7.死ぬわけにはいかなかった
だからあなたとの再会にはひどく驚かされたわ。
その夜もいつものように勉強机にかじりついていたのだけれど、耳栓ごしでも聞こえる異常な騒音にドアをしぶしぶ開けて――心の底から驚いた。
コの字型の団地の中央、庭園と呼ぶには無理がある一帯で、ここで働くアルファ系のための建屋が業火をあげて燃えていたからだ。
七階の廊下から見下ろしても、すぐそばまで炎が昇ってきているのかと錯覚するくらい、その建屋は盛大に燃えていた。木製の建屋は内部に十分な熱を抱き、いつはじけてもおかしくない状態だった。実際、呆然と眺めていたら、騒音とともにいくつもの窓がはじけ、星屑のような無数のガラスがきらめきながら飛散していくのが見えた。それとともに、龍に変化した炎がいくつもいくつも内部から飛び出し、そのたびに大量の火の粉が闇夜に散った。
「な、なにこれ……」
手すりにつかまり、身を乗り出して階下を眺めている間、いつもはうざったいくらいに見かけるカラーズ達を一人も見なかった。明らかに異常事態だ。
同胞はといえば、対面の一階の廊下に右往左往する男女の姿をようやく確認できただけだった。その腕に赤ちゃんや幼児を抱え、切羽詰まった様子で敷地外に通じる門へと走っていく。
「ここにいたら危ないよ」
いつからそばにいたのだろう、私の夫は鞄を一つ抱えて背後に立っていた。
「もうみんな逃げている。早く行こう」
「先に行っていて」
親切心で言ってあげたのに、ぐずぐずと煮え切らない態度で留まる夫に、私は敢えてきつく言い放った。
「さっさと行って! 私は一人で逃げられるわ!」
優柔不断な夫は、一喝されたことでようやく覚悟を決めたようだった。「あなたもすぐに来るんだよ」と、後ろ髪をひかれつつも非常階段のある方へと去っていく。
こういう時には配偶者にいい顔ができる人なんだな、と、去り行く夫の後ろ姿を見ながら、私は内心ひどいことを考えた。いつもは無愛想なくせにこういう時だけ、と。
ああ、私はなんて無慈悲な妻なんだろう――。
いつまでも心を開かない私を夫が持て余していることは薄々察していた。これだけ長く一つ屋根の下に暮らしているのだ、もう少しお互いに寄り添い合いたいと思うのも自然だろう――何も肉体関係のことだけではなく。けれど私はそれを無言で拒み続けていた。その自覚はあった。
とはいえ、私の方も夫に対して申し訳ない思いを抱いているのは事実だった。なぜなら、私を妻にしなければ、私が学生でなければ――夫は配偶者と肉体関係を結ぶことができたからだ。そう、デルタ系の女は普通は学問の道には進まないのである。
いっそこの火事で私が死んでしまった方が夫も喜ぶだろう――たとえ配偶者が亡くなっても、私達はまた新たな配偶者を与えられる。カラーズお得意のカップリングプログラムを駆使して。
とはいえ、その哀れな夫のおかげで夢見るような心持ちになっていた私の目が覚めたのは確かだった。
あわてて室内に戻り、登校時に使う鞄の中身を盛大にぶちまける。私達夫婦は旅行も遠出もゆるされていない学生だから、大きな鞄といえば通学用のこれしか持っていないのだ。
けれど中身を全部出したところで途方にくれた。ここにいったい何を詰めればいいのか、分からなくなってしまったからだ。ここに詰め込みたいものなんて何もない――そのことに気づいてしまったのだった。
それでも気を取りなおし、学習机に広げっぱなしにしていた教科書やノートを急いで詰め込んでいく。結局、今の私にとって一番大切なものとは、使い込んだこれらの学用品であり、その結果得られるかもしれない甘い未来、すがりついていたい星屑のごとき夢しかなかったのだ。
けれどどうしてだろう、なぜか目が潤んでいった。一つ一つを鞄に詰めていくたびに喉の奥からこみあげてくるものがあった。
「絶対に死なないんだから……!」
言葉に出せば、それこそが私の望みだと分かった――はっきりと。
「私は絶対に死なない! こんなところでは絶対に死なないんだから……!」
私があの研究室に戻らなければ――あなたはいずれカラーズに捕まるだろう。だから少なくとも、パパがあの研究室を自由に使えているうちに、私はあなたの元に戻らなくてはいけなかった。そのためには大学生になる必要があって、将来的にはパパの研究室を継げるほどの研究者にならなくてはいけなかった。
だからこんなところで死ぬわけにはいかないのだ。
こんなところで死ぬわけには――。
「まだ私にはやらなくちゃいけないことがあるんだから……!」
泣きそうになりながら、鞄が閉まらないくらいぱんぱんに荷物を入れ、カーディガンを羽織って外に出た時だ――あなたに再会したのは。
「ニコ……!」
声をかけられても、あなただってすぐには分からなかった。
この三年会わないうちに、あなたの背はぐんと伸びていた。体つきはより逞しくなっていた。声はやや低くなり、尖った喉仏が首の中央で不規則に揺れていた。だが一番驚いたのは――色だ。闇を背負ったあなたは、髪を階下の炎を彷彿とさせる赤色に、目を頭上で輝く星のような金色に変えていた。
肩に食い込むほどの重量物を詰めた鞄が足元の近くに落ち、鈍い音を立てた。続けて口の開いた鞄から飛び出た中身が辺りに散乱した。
けれどあなたとの驚きの再会、そして想像をはるかに超えた変貌の前では、学習用品なんてどうでもいい。
「その髪……! それにその目、どうしたの?」
「ああ、うん」
ちょっと困ったように目を伏せたあなたからは研究室に籠っていた頃のような幼さが感じられた。
「髪はかつらだよ。目はコンタクトレンズっていうのを入れている」
かつら、それにコンタクトレンズ――どちらも聞いたことがない単語だ。
考え込みそうになった私に、「ああもう!」と、あなたがじれったそうに制した。
「そんなことはどうだっていいんだ。ニコ、僕は君を助けにきたんだよ」
「助けに? だってあなた、私がここにいることだって知らなかったでしょ? それどころか、大人になるってことがどういうことかも知らなかったじゃない」
――私みたいに。
「それにこんなところにいたら危険だわ。そう、危険なのは私じゃなくてあなたよ! 戸籍を持たずに出歩いていたら捕まっちゃうんだから……!」
「それ、嘘なんだ」
「嘘? でも大人達はそう言っているわ。パパやママ、学校の先生、誰もが同じことを言っていたわ。私だけじゃないわ、みんなが知っている常識よ」
「それは……」
あなたが困ったように視線を逸らした。私をどうやって説得すべきか、誤魔化すべきか、それともなだめるべきか――そういう私にとって不愉快な思案をする時、あなたは決まって視線を逸らすことを思いだす。
「……ねえ。ほんとなの?」
雄弁な説明よりも物的証拠よりも、あなたのその仕草がすべてを物語っていた。
「全部嘘だったっていうの? 皆が嘘をついていたっていうの?」
この世界を管理する神のごときアルファ系、カラーズ。彼らは私達を管理するために戸籍というものを作ってくれた。産後七日以内に役所に届け出れば、私達の誰もがその貴重な戸籍を手に入れることができる。
そう――戸籍とは、私達デルタ系のために作られたものだと教えられてきたのだ。
戸籍があるから家族を作れるのだ。家族の人員に見合う住居を与えてもらい、水や食料、電気やガスに困ることなく生活できるのだ。学校に通い、やがて適切な職に就けるのも、すべては戸籍があるからで――。体が大きくなるたびにサイズに見合う新しい衣服を身に着けられるのも、病気や怪我をした際に病院に行けるのも、不審者や犯罪者のいない街を安心して出歩けるのも――全部、全部。
なのに――。
「私達、大人に騙されていたってことなの……?」
「違う。そうじゃないんだ」
言葉を探るように、あなたがゆっくりと言った。
「誰も嘘なんてついていない。知らないだけなんだよ」
その金色の目が、今は私を正面から見つめている。
「知らない? 知らないってなにを?」
私もあなたの瞳を見つめ返す。
嘘をつこうとしているかどうかを確認するために。
「私はなんでも知っているわ。少なくともあなたよりも知っているわ……!」
「僕達はただの観察対象なんだよ」
「な……何よそれ……」
いつだって私があなたを教え、導いてきたのに――。
私がいなければ、あなたは生きていくことすらできない、か弱い存在だったのに――。
完全に立場が逆転している。
「慈善活動や保安のために戸籍が作られているわけじゃないってことだよ」
階下の火事によって、あなたは炎を背に立っているかのようだった。それはまるで私とあなたのこの三年間の歩みの違いのようだった。私が影の下で這いつくばって生きている間に、あなたはきっと様々な経験をしたのだろう――私には想像もできないようなことばかりを。
「今だってあいつらは無戸籍の僕の存在に気づいていない。それにね、このかつらとコンタクトレンズをつけてさえいれば、僕だって市街地の中心部を堂々と歩けるんだよ」
自信に満ちあふれたあなたの様子から、それがただの仮定でも妄想でもないことは察せられた――にわかには信じがたいけれど。
けれど、あれこれ考えるよりも先に、あなたが私の手をきつく掴んできたから、そこで思考が完全に止まってしまった。
「さ、ここはもう危ないから行くよ。ついてきて!」
あなたに力強く手を引かれ、私は操られるように駆けだしていた。
一瞬、廊下にばらまかれた学習用品が目に入った――だけどそれは一瞬のことだった。
あなたの手は私よりも一回り大きくてひんやりとしていた。けれど、しばらく繋いでいたらじんわりと温もりを帯びていった。そうやって手の表面を介してお互いの血流を共有していたら、私の胸の中にもじわじわと喜びがこみあげてきた。
前を走るあなたの背中はだいぶ大きくなっている。
肩幅も広がり、正真正銘、成人男性になっている――。
「……儀式なんてしなくても大人になれるのね」
「なにっ?」
「ううん、なんでもない」
私は首を振ると、あなたの手を強く握り直した。




