「……なるほど。なら俺は俺自身が傷ついた時に悲しくなりやすいってことか」


 だがサピアリィアルの体は頑丈だし、肉体のみならず、精神にダメージを負うこともめったにない。たとえ嫌なことがあってもその対象から離れれば済む話だ。というか、賢いがゆえにそのような状況に陥ることはめったにないのだが。


「ま、それはありえないな」


 我が事ながら、いや我が事だからこそ断言できる。


 この結論にソウが薄く笑った。


 嘲りの気配を感じて反射的に拳に力が入ったがとっさにこらえる。


 我慢することは嫌いだ。これほどの衝動を抑え込まねばならない状況もあまりない。だが今は駄目だ。ドローン教育計画は絶対に頓挫させたくない。それにソウを殴れば、ソウが悲しむ。


 ……これはどういうことだ?


 殴りつけたくなる相手なのに、なぜか悲しませたくはないという矛盾――これは一体どういうことだ?


 無言になった俺に頓着することなく、ソウはコーディングを再開した。カタカタと鳴るタイピングの音は、早朝、俺が部屋を出る直前まで途絶えることはなかった。


「じゃ、また明日」


 手を止め、にこりと笑ったソウは朝日に溶けてしまいそうだった。


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