10.すでに幸せだった
その日、あなたが所用があると出かけた後、私はすぐにザックを捕まえた。そして訊ねた。どうして彼があんなことを言ったのか教えて、と。訊ねたのはあなたのことが心配だったから。そしてあなたはもう何も説明するつもりはないことを言外に示していたからだ。
「それはナルセのことを思い出すからだな」
案の状、ザックは理由を知っていた。
「ソウが特区にいた頃――まだジウだった時のことだ。死の宣告を受けたあいつはナルセと出会い命を長らえた。そのことは知ってるよな」
「ええ」
「まあ座ってくれ。長い話になりそうだから」
ザックは冷蔵庫から茶色の瓶を取り出すと、二対のガラス製のコップに琥珀色の飲み物を注ぎ入れ、無言で私に勧めてきた。それはただの液体のはずなのに、中で空気の粒のようなものがぱちぱちはじけてすごく不気味な代物だった。
「そうらしいわね」
とても重要かつ真面目な話をしているのについ目線がそちらにいってしまうのは……仕方がないだろう。液体と気体がこんなふうに混合できるものだなんて、この瞬間まで知らなかったのだから。
空気の粒がはじけるたびにかぎ慣れないスパイシーな香りが辺りに漂っていく――。
「で? それでどうしてイチのことを思い出すとこういうことになるのかしら?」
コップには手を伸ばさず、腕を組み、足まで組んでテーブルの向こう側に座るザックを睨めつける。
「それでどうして私が彼に触れたらいけないの? 私はイチとの想い出を捨ててほしいなんて思ってもいないわ」
ザックは得体のしれない液体を一息で半分減らし、言った。
「ナルセはソウを救うために命を落としただろう?」
「そうらしいわね」
あなたが話したがらないから過去について触れないようにしてきたのに、やっぱりこの男は色々と知っているらしい。少し理不尽な思いにかられつつも、私は重々しくうなずいてみせた。
「で?」
「ソウは見たらしいんだ」
「なにを?」
あの謎の液体由来の芳香とともに、それとは相反するおぞましい言葉がザックの口から漏れ出た。
「……切断されたナルセの遺体さ」
「なん……ですって?」
「ニコはソウやナルセが収容されていた特区のことはどのくらい知っている?」
無言で首を振ると、「知らなくていいことは知らなくていいさ」とザックが残りの液体を飲み干した。やるせない何かとともに、喉の奥に流し込むように。
重い空気の中に、刺激を有する独特な香りがにじむように広がっていく。
「ソウはナルセの腕に包まれることで息を吹き返すことができ、ナルセの腕を抱きしめることで命を繋ぐことができたんだそうだ」
一瞬で脳裏に蘇った――あなたがイチの爪をとても大切に扱っていたことを。
「あいつはその大切な瞬間のことを覚えていたいんだそうだ。……ナルセの感触と温もりを。言葉を。想いを。その時の自分の気持ちも――何もかも。だから誰とも必要以上に近づきたくないらしい。肉体的にも……精神的にも」
「なによ……それ」
「だがその時の記憶を糧にしてあいつは闘っているんだよ。レジスタンスとして」
「……なによそれ」
「分かってやってくれ。あいつにとってナルセからもらったもの――命や自由、愛情、そういったものすべてが宝なんだ。過去にしかないものを護ろうとしたら、どうしたって現実を犠牲にするしかないんだよ」
「なによそれ……!」
激高のあまり立ち上がっていた。
「そんなの全然幸せじゃないわ! そんなの全然幸せじゃないわよ……!」
きつく握りしめた拳を震わせ、訴えていた。
「だったら彼は何のためにこの世界を変えようとしているの⁈」
私をちらりと見上げたザックは、コップを再度琥珀色の液体で満たし、今度はそれを一度にすべて飲み干した。
「あいつは幸せになろうなんて思っちゃいないさ」
空のコップを両の手で握りしめ、ザックがうめくように続けた。
「……いいや、違うな。あいつはもう幸せなんだよ。もう十分幸せなんだ」
「どういう……こと?」
「ナルセとの思い出を抱いて生きていける、それ以上の幸せはあいつには見当たらないんだよ」
首を一瞬で絞められたかのように――息が止まった。
そんな私をザックは憐れむように一瞥した。
「まだ知らないだろうから教えてやるよ。あいつがなぜレジスタンス活動を始めたのか、その理由はな……」
そこでいったん言葉を区切り、ザックがコップを力任せにテーブルに置いた。その甲高い音は夜独特の静寂に包まれた室内で、まるで絶叫のように聞こえた。続けて、叩きつけられたコップに負けないほどの悲痛な叫びをあげた。
「あの特区を自分のものにしたいからさ……!」
それは初めて見るザックの激しい一面だった。
「あいつはナルセとの思い出の場所を取り返したいだけなんだよ! ただそれだけなんだよ……!」
「ど……して? どうしてザックがそんなに怒るの?」
「は? これが腹を立てずにいられるか?」
ザックは赤い髪を乱暴に掻きむしりながら、私を潤んだ瞳で見上げてきた。
「友人がこんなバカな生き方をしているんだぞ?」
友人――とはなんだろう。
けれど私の疑問などお構いなしに、ザックは意のままに語っていく。
「こんなの全然崇高な活動じゃない、ただの虚しいだけの闘いだ。違うか? だけど俺にはあいつを止められない……止めることなんてできやしない。この活動をしている時だけなんだよ、あいつが生きていることを実感できるのは……。あいつがナルセを実感できるのは……」
「……だから私を助けたのね?」
そこだけは確信をもてたから訊ねると、「ああ」とザックは素直に認めた。
「ああ。そうだよ。俺があいつに勧めたんだ。ナルセの妹であり、あいつの幼馴染兼教師でもあった君なら……あいつを変えられるかもしれないと思ったから」
「……だったら」
これを訊ねるのには勇気がいった。
「ザックが進言しなければ、彼は私を救おうなんて思わなかったってこと?」
「……そうだ。あいつにしたら、今回は開発したツールを試す場がほしかったんだよ。ピンポイントで特定の人間の戸籍を操作できるかどうか、試したかったのさ。胸糞悪い施設を破壊して成果をあげたかったっていうのもあるが」
ザックは深いため息をつき、長い沈黙ののちにつぶやいた。利用して済まなかった、と。
けれど私はこれを否定した。
「いいえ。謝る必要なんてないわ」
「だが」
「ザックのおかげで彼と再会できたんだから謝る必要なんてない」
「……でも君はあいつを好きなんだろう? 辛くはないのか?」
これに私はほほ笑んでみせた。
「もっと辛いことはたくさんあったわ。……これまで本当にたくさんあったの。それに比べたら、彼と一緒にいられるだけでも十分幸せだわ。だからあなたには感謝したいくらいよ」
この時の私の澄んだ瞳を忘れられない――そうザックに言われたのは随分あとの話だ。
たとえるなら真冬、森の奥深くに清らかな水面をたたえる湖のようだったとザックは言った。




