2.うらやましかった
あなたとの驚愕の初対面から数分とたたずにパパが研究室に駆け込んできた。
「……ニコ⁈」
きっと防犯対策がされていたんだと思う。ドアが開いたら異常事態と判断して携帯電話にメールが届くとか、なにか。
「どうしてここにいるんだ? 小学校には行かなかったのか?」
食堂にいたのだろう、近づいてくるパパからは総菜やスープといった類の騒々しい香りがした。
「やあね、パパ。今日は代休よ」
「代休?」
「土曜日は工場見学だったでしょ。その振替で今日は休みなの」
ところで、とあなたを指す。
「この子、誰?」
訊ねながら、胸の内から覚えのない熱が沸き上がってくるのを感じていた。それは気づけば鎖骨から首を駆け抜け、じんわりと顔を火照らせた。
けれどパパは、娘の変化を好奇心か興奮の類と勘違いしたんだと思う。
「ああ、うん」
難しい顔をしていたパパだったけれど、私の強い視線を受け、「いろいろあってね」と弁明するように言った。ただそれだけを。そしてまた口をつぐんだ。明らかに強い困惑の中にいる。でも私にはパパがどんなことを考えているかなんて興味はなかったから、
「いろいろあるのは分かったから、この子が誰なのか教えてくれない?」
堪忍袋の緒が切れそうになるのを耐えながら促すと、パパは渋りながらもうなずいた。
「ニコ。秘密は守ってもらうよ」
秘密――なんて甘美な響きだろう。
「もちろん」
「これは他言無用だ。絶対に、誰にも言ったらいけない」
「こう見えても口の堅さには自信があるんだから」
「……この子はね、ソウと言うんだ」
「ソウ? 珍しい名前ね」
「もしかしたらこことは違う地域の出身なのかもしれないね」
「しれないって……。じゃあパパはこの子のこと、よく知らないの?」
呆れた私に、パパはいよいよもって難しい顔になってしまった。
こんなふうにパパが言葉を濁すことは滅多になくて、私は問いかける相手をあなたへと変えた。
「ね。どこから来たの?」
突然話しかけられて驚いたみたいだった。けれどあなたもまた無言を貫いた。まるでパパとあなた、二人だけが仲間で、私は蚊帳の外だと言わんばかりに。
いつまでたっても何も言おうとせず、しかも目を逸らしたあなたは、私のことをまったく尊重していない感じだった。
そう思った瞬間、かっとなった。
「何よ。あなたなんか大嫌いっ!」
あなたにはいくつもの嘘をついてきたけれど――これが初めてついた嘘だった。
*
パパは興奮する私をなだめながらも説明してくれた。
あなたをだいぶ前からここに住まわせているということ。私や他の人間が来る時には動物を飼育する隣の部屋へ移動させていたこと。あなたは私の兄の知り合いで、その兄のたっての頼みで預かっていること。――そして、あなたには戸籍がないことも。
「戸籍がないって……。それはすごくまずいんじゃない?」
小学生の私でもわかるようなことに、パパが神妙な顔でうなずいた。
「ああ。でも仕方がないんだ」
「仕方ないって何? だから隠れてるってこと? でも、もしもカラーズに見つかったらどうするの? この子やパパだけじゃない、私達家族もどんな罰を受けるか……!」
はっとして周囲を見渡す。
「……ここは? ここは大丈夫って前に言ってたわよね?」
カラーズ、いえ、アルファ系は動物に興味がないから、動物に関する研究室――つまりこの部屋には監視カメラや録音機の類は設置されていない……そう言ったのはパパだ。だから私はここに気軽に遊びに来ることができていたのだ。
アルファ系の彼らのことをカラーズと呼ぶのも、そう。私達デルタ系と違って髪や瞳がカラフルだからカラーズ――まるで南国の動物のようだから勝手にそう呼んでいるだけで蔑称ではない――と彼らのことを呼ぶのも、この部屋にいる時だけの戯れだ。
それでも念のため訊ねたのは――。
「安心しなさい。ここは大丈夫だから」
「そう、よね……」
この日、私は確かにあなたに恋をしたわ。
でもね、やっぱり当時の私はお子様だったの。
あなたよりもパパが大切で、パパよりも自分のことが大切だったのよ。
だから、安堵に胸をなでおろす私のことを、あなたがどんな目で見ていようとも気にならなかった。
「そういえば。イチは今はどこにいるの?」
急な仕事でいなくなってしまった兄――兄弟で一番年上だから『イチ』――のことを、私は常々気にしていた。単純にいえば、うらやましかったのだ。家を出て、生まれ故郷を離れ、自由に生きていられる兄のことが。
だから、
「遠いところだよ。すごく遠いところだ」
パパの返答はいつものごとくだったけれど、ついつい「いいなあ」と声を張り上げていた。この部屋にいると開放的な気分になりやすくて、普段なら心でつぶやくようなことでも声に出てしまう癖がついていたのだ。
「イチはずるいわ。自分ばっかり好きなことができて。私も遠くに行ってみたいのに」
この時の私の発言は年相応の女の子らしいものだった。なぜなら、私達デルタ系の生活は政府――つまりアルファ系によって厳格にさだめられていたからだ。
平日、子供は保育園や学校、大人は職場や生活用品の配給所くらいしか外出をゆるされていないし、毎日朝夕いずれかの一時間、それに週に一度全日解放される近所の運動公園へ行くことが最大の娯楽でありストレス解消法――そんな毎日だったからだ。
なのに、無表情を決め込んでいたあなたが私の発言に過敏に反応した。
「……遠くに行きたい?」
同年代の、しかも好意を抱いた異性から発せられる不穏な空気に、私はたじろいだものの果敢に応じた。
「な、なによ」
「……本当に行きたいの?」
「行きたいわよ。ここではないどこかに。それがどうかした?」
「だったら今すぐ行かせてあげるよ……!」
どこへ連れていってくれるの――と、私の脳内にお花が咲いたのは一瞬のことだった。あなたは私を思いきり突き飛ばすと、瞬時に馬乗りになってきた。
押し倒された途端、リノリウムの床の上で正体不明の動物の毛がいくつも舞った。
その毛がいまだ空を舞っているさなか、飛び掛かってきたあなたは全体重をかけて私の首を絞めてきた。
ぷつん――。
そこで私の意識は途切れた。
*