3.意味はその時の君が決めればいい
死体を載せた台車を一人で曳くドローンを偶然見かけ、それがリンダの興味をひいた被験者のチームメイトだと気づいたのは、それから一か月が過ぎた頃だった。
あれ以来リンダとの接触を故意に減らしていたが、そのドローンのことはわりとすぐに思い出せた。それに死体の片付けを担当するチームはこの特区にただ一つしかない。
なんとはなしに男に近づいていく。と、気配を察したのだろう、とある瞬間に男の筋肉が強張ったのが遠目からでも確認できた。これに内心苦笑する。強く優れた生き物に無条件に恐怖を感じるのは本能のなせることだな、と。
「おい、お前。そこのお前だ」
声をかけると、男はためらいながらも足を止めてこちらに顔を向けてきた。おずおずと見上げてくる瞳は、目が合った途端、すとんと瞼に覆われた。その瞼が小刻みに震えだす。連動して頬や唇、続けて肩から指先にまで震える箇所が広がっていった。
死を告知されるのを怖がっているのだな――と分かった。
この男はこのひと月ほどでチームメイト三名をすべて失っている。同室の人間がこうも立て続けに死んだのだ、次は自分の番だと怯えるのも無理はない。
ドローンに同情してしまうのはこういう時だ。野生の獣よりも知能が高く、かといって俺達に劣るドローンはなんとも中途半端な存在なのである。自分達の生き死にを決める権利すらないのでは一体何のために生きているのか。その容姿や風貌が無駄に俺達に似ているのも哀れだ。進化の過程で神に祝福されたのが俺達サピアリィアルならば、逆に見放されたのがドローンだと言われている。――さて、ドローンの祖先は過去にどれほどの大罪を犯したのだろうか。
「お前の部屋にいた人間について訊きたいことがある」
問いかけに男が小さく唇を噛んだ。だがその前に男は強い動揺を示している。その直後に唇を噛んだのは、この場を耐え忍ぶためなのか、はたまた問われたくない何かがあるからだろう。
さて、どちらだ――?
色々考えていたら急に笑いがこみあげてきた。ドローンごときに何をそこまで深読みすることがあるのかと。相手はたかがドローンではないか。
「年寄りが一人いたな?」
「……はい」
男の声は極度の緊張でもってかすれている。
「どういう人間だった?」
「どういう……? それはどういう意味、でしょうか」
どうやらこの程度の会話でも難しいらしい。ドローンとまともに会話をするのは初めてのことだが、早々に匙を投げたくなってきた。だが好奇心の芽はいまだすべて摘み取られていない。そう、俺もれっきとしたグロウィング〈成長途上〉なのだ。
「どういったことを考えていたか知りたいんだ。仕事は熱心だったか?」
かみ砕いて説明すると、男の目が右斜め上に動いた。
「嘘はつくな」
命じた瞬間、男のおろした両手がぎゅっと握りしめられた。
「お前らの考えていることくらい分かる。だがお前を罰するために訊いているわけではない。もう死んだ人間のことだ。で、仕事は熱心だったのか?」
男が振り絞るように言葉を発した。
「熱心……とはいえなかったと思います。ですがやるべきことはやる人でした」
無気力で無抵抗、だが命じられればなんでも実行する――それはドローンの特徴だ。Drone、雄バチの名のとおり。
「ではどういった感情を持っていたのだろうか」
「どういった……?」
「だから」
いら立ちを覚えつつ懇切丁寧に説明する。
「喜怒哀楽のことだよ」
「喜怒、哀楽」
使い慣れない言葉なのだろう、男はその言葉を数回舌の上で転がしたものの、やがて一つの確信をもってつぶやいた。
「……喜び」
「喜び?」
それは予想外の答えだった。
「お前達は喜びを知っているのか?」
そう、喜怒哀楽とはただの古典的な表現で、実際には俺達は悲しみを知らないし、ドローンは悲しみ以外の感情にひどく鈍感な生き物なのである。――いや、そう思っていたのだ。今、この瞬間まで。だがこの男は喜びという単語を一番に口に出した。俺が――リンダが知りたかった悲しみについてではなく、喜びを。
「変ですか?」
どうしてだろう、あれほど怯えていたくせに、男は今では俺のことをまっすぐに見つめている。その黒い虹彩でもって、この金の瞳を堂々と――まるで細身のレイピアで射貫くように。
男が再度口を開いた。
「俺達が喜びを知っていることがそんなにおかしいですか」
それは不思議な圧だった。
たかがドローンに気おされていることに、我が事ながら理解が追いつかない――。
「あ、ああ。そうか。そいつは普通とは違っていたんだな、きっと。そうだろう?」
そうであってほしい――なぜか痛切にそう願っていた。
「な。そうだろう?」
だが男はこれを否定した。
目を逸らすことなく即座に「いいえ」と言い切った。
「あなた達は俺達を研究材料にしているけれど、俺達のすべてを理解しているわけじゃない。俺達は喜怒哀楽のすべてを知っているし、ベンじいは喜びのための悲しみを受け入れることのできる人だった。それだけです」
饒舌に語っていた男が、急にはっとした顔になった。
だがもう遅い。
俺の拳をまともに頬にくらい、男が数メートル先まで吹っ飛んだ。
脛の高さまで生えた草花がこすれ、千切れ、吹き抜けた風によって晴れた空に巻き上がった――青い匂いとともに。
*
宿舎に戻った後、しばらく放心していたらしい。名を呼ばれ振り返ると、ジェイクの顔が肩のすぐ上にあって無様な声を上げてしまった。
「何かあったのか?」
控えめな性格だと思っていたのに、意外にもぐいぐいと突っ込んでくる。
「なんでもない」
「嘘つきだな。早く言いなって」
距離が近すぎるぞと苦言を呈しつつも「ここでの仕事は合っていないようだ」とつい本音を吐露していた。口に出せば、それが今の自分の正直な気持ちだと実感した。そしてどっと疲れを感じた。
「そろそろ別の仕事に鞍替えするかな」
ベッドにダイブすると「それもいいんじゃない」と隣にジェイクが座った。
「次は何をしたい?」
「何でもいいよ。そうだ、今度は父親の下で働いてみるかな」
口から適当に言った台詞に、ジェイクが「それはいいね」と調子を合わせてきた。
「FSA〈食品基準庁〉の長官が父親とはうらやましいな。ザックの父親は百年以上もFSAで勤めているんだよね。まさにサピアリィアルの鏡だ」
「ああ……まあな」
豊かな才能、優れた体躯に見合った身体能力、完璧な容姿、長寿、健康――そして幸福。有史以前から人類はそれらを限りなく追い求めてきた。その一つの結末がサピアリィアルの登場だ。
サピアリィアルとは遺伝子操作した人種の総称である。
より詳しくいうと、はるか昔というほどでもない過去、人間に対して積極的に遺伝子操作を行ってきたグループがいて、そのうち自らに対して成功を収めたごく一部の人種がサピアリィアルの祖先、アダムとイブなのである。
今、サピアリィアルはこの地球に百万人ほどいる。
そしてその全員が何かしらで社会に貢献したいと願っている。
このような尊い人種がかつていただろうか。
貢献の対象は何でもいい。仕事、学問、政治、技能、芸術その他、分野に貴賤はない。これに見返りは一切求めない。給与も名誉も何も求めない。だからこそ強制されるいわれもない。
自らの自由意志のもとで社会に役立つ己であろうとする――これほど素晴らしい行為は他にはない。そう心から信じているのだ――俺達サピアリィアルは。
そしてこの行為は究極的に精神的充足感――快感へと直結する。様々な概念をひとまとめにし、『満たされている』と感じられれば、それが俺達にとっての成功、勝利、幸福となるのだ。
だから俺のように職や滞在地を転々と変える者は多い。『満たされているか否か』、この観点のみで個々人の良し悪しを判断するのがサピアリィアルという人種であり、満たされていないと感じれば即、己が現状を打破できる行動力があるというわけだ。
そして『人間とは己のために生きるべき』であり、かつ『人間とは社会のために生きるべき』であるとも考えている。この一見相反する二つの理想を融合した結果、サピアリィアルは一つの考えにたどり着いた。『人間は自らを高めるべき』だと。
高めるとは言葉通りの意味だ。人間は高潔であるべきだし、ベターではなくベストを目指すべきなのである。――つまり人を超えた存在、神を目指すべきなのである。グロウィングという呼称のとおりに。
先程ジェイクが感嘆したのもそういうことだ。自らの『最良』を早々に見出し、かつ一世紀以上持続している父――それはサピアリィアルにとっての一つの模範だ。
とはいえ、前向きで朗らかであっけらかんとしているがゆえに、サピアリィアルには興味のないことを続けることができないという特徴がある。同様に、悪事を行うことも難しい。そのように心が整えられている。俺がこの仕事を辞めたくなった理由はここにある。さきほどドローンを殴ったのは、単純にその口を塞ぎたかったからだ。俺達は基本やりたいと思ったことに躊躇はしない。だが身勝手に殴った自らに嫌悪を抱くほどには清廉としている。
矛盾についてはあまり考えない。
考えること自身がストレスになるようなことについては、考えない。
それもまた俺達サピアリィアルの特性だ。
ふと思ったことをつぶやいていた。
「……ドローンにとっては簡単なことなのにな」
「ん?」
「ああ、いや。俺の父親のような生き方はドローンにとっては簡単なんだよな。黙々と働くってことがさ」
「それがドローンだ」
「分かってるよ。けどあのくそつまらない仕事に不平不満を言うこともないんだぜ?」
「その言い方だと、ザックは父親とうまくいっていないんだね」
「……そういう簡単な話じゃないんだよ」
今日は怒りの閾値がずいぶん低くなっていると自覚したところで、察したジェイクが動いた。
みしり、とベッドが軋み音をたてた。
「あのさ……抱いてもいいかな」
「は? どうして俺なんだ」
なぜ今、なんて訊かない。人間の最大の快楽について否定する理由をサピアリィアルは有していないからだ。たとえそれが禁欲主義だと信じていたルームメイト相手だとしても。
「もしかして俺のことを狙ってたとか?」
若干ちゃかすように言うと、これに意外にも真剣な顔でうなずかれた。そうだよ、と。
少し考えた後、いいぜと言った。
そして自らシャツを脱いだ。
*
結局それから三日とたたずに正式にエージェントに辞意を示した。
退職のための手続きを説明するエージェントの目がモニタごしでも何やら言いたげに思えたのは過剰反応だろうか。いいや、気のせいだ。あの高名な長官の息子なのにもう辞めるのか――そう思われているような気がしたのは。
最後の夜、ジェイクは俺との別れをひどく惜しんだ。
「お前ってさ。ほんとドローンみたいだよな」
思わずそう言ったら軽く睨まれた。
「いつかこの気持ちが分かるといいのに」
「それはどういう意味で?」
これにジェイクが意味深なことを言った。「意味はその時の君が決めればいい」と。
◇◇◇




