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レジスタンス-それはありふれた絶望だった-  作者: アンリ
第一章 孤独を愛したはずの男について -オオノ-
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12.屈服

 そして――思い出すだけでも辛い一夜がやってきた。



「オオノ。頼みがある」


 その日、壁の色が漆黒に塗り替えられたばかりの部屋で、ナルセはいつも以上に険しい顔をしていた。くぼんだ頬にはそり残した髭がまばらに散り、だけど双眸は暗闇の中で煌めく対の一等星のようだった。


 厄介なことを言い出そうとする雰囲気だけは察し、俺は即刻けん制した。


「ソウにこれ以上優しくしろと言うんだったらそれは無理だからな」


 ベンじいの後釜が入らず三人だけでノルマをこなしているのだから、子供ですら貴重な戦力なのだ。なのにいつまでもやる気を取り戻さず、そのくせ一丁前に飯だけは食らうソウに、俺の怒りはいつまた爆発してもおかしくない状態だった。


 いや、それだけではない。怒りだけではない例えようもない感情にこのところの俺は支配されていた。ここに収容されてようやく、俺にも『本当の現実』が見えてきていたからだ。


 それはこの世界の異様さだ。


 アルファ系は優れている、だからデルタ系は命じられるべき存在だと、そう信じてきた自分。そう信じることすなわち、己の命どころか尊厳すら奪われるということだとも知らずに。それはたとえるなら細く長い板の上に立たされているようなもので、それを強要するアルファ系の方はといえばゆったりと豪奢な椅子に座って俺達を眺め笑っているのだ。


 この差は何なのか。同じ生きている者同士なのになぜ俺達は緊張や恐怖や痛みを許容せねばならないのか。持って生まれた外見や能力の差とは、ここまで俺達デルタ系を追いつめる権利があるものなのだろうか。


 ここでは絶望はありふれ希望は影も形もない。望む権利はなく手段もない。


 取り留めなく考え、考えては混乱し苦しくなる。だが学のない俺にはいくら考えても分かるわけもなく、なのに気づけば深い思索の穴にはまっている有様だった。


 だがオオノは俺の言葉に緩く首を振り、より一層、食い入るように見つめてきた。


「いいや違う。そういうことじゃない」


 それから「実は」と語りだした話は、どこかの法螺話か夢でも見ているのではないかと思うような内容だった。


 つまりはこうだ。実はナルセは大学院で動物の生態を研究していたらしい。そのことをナルセはすれ違う守衛に機会を見てはさりげなく吹聴したそうだ。どうりで最近、単独行動を好んでいたわけだ。一人で台車を曳くと頑なに言い張ることが日に一度はあったのだが、ソウの分も請け負いたいのだろうと、その意思をくんで任せてきたが……とんだ誤算だ。


 しかもナルセは守衛と話をするたびこう付け加えたそうだ。「僕なら熊と素手で闘うこともできるんだけどな」と。


 その与太話に研究者の誰かがのった。好奇心の強いアルファ系らしい決断だ。さっそく熊を一頭手配し、ナルセは研究棟でその腕前のほどを披露することになったらしい。


 しかもこれから、今すぐに。


「お前は馬鹿かっ!」

「しっ。ソウが起きる」


 唇を人差し指で押さえ、眠るソウを横目で見たナルセは、いきりたつ俺とは真逆でひどく落ち着いていた。俺はナルセに肩を寄せ、耳元、精いっぱいの小さい声で応酬した。


「なんでそんな馬鹿なことをしたんだ。お前みたいな頭を使うことしか能がない奴にそんなことができるはずがないだろう、自殺行為だ!」

「だからこそだよ。僕には頭しかない。僕にはオオノやベンじいのような立派な体はないから、自分にできることをするしかないのさ」


 唖然として見返す俺にナルセは勝手に結論を述べた。


「うん、僕はソウを助けたいんだよ。ここから出してやりたいんだ」


 一瞬、呼吸が止まった。


「んなことできるわけがないだろう! それにお前が研究棟へ行くこととそれがどうつながるっていうんだ……?」


 とっさに掴んだナルセの肩は、出会った日に比べて格段に肉が落ち、骨が浮き出ていた。しかし表情は凛としていた。出会った日よりもずっと。


 そこには強い意志が見えた。


「僕は必ずその熊を倒してみせる」

「……ナルセ」

「急所は知っているから大丈夫だ」

「……黙れ」

「熊の死骸は僕のいた大学の研究室に運ばれて解剖されるはずだ。アルファ系の研究者は人間にしか興味がないからね」

「黙れナルセ!」

「オオノに頼みたいのは、搬出される熊の体の中にソウを隠すのと、ソウの死を偽装してほしくて……」

「ナルセっ……!」


 これ以上聞き続けることはできなかった。


 ナルセが言うほど熊を倒すのは簡単なことではないはずだ。不可能と言ってもいい。


 いや、もしもナルセがそれを達成できたとしても――。


 もくろみ通り、熊の死骸を隠れ蓑にしてソウを生きたままここから出してやれたとしても――。


 その後、『お前』はどうなるんだ?


 俺の声の調子、鬼気迫る表情、肩を掴む指の力強さ。それらすべてでナルセは俺の疑問を理解したはずだった。だがナルセはただその目を柔らかく細めただけだった。


「……お願いだよ、オオノ。これは君にしかできない。この部屋に新しい人が入ってしまえばもう絶対にできなくなる。今しかないんだ」

「うるさい!」

「研究室には僕の父がいるんだ。父は優しい人だから、きっとソウを匿ってくれる」

「うるさい黙れっ……!」


 なぜそこまでする必要があるのか。俺にはナルセの考えていることがまったく理解できなかった。偶然通りかかって、偶然拾っただけの子供。それがソウだ。本名はジウという、死にたくないと泣いていただけの子供だ。


 それだけじゃないのか。

 それだけで……いいじゃないか?


 挑むようだったナルセの瞳は、ややあって乞うように俺を見上げてきた。


「オオノ、オオノ……」

「そんなふうな目をして俺を見てもだめだっ!」

「僕の生きた証、生きる願い、それはもうすべてあの子だけなんだ。だからお願いだ、お願いだよ……」


 その語尾はあまりに儚く、気づけば俺はナルセのことを強く抱きしめていた。震える腕の中、その体は見た目通り細く、ナルセの抱く大志とは不釣り合いだった。


 なぜお前はそんなふうに強い想いを抱いているんだ?


 本当は……お前だって死ぬことが怖いんだろう?


 問いたい衝動は狂おしいほどに激しく、俺は音が鳴るほどに歯を食いしばり、抱きしめる腕に力を込めた。


 ナルセの体はいつまでも震えていた。俺よりもずっと……震えていた。


「僕はあの子に幸せを与えてやれない。だからせめてその苦しみを取り除いてやりたいって思うんだ。あの子は死に怯えている。だからその死を取り除いてやりたいんだよ……」


 にじみ出る揺るぎない決意――。


「オオノ……お願いだよ」


 それはとうとう俺をうなずかせた。


 うなずかせてしまったんだ。



 *



 そしてナルセは夜分遅く去って行った。


 灯り一つ持たず、一人であの一本道を歩いていったのだろう。


 空は重い雲で覆われ、星も月も見えない暗夜のことだった。


 残された俺はベッドに腰掛け、その夜、一睡もしなかった。


 消灯し何も見えない部屋の中、護られるべき子供の軽いいびきだけが唯一の音であり救いだった。それを俺は頭を抱えながら一晩中聞いていた。


「あいつは本当に馬鹿だよ。大馬鹿だよ……」


 俺の声はもう届けたい男には届かない。


「たった一人残される俺のことなんて、あいつはこれっぽっちも気にしちゃいないんだぜ……? 笑えるよな……?」

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