3.ひどい場所で暮らしていた
パパにはあなたに近づかないほうがいいって何度も忠告された。
それでも私はあなたに会いに行った。
これまでは下校後に運動公園に行くことを習慣としていたのだけれど、もう公園なんてどうでもよくなっていた。走ることも、縄跳びをすることも、キャッチボールをすることも――同級生とどうでもいい話をすることも、花かんむりを作ることも、蟻の巣を掘り返すのも、どうでもよくなっていた。
当初、頻繁に現れる私にどう応じればいいか、あなたは掴めずにいたようだった。私が顔を出すと、あなたは読書をしているか動物と戯れているかのどちらかだったけれど、「家からビスケットを持ってきたの」「おしゃべりしましょ」等々、いくら声を掛けてもなかなかそれらをやめてくれなかった。ただ、こちらを向いた頬は必ず緊張に硬くなっていて、私の存在を常に意識してくれていることは伝わってきていた。
けれど、私がめげずに通いつめるうちに、あなたの頬から次第に硬さがとれていった。そして少しずつ心を開いていった。
「あなたは本当はどこから来たの?」
向かい合う椅子に座って、足をぶらぶらさせながら、特に話題を決めずに適当に会話をしていくのがその頃の私達の過ごし方だった。
「シコクだよ」
「シコク? シコクって、ここからだいぶ遠いわよね。ちなみに、シコクではソウっていう名前は一般的なの?」
あなたは飼料の一部であるリンゴをかじるのをやめ、意外なものでも見るように私をじっと見つめてきた。
「一般的、だなんてニコは難しい言葉を知ってるんだね」
「そう?」
えへへ、と笑ってみせたら、あなたもつられたようにほほ笑んだ。
「……どうしたの?」
あなたに突然問いかけられ、今度は私がつかの間ぽーっとしていたことに気がついた。
「ううん、なんでもない。ほら、もっと食べて」
ハンカチで磨いた林檎を置き、机に両肘を乗せ、両手を組んだ上に顎を載せる。続きを聞かせてとうながすと、あなたはしなびた林檎を芯まできれいに食べつつ自分のことを語っていった。
「本当の名前はジングウジ」
「ジングウジ?」
「うん。でもジングウジ……ジウはもう死んだんだ。あの頃の僕はもういない。ジウを殺し、ソウとなることで生きながらえることができたんだ」
「ねえ」
「なに?」
「あなたの方がよっぽど難しいことを言ってるわ」
断言すると、あなたはぽかんとした表情になり、その後、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「そっか。そうかもしれないね」
「私、あなたが生きていてくれてよかったわ」
あなたの笑顔でこれだけ幸せになれるんだから――そんな恥ずかしいことは言えなかったけれど、しみじみと真心を伝えたら、あなたは笑うのをやめて私をじっと見つめ、言った。ごめんね、と。
「どうして謝るの?」
「……初めて会った日、ニコにひどいことをしてしまったから」
「ああ、あれね。あれにはほんとびっくりしたわ。気づいたら天井が真上にあって、全部夢だったのかと思ったんだから」
「ほんとごめんね」
何度も謝罪を繰り返すあなたに、私は「だったら教えて」と願った。
「どうしてあんなに怒ったのか、教えてよ」
じゃないと私だって自分の何が良くなかったのか反省できないわ――そう付け加えると、あなたは少し考えたもののうなずいた。そうだね、ニコには知る権利があるね、と。
「ナルセと僕はひどい場所で暮らしていたんだ」
ナルセ、と言われると自分のことと錯覚してしまう。普段、公的な場ではその名で呼ばれているからだ。ちなみにニコというのは家族間でのみ使う識別名称だ。二番目の子供だから、ニコ。兄はイチだし、弟はサン、その下の妹はシイと呼ばれている。ニイ、ではないのは、兄さんという言葉と勘違いしないようにするためだとか。
昔――教科書にも載っていないような遥かな昔、人間には姓と名という二つの言葉があてがわれているのが一般的だった時代もあったらしい。人によっては三つ、四つ有していたこともあったそうだ。でも今は違う。我が家の人間はみんな『ナルセ』、それでおしまい。それ以上の区別はカラーズにとって不要だ。
この世界を動かすカラーズ――アルファ系にとって、劣位種である私達はきっと犬や猫のように見えているのだろう。愚かで知恵の足りない、どちらかというと人間よりも猿に近い私達。だから私達は彼らの庇護、もとい恩恵を受けなくては生きていけない。そのためには家族単位で名前がついている方がお互い便利で――名前とはそういうものだと私は理解している。動物を研究しているパパだって、マルチーズの個体に覚えにくい名称をつけたりなんかしない。マルイチ、マルニ、マルサンといった感じだ。
「私、イチのことをあんまり覚えていないのよね。イチとはだいぶ年齢が離れているから。私とイチの間には二人の姉がいたんだけど、二人ともすぐ死んじゃったんだって」
だからだろう、両親は私に甘い傾向がある。
「物心ついたときにはイチは家を出ちゃってたのよ。イチが大学院に進学したすごい人だってことは知ってるんだけど、結局卒業する前にどこかに行っちゃったし。……ねえ、イチとあなたはどうしてそんなところで暮らしていたの?」
「ナルセも僕も無理やり連れて行かれたんだ、奴らに」
「あなた、パパやママは?」
「……会っていない」
あなたは重いため息をつくと、足りない言葉で生じた沈黙を補うかのように、ポケットに手を入れ、中の物をかちゃかちゃと鳴らし出した。
「その音、何なの? 暇さえあればいつも触ってるわよね」
「え? ああ、これは僕の宝物だよ」
「見せて!」
食いつき気味でお願いすると、あなたは一瞬目を逸らしたものの、しぶしぶといった感じでポケットの中の物を取り出した。絶対に触らないでよ、と何度も繰り返しつつ。
あなたが取り出したものは、手のひらに包めるくらいの、どうということもない袋だった。けれどその中から出て来たものは――。
「まあ、立派な熊の爪ね!」
「見ただけで分かるの?」
「分かるわよ。私のパパは動物の研究者なんだから。パパは熊の生態にも詳しいのよ。私、ここで熊の死骸を見たこともあるわ。二年前よ。ほら、あそこにかけられている毛皮はその時の熊のものなの。すごく大きいでしょ?」
せっかく話を逸らしてあげたのに、あなたは死骸という言葉に過敏に反応してしまった。ただでさえ隠匿生活のおかげで不健康極まりないのに、顔が土気色になっている。やがて「気持ち悪くなかった?」「怖くなかった?」とおずおずと問いかけてきた。
「平気よ。人間だって動物だって心臓が止まれば死ぬのは同じなんだから、気持ち悪いなんてことはないわ。怖くもない。あ、これは何?」
黒光りする曲線が美しい、鋭利な熊の爪。その他に貝のようなものが五枚あって、私はそれを指でさした。小さなものから、大きなものまで。でも、そのひときわ大きいものはまるで――。
「まるで人間の爪みたい」
思わずつぶやくと、あなたは「そうだよ」と誇らしげに認めた。
「どうしたの、これ」
「ナルセの爪なんだ」
「えっ……」
すうっと、熱がひいていくのがわかった。
「イチの――爪? どうしてそんなものがここにあるの?」
その時ようやく、私は自分の察しの悪さと薄情さに気がついた。
ひどい場所で暮らしていた、イチ。
でも、『暮らしていた』ってことは――つまり。
「ナルセは死んだんだ。僕のために」
あなたがそっと目を逸らした。
「あなたのために死んだ? どうして?」
「そういう場所に収容されていたんだ……僕とナルセは」
ほんとにひどい場所だったんだ――そう繰り返すあなたの表情はとても痛々しくて、これ以上は興味本位で訊いてはいけないことを察した。肉親の死の真相を突き止めたいという正義感が理由だとしても、簡単には責められない空気があったから――。
「死ぬ間際……ナルセは僕にこう言ったんだ。そのままの君でいてって」
「そのままの、君――?」
「うん。僕が生き続けることがナルセの最期の願いだったんだ」
それって都合のいい解釈過ぎない?
そう訊ねたい気持ちをぐっとくらえたのは、あなたが切なげな表情をしていたから。あなたがとても哀しくて美しい人だと思ったから――。
「ね。あなたはこれから何をしたいの?」
今思えば、隠匿生活をつづけるあなたに対して、私はひどいことを訊ねてしまったのかもしれない。実際、あなたはこれに「わからない」と言った。
「生きるために僕はここにいる。それがナルセとの約束だから。だけど、ここでただ息をして眠っているだけの僕を見て、ナルセは本当に喜んでくれるのかな。最近、そんなことを考えている」
うつむいたあなたは、ついさっきまでの美しさの欠片も有していなかったら、
「喜ばない、でしょうね」
言うや、私は衝動に任せて脇に置いておいた鞄を掴んだ。そして胸の内で爆発しそうな感情の代わりに、中身を思いきり机の上にぶちまけていた。
教科書にノート、ペンケースに歯ブラシ、分度器に三角定規、空っぽのお弁当箱に水筒――それらが雑多に散らばっていく。
「あなたが何をしたいか、一緒に探してあげるわ」
「一緒に? ニコが?」
「ええ。でもね、そのためにはたくさん学ばなくちゃだめよ。同じ本を繰り返し読んでいるだけでは駄目だし、動物と戯れているだけでも駄目よ。いろんなことを知らなくちゃ。でもって体も鍛えなくちゃね。体ってすごく大事なのよ。心の健康は体からだって、先生方もよく言ってるわ。ここでもできるような効果的な鍛え方を調べてきてあげる」
一方的に熱く語ってしまったかと、あなたの様子を伺うと、あなたは私の言葉を理解したのか、だんだんと晴れやかな表情になっていった。
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