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レジスタンス-それはありふれた絶望だった-  作者: アンリ
第二章 愚かでもよかったの -ニコ-
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5.大人になる意味を知った

 それから長くも短くもない充実した時が過ぎ――。


 中学を卒業したその日、私は制服のままであなたに急いで会いに行った。


「とうとう卒業したわ! もうこれでこんな辛気臭いエプロンスカートを着なくてもすむんだから!」


 膝丈のチャコールグレーのスカートをわざと憎々し気に持ち上げてみせると、案の定、あなたは「よかったね」と同調してくれた。


「ニコ」

「なあに?」

「卒業おめでとう」


 その一言で気分がぱあっと晴れやかになった。


「……ありがとう!」


 大学の片隅、パパ以外には誰も近寄らない獣臭い一室で潜むように暮らし続けたあなたは、この頃には私よりも背が高くなっていた。成人だったイチの服を着てもほとんど違和感がなくなっていた。同級生と比べて随分成熟した雰囲気を醸し出すようになったあなたのことを、私は薄っぺらい卒業証書よりも誇らしく思い、あらためて眺めた。


「どうしたの?」

「ううん。なんでもない」

「ね。それ何?」


 あなたの目は私が手に持つトートバッグにまっすぐに向いていた。実は私が現れた瞬間からこっちに目が向いていたのには気づいていた――悔しいから言わなかったけれど。


「これはラップトップよ」


 私もけっこう好奇心が強いほうだけど、あなたは私を遥かにしのぐ強い好奇心を持ち合わせているから、仕方ないなと苦笑いをしつつも薄い筐体をトートバッグから取り出してみせた。


「ラップトップ?」

「折り畳みできるパソコンのことよ」

「パソコン?」

「そっか。パソコンについては説明したことがなかったわね。ずっと学校に置きっぱなしだったのよ、これ」


 とはいっても、私はカラーズではないから詳しいことは教えられない。


「使ってみる?」

「え? いいの?」

「パソコン操作は好きじゃないし得意じゃないけど、簡単なことでよければ」


 折りたたまれていた筐体を広げ、電源ボタンを押すと、液晶モニタに白黒の文字が浮かび上がり――これにあなたが「テレビ画面みたいだ」とつぶやいたから驚いた。


「テレビを知ってるの?」


 普通、デルタ系はテレビの存在を知らない。どの家にもテレビなんてないし、たとえ保有していても観る暇なんてないからだ。


 食事、学校または勤労、朝夕どちらかの運動、掃除や洗濯、日記つけ、入浴、家族間での会話、そして睡眠――それで私達の一日は終わってしまう。平穏で刺激のない、良くも悪くも当たり障りのない一日が。


 ちなみに日記つけはデルタ系ならば誰もが習慣にしていることだ。私も小学校の入学式で真新しい日記帳をもらい、その夜から一日に起きたことを事細かに記載している。この日記は時折カラーズによって回収されるが、夕方までにはきちんと自宅に戻ってくる。劣位種であるデルタ系がしたためた日記なんて、何が面白いのかわからないけれど。


 そうそう、もちろん私もパパもあなたのことは日記帳に一切書いていない。あなたを匿うということは、そういう命がけの行為だったからだ。パパは息子のイチに巻き込まれて仕方なく――私は私のすべてを懸けてあなたのことを秘密にしていた。


 あなたはモニタを食い入るように見つめながら「僕の父は家電の修理工だったんだ」と言った。


「へええ。そうだったのね。初めて知ったわ」


 ちなみに私がテレビのことを知っているのは、ママが家電工場で組立員として働いているからだ。カラーズはこういう機械を使っているのよ、こういう機械を開発し使いこなせるカラーズは本当にすごいのよ、そんなことをママは私に時折言う。それはカラーズの優秀さを布教するかのようであり、言い聞かせるようでもあり――気づいたら私はママにあまり近づかなくなってしまった。


「でもパソコンはテレビじゃないのよ」

「だったら何をするものなの?」

「たとえばこれでプログラミングっていうのができるのよ」


 ここであなたがまた首をかしげたから、百聞は一見に如かず、それ専用のツールを起動しつつ、鞄からプログラミングの教本を取り出した。


「プログラミングっていうのはね、計算とか命令なんかができるものなんですって」

「計算って足し算とか引き算みたいなもののこと? それに命令って誰にするものなの?」

「そんなに一度にたくさん難しいことを訊かれても困るわ」


 というよりも、私に詳しいことが分かるわけがないのだ。


「授業ではバグ取りっていうのをさせられてたのよ」

「バグ?」

「バグっていうのがあるとプログラムが病気になっちゃうんですって。あとはタイピングやデータ整理の練習もさせられたわ」


 そちらの教本も出していく。


 どれも機械的で退屈な操作ばかりだし、あなたには必要ないと思って今まで話題に出すことすらなかったけれど、さすがは好奇心の塊というべきか、こんなことでもあなたの興味を十二分にひいたようだった。


「中学は職業の適正を調べるための機関なんだよね。だったらこれは何かの仕事で使うものなのかな」

「そうよ。私達デルタ系でも、適正がある人はカラーズを補佐する仕事に就けるでしょ? よく分からないんだけど、カラーズはプログラムをすることで世界を動かしているんですって」

「これで世界を……?」


 ごくり、とあなたの喉が鳴った。


「……もっと知りたいな」


 急に熱を帯びた視線で見つめられた。


「ね。僕もこれを使ってみたい。いいかな?」


 どきっとした――とても。


 こんな風に熱く見つめられたことはなかったから。


 薄く開いた窓の向こうから、蝉の鳴き声が急に増幅したかのようにうるさく響きだした。


 汗ばんだ肌の湿りと臭いがいつになく気になりだす――。


 動揺をごまかすために、「いいわよ」とラップトップをあなたへと押しつけた。


「私はもういらないから好きにして」


 中学生であれば誰もが持っている汎用型のラップトップは、あくまで適性を検査するためだけの道具として持たされていたものだ。けれど二か月後――秋から高等学校に進学することが決まっている私には、もういらない。


 ちなみに同級生の大半は中学卒業と同時に学問から解放され、これから一生肉体労働に励むことが決まっている。なので彼らもラップトップとはこれでお別れだ。私のママやあなたのパパみたいな仕事に就かないかぎり、今後は電子機器とは無縁の生活を送るのだろう。


 こういう電子機器を使いこなせるかどうか、それはとても重要なことなのだろう――世界の平和を維持するためには。カラーズがその偉大なる力をいかんなく発揮するためには。けれど私にはその深層を理解することはできていない。多分、デルタ系の誰も分かってなんかいないのだ。


「ねえ、ところで」


 もうこんなつまらない話は終わりにしたくて、私は早口で言った。


「明日は私、成人の儀式を迎えるのよ。何か言うことはないわけ?」


 中学を卒業した翌日は、どこの家でも成人の儀式が執り行われる。


 その日は同性の親――親がいなければ祖母でも叔母でも教師でもいい――によって、半日かけて成人とはなんたるかを説かれるのだ。


 そして儀式を終えた瞬間、子供は大人として認められる。


 大人というものは社会的責任を果たすものらしい。だけど、それ以外のことでは自分で自分の生き方を決められるってことで――想像しただけでわくわくしてくる。仕事をして、結婚して、子供だって作れるのだ。


「そうか。ニコは成人になる日をすごく楽しみにしていたもんね」


 ずっと触っていたラップトップを脇に寄せ、「おめでとう」とあなたが言ってくれたから、私は深い満足を覚えた。明日はたくさんの人におめでとうと言ってもらえるはずだけど、真っ先にあなたにおめでとうと言ってほしかったから。


「明日、儀式が終わったらまたここに来るわ。あなたの儀式は私がしてあげるんだから」


 多分、あなたは私よりも年上なんだと思う。けれど私は、あなたと私は同い年だということにしていた――思い込もうとしていた。


「それとね……私、あなたにずっと話したかったことがあるの」


 もう紅潮した頬を隠すことなんて無理だった。


 成人と認められたらあなたに好きと伝えたい――それはずっと前から決めていたことだったから。



 *



 でもあなたに告白することはできなかった。


 儀式ではママから様々なことを聞かされた。


 デルタ系が大人になるということは、一体どういうことなのか――。



 *



 午後、ふらふらとした足取りで研究室に現れた私を見て、あなたはひどく驚いた顔になった。


「どうしたの、ニコ? 顔が真っ青だよ」


 ほら座って、といつもの椅子に勧められ、なんとか腰を下ろしたところで、私はあなたの腕にしがみついていた。あなたに触れるのはこれが初めてのことだった。


「……どうしたの?」


 あなたが心配そうに伺っている。気遣ってくれている。それは分かっていたけれど、手が震えるのをどうしても抑えることができなかった。寒さと真逆の気候だというのに、どうしても抑えることができなかった。


 私は無理やり首を振ってみせた。なんでもない、そう言って。だけど、言ったそばからこらえきれない涙が頬を伝っていった。


「ニコ……?」

「ううん、なんでもない」

「何か辛いことがあったの?」


 あなたが心から私のことを案じてくれているのは十分伝わってきていた。


 だから思ったの――それだけでもういいや、と。


 他の何が満たされなくても、何を失っても、あなたが今こうして私のそばにいてくれるのならいいや、と。


 もう何も言葉に出すことができなくて、私ははらはらと涙を流し続けた。


 こういうふうに泣けるっていうことが大人になることなのかもしれない――そんなことを痛む頭の片隅でぼんやりと思った。

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