5.分かってはいても――面白い
深夜、半分朽ちたような赤門をくぐり、無人の大学構内に潜入した。
構内にはサピアリィアルのための一画、生活拠点があると聞いていたのでそちらに真っすぐ向かう。指定された三階建ての鉄筋コンクリートは話に聞いていた通り無人だった。ちなみに三階が生活空間で、二階は倉庫、地下には原動機等のインフラ設備がぎっしり詰まっているとのこと。なお、一階の入口にあるひと部屋にはドローンも入ることができるが、そこから先はロックされており侵入不可能となっている。
登録済の指紋と虹彩によってロックを解除し、何の障害もなく三階まで上がっていく。当たり前だが、何もかもが順調だ。簡単すぎて欠伸が出てくる。
とはいえ、そんな甘い考えはドアを開けたところであっけなく打ち砕かれた。
「は……?」
何世紀も放置された感のある光景が俺のことを待ち構えていたのである。
「おいおい、嘘だろ……?」
足元を駆け抜ける二匹のネズミ、ひっくり返ったゴキブリの死骸、至るところに盛り上がっている埃の山――確かに以前は使われていたようだが、生活痕は限りなく古いものしか見当たらない。
広さは十分にあるが、カーテンと見まがうほどに大量に張られた蜘蛛の巣も含め、清潔感のかけらもない。これでは生活どころか眠ることすらできない。
「こんなのは仕事に入ってないぞ……」
先に誰かに手入れくらいさせておけよと不平を述べつつも、結局はやるしかないので腕をまくり上げた。
*
赴任早々、休みなしで動き回る。
まずは窓をすべて開けて換気する。あいにくの曇り空で星はおろか月も見えないが、冷たくしっとりとした夜気が肌をすべっていくのがいつになく心地よく感じられた。
次は電気配線の確認だ。口にハンドライトをくわえ、暗闇の中を手探りで作業していく。こんなこともあろうかと念のため持参していたチェッカーも大活躍だ。どこもショートや断線はしておらず、三十分ほどで室内に明かりをともせた。
温かみのあるライトに照らされるだけで息をするのが楽になった気がする。だがここで休むわけにはいかない。次は上下水道の配管の確認だ。水分の摂取と排泄は急を要する。こちらは小一時間ほどかかった。
続けてベッドルームとリビング、それにバスルームを掃除していく。こうなれば一気に、徹底的に片をつけてしまったほうがいい。それになんだか楽しくなってきた。自分だけの根城を作っていく行為も、原始じみた作業も、幼稚園児の遊びの延長のようだが無心になれていい。
あらかた生活の拠点を整え終えた頃には、磨いたばかりのガラス窓の向こうが朝焼けで明るくなってきているのが確認できた。
汚れた服を脱ぎ、温かいシャワーを浴びてようやく一息ついた。
身ぎれいになったところで背負ってきたリュックサックからラップトップを取り出す。まだやるべきことは残っている。衛星経由のWi-Fiは案の定問題なく使えた。
メッセージが十件近くたまっていた。
一件はこの仕事の発注元であるエージェントからだ。こちらの状況を簡単に伝え、予定通り作業を開始できる旨を報告しておく。
それと薬局からの自動返信、「住所変更を承りました。次回の定期便の発送から反映されます」は一読して削除する。
他のメッセージには既読のアクションをつけていく。大学の同級生からは『パブへ行かないか』。以前勤めていた会社からは『都合のいい時にまた来てくれ』。あとはフレンドばかりだ。『明日どう?』『週末どう?』。
フレンド――それは性的な関係にある者のことを指す用語だ。その気になった時に好みの相手とすぐ関係を結べるよう、複数人のフレンドを確保しておくことは成人の嗜みの一つである。人生を謳歌するための当然の権利ともいえよう。
ジェイクからもメッセージが届いていた。
『また会いたい。いつでもいいから連絡して』
最後に関係を持った人間だからか、メッセージごしにジェイクに熱く見つめられているように錯覚した。あの透き通るような緑の瞳に。
思わず瞼を手で覆った。
「……これから三年もセックスができないのか。……辛いなあ」
性に淡泊な方ではあるが、それでも好奇心一つでこの仕事を引き受けてしまったことに後悔を覚えずにはいられなかった。
赴任して最初の朝はそんな風に終わっていった。
*
夜、七時過ぎに起床するや本命の仕事にさっそく取り掛かった。
赤黒白黄――カラフルなサプリメントをついばみながら、あらかじめ用意しておいた設計図のファイルをモニタ上で開く。ドローンが通える唯一の大学なだけあって、学部数は多く、建屋の数もそれなりにあり――。
「こうやってあらためて見ると随分広いな」
思わず嘆息していた。
ちなみに、ドローンは毎朝八時までにここに出勤、または通学してくる。そして当たり前だが、学生は授業を受け、研究をし、教授方は授業を行い、学生を指導しつつ自らも研究する。その間事務局の人間は粛々とつまらない作業をこなし、食堂では大量の昼食が用意されていく。他にも掃除やゴミ出しをする人間がいるし、運搬業者などはいたるところで見かける。ただし彼らは夕方五時半には作業を終え、遅くとも六時半には全員が構内から姿を消す。それからが俺が自由に動ける時間だ。そのために夜型の生活スタイルに変更した。
監視対象、エリアは相当数ある。だから今回の仕事は達成度ではなく期間で契約した。きっかり三年間でできるところまで――でないと十年単位でここに拘束されかねない。
ドローンに対する好奇心がいつまで続くか自分でもよく分からない――それゆえの提案だったが、これを相手方はあっさりと了承した。監視システムの基礎を一から作るのは多大な労力がかかる――ありていに言えば『面倒』で、そのことを相手方も十分理解していたからだ。残った作業は次の人間が引き継いでくれるだろう。
「さあて。どこからやるとするかな」
水を飲みつつ、設計図を人差し指でスクロールしながら独りごちる。
仕事の進め方としては二つ考えていた。
一つは建屋毎に完璧に仕事を終えていくやり方、もう一つは全エリア同時に手掛けていくやり方だ。
当然、前者の方が良い。一通り完成形までもっていくことで得られるやりがいや経験は貴重だし、失敗は次に生かすことができるからだ。半面、後者は大きなミスを犯した時にリカバリーが効きにくい。――しかし後者の方が『圧倒的に』面白い予感がしている。
「やっぱりまずはすべてを見てみるか」
楽しむと決めた瞬間、口元に笑みが広がっていくのが自分でも分かった。
人生を謳歌するための手段はいくらでもあるし、この世には無数の楽しみ方があるというわけだ。あれほどの快楽を得られるセックスですら人生において必須ではないのである。
*
仕事に必要な道具のすべてはドローンの手によって運ばれる。自分達を監視するための道具を自分達の手で粛々と用意する様は、雄バチというよりも働きバチだ。
一階の空き部屋に次々と積み上がっていく段ボールの中身は、起床直後、毎夜チェックしていく。ケーブルやコネクタ、監視カメラ、センサ、養生テープといったものは大量に発注しているし、他にもニッパー、はんだごてといった工作機器や、作業着、軍手、マスク、ウエスといった細かな備品も揃っていった。
「……まさかこんな原始的な作業を自分ですることになるとはな」
作業着に着替え、肩まである髪をゴムで一つに縛ってキャップをかぶると、ドローンに見えなくもない男が洗面台の鏡に映っていた。もちろん、俺の顔立ちはドローンよりもはっきりしているし、人より大きな口はひとたび開けば絶対にドローンには見えないだろうが。
この新品の作業着がくたくたになり、色が褪せてくる頃には、俺は何かを得ているだろうか――そんなことを鏡越しの自分に問いかけてみる。
正直、職を転々とし続けることにはそろそろ辟易していた。
俺自身の最善をこの手に掴みたいのだ――父に言われずとも。
『ではお前はいつになったら真から満たされるんだ?』
ここにいない父の声が、無駄に記憶力のいい脳内でリフレインされていく。
目深におろしたつばの下、かすかに揺れる金の瞳を睨み返す。
「そうやって自信のなさそうな顔をするんじゃないよ。お前はできる。なんだってできるさ。そうだろう?」
口に出して、すぐに羞恥を覚えた。わざわざ声に出すことで自分を鼓舞しようだなんて、まるで子供だ。……でも。
「こんな心境になる時もあるさ。気にするな」
完全に孤立した状況で三年も過ごす機会などめったにない。だから気弱になりつつあるのだ。そうだ、そうに決まっている。
こういう時の立て直し方は分かっている。
「さ、仕事だ」
いつまでも負の感情にとらわれないこと、考えすぎないこと。これに尽きる。
幸い、目の前には好奇心を刺激する作業が山のようにある。
景気づけにキャップのつばを押し上げるや、工具箱を片手に威勢よく部屋を飛び出した。
*
まずすべきことは配線作業で、同時に建屋の構造が手持ちの図面との差異がないことを自分の目でチェックしていくことだ。これがのちの作業の成功の鍵となるのは明白である。
それからは大学構内にある十の棟、地下から五階、さらには屋上まで、隅から隅まで配線していく日々が始まった。ドローンの性格上、勝手にリノベーションをするようなことはないと予想していたが、案の定それらしい痕跡はどこにもなく、作業は順調に進んでいった。
すると心に余裕が生まれた。
心の余裕は頑なな思考を解きほぐしていった。
そして父の言葉が想像以上に楔となっていたことにあらためて思い至った。
本来、家族といえど他人に影響されにくい俺――サピアリィアルだが、父の言葉はまさに今俺が気にしていることだったからむやみに響いてしまったのだろう。
やはり人生は楽しんだもの勝ちだと思う。確証のない未来に不安を感じていても仕方ないし、変えようのない過去を何度口に含んでも甘いキャンディーになることはないのだから。
心の平穏を取り戻したことがきっかけとなり、しばらくすると俺はドローンの研究成果の観察――つまり己が好奇心を満たすための行為に対して時間を割くようになっていった。
だって仕方ないだろう、訪れる部屋ごとに多種多様な物、本、データ、その他さまざまなものを発見してしまうのだから。どれもロサンゼルスにいては絶対に見ることができないものばかりだ。
たとえば文学部のとある研究室では、千年以上前の祖先の日記を解読しようと四苦八苦している最中だった。だが彼らは知らない。当時のジャパニーズは漢字とひらがな、それにカタカナを用いていたことを。だが今では彼らは英語――サピアリィアルとの共通言語――しか用いない。いや、用いることをゆるされなくなったというのが本当のところか。
今、ドローンの研究者が閲覧をゆるされている史書はひらがなを用いたものだけだと何かの学術雑誌で読んだ記憶がある。ひらがなを使っていたジャパニーズの子孫が未知の言語となってしまったひらがなをいかにして解読していくか――その過程をサピアリィアルは観察しているのだ。
他にも、数学部では円周率を小数点以下五桁まで解き明かすことにようやく成功し、物理学部では重力加速度について検討中、工学部では梁の固有振動数について定式化しつつあるところだった。
どれも人類の進化の過程に立ち会っているともいえるが、遠い過去を無意味に再現しているだけともいえる。それでも、毎夜ドローンの研究室で写真を撮り、メモを取り続けたのは、そこに心の琴線に触れる何かがあるからだった。
面白い――ただそれだけでドローンの研究成果を独自にまとめ続け、ラップトップに膨大な記録をストックし続けていった。
どれも自分が成したことではない。それは十二分に理解している。俺はただドローンがしていることを記録しているだけで、自らは何も生み出していない。
分かってはいても――面白いのだ。
『ではお前はいつになったら真から満たされるんだ?』
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