13.戦慄を覚える
朝、目覚めたソウは辺りを見回し、開口一番「ナルセは?」と訊ねてきた。この部屋唯一の小窓からは雲間からさす朝日が入り込み、ソウの子供らしい丸い頬を艶めかせている。眩しさを直視できず、俺は視線をわずかに逸らした。
「……いいから」
「ナルセは?」
「飯食ったら行くぞ」
「ねえねえ、ナルセは?」
「いいから早くしろっ……!」
腹の底から発した怒声に、ソウが怯えて涙目になった。所在なさげにきょろきょろと視線を動かす。だが当然、どこにも探している人物はいない。――誰もいない。
「ねえ、ナル……」
「飯を食えっつってんだ!」
もう一度、憤怒をもって声をあげると、ソウはようやく口をつぐんだ。だが配給食が置かれる戸棚を開けるや、こちらを振り向いた顔は一転してほころんでいた。
「ナルセは先に仕事に行っちゃったんだね。僕のこと置いてくなんてひどいや」
明るくすねるような声は、一睡もしていない俺の限界を容赦なく刺激した。脳内は焼き尽くされんばかりだった。今朝配給された食事は二人分――それはナルセのたどった現実を忠実に反映していた。
*
廃棄場の中央にはひときわ目立つ熊の死骸があった。茶褐色の毛は艶やかで、全長は有に二メートルはある。太い腕の先、両手の爪は太く鋭く、だらしなく開かれた口元、長く厚い舌の上下には使い込まれた黄色い歯がずらりと並んでいた。
こんな大物をあいつは一人で始末したのか――。
そう思うと戦慄を覚えた。
なよなよと死体を運んでいたナルセ。何かあるとすぐその目を潤ませていたナルセ。だがソウのために心を尽くしてきたナルセ。
その想いの結晶がこれなのか――と。
「うわあ、熊だよね、これ熊だよね?」
いつものごとくここには人間の死体もあるというのに、その非日常的な獣の存在に無邪気にはしゃぐソウはまぎれもなく子供だ。
だが俺は違う。俺はすべてを知っている。そして俺の目はあっけなくそいつを見つけてしまった。やがて興奮していたソウもまた、俺が凝視する方向を見やり――そいつを見つけた。
五体の死体のうちの一つがナルセのものだった。
他の四体がどこかしらを噛まれ、またはおかしな方向に体が曲がっていたりと、明らかに熊に殺された様子であったのに対して、ナルセのものだけは違った。乱れた服装は激しい闘いの末のものだろう。頬にある太い切傷痕はおそらく熊にひっかかれたのだろう。だがそれだけではない。熊にやられたと一見して分かるものはそれだけで、あとは人為的に成されたものばかりだった。
「え……あれナルセ……なの?」
つぶやかれたそれに、俺は何も言えなかった。
分かりにくいのも当然だ。生前の面影が分からないほどに――ナルセの体からはあらゆるパーツがなくなっていた。だがここでは詳しいことは――言わない。
ソウはしばらく茫然としていた。
だがやがて俺の手を引いて訴えかけてきた。
「ねえ、あれナルセだよね? ナルセだよね?」
「……ああ」
「なんで? ねえなんで……?」
見下ろすと、ソウは潤ませた目を俺にひたむきに向けていた。
それを見た瞬間、どう答えようかと迷っていた憐憫の気持ちは一気に吹き飛んだ。深く息を吸うや――鬱憤を言葉と共に吐き出していた。
「お前がそうやっていつも泣いているからだろうがっ!」
「……オオノ?」
「お前が……。お前がそうやっていつも泣いてばかりいるから、だからナルセは……!」
それ以上は言葉にならず、ソウの両肩を掴んでナルセの方へと向けた。
「お前のせいだよ……ソウ」
「僕の……?」
ソウはしばらく言葉を失っていた。静寂がこの場を包んだ。俺とソウ、熊、それに五つの死体。誰も何も言わない。動かない。重苦しい空気はこの場にふさわしいものだった。
だが次の瞬間、ソウが激しく暴れ出した。その小さな体のどこにそんなエネルギーがあったのかと思うくらいに。
「いやだあああ!!」
「やめろ! やめろ、ソウ!」
背後から羽交い絞めにしたところで、ソウは一向におとなしくならない。
「あああああ! あああああっ!」
腕を振り、上半身を何度もねじり、ソウは狂ったように頭を振り回し続けた。
「あああ! いやだあ、いやだいやだいやだああああっ!」
とうとうその体を持ち上げたが、それでもソウは床に足がつくかつかないかの不安定な体勢でより一層動きを強め、俺は渾身の力を振り絞らなくてはいけないほどだった。
ソウは顔を真っ赤にし、涎を口の端から垂らしながら叫び続けた。
「ナルセは僕のことなんて拾わなければよかったんだ! 僕なんか放っておけばよかったんだ! なんで僕なんか拾っちゃったのっ? ナルセは馬鹿だ! 大馬鹿だよっ!」
「そんなふうに言うな!」
「いいや言う! ナルセは馬鹿だ! いくらでも言ってやるから! ナルセの馬鹿馬鹿っ! 大馬鹿あ!」
昨夜、俺も同じ言葉をナルセにぶつけている。他にも言いたいことはいくらでもあったのに。だが今のソウと同じように何一つ言葉にならなかった。喉が詰まって、胸が苦しくて。頭の芯が痛くて。何一つ他の言葉が出てこなかった。馬鹿だと言って責める以外に。
そして今もソウを抱えることしかできないでいる。
「ナルセええっ……!」