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レジスタンス-それはありふれた絶望だった-  作者: アンリ
第一章 孤独を愛したはずの男について -オオノ-
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10.喪失

 その日、俺達は四人でいつものごとく運搬作業に従事していた。


「ねえナルセえ」

「なんだい?」

「お天気よくて気持ちいいねえ」

「そうだね。気持ちいいね」


 台車を後ろから押しながら、のんきな会話をするのはナルセとソウだ。ビニールシートで隠れているとはいえ死体を前にしてする話ではない。


「ね、あそこにバッタがいたよ? 緑のおっきなやつ」

「ソウは目がいいなあ」

「えへへっ」


 俺とベンじいは台車を曳きながら、二人の会話に耳を傾けていた。これがここのところの俺達の日常だった。ソウのやや高い声は、それまでのナルセの尖った口調を激変させた。今だってそうだ。些細なソウの発言に和やかに受け答えするその一つ一つが、こうしてベンじいを、俺を穏やかにしていく。


 昔、同じような穏やかな時間が日々の生活の中にあったことを思い出す。それはここに収容される前のこと、労働の合間のわずかなものではあったが確かにあったものだった。


 少しの言葉を交わし、視線を交わし。

 挨拶し合い、助け合い。

 触れ合い、ほほ笑み合い。


 ほんの少しのことでも人と人との間に絆や繋がりを感じられていた時間――外にいた頃には確かにそれがあったのだ。


 ふいの郷愁的な想いは青髪の守衛が近づいてきたことで打ち消された。


 俺達は足を止め、ナルセとソウは口をつぐんだ。全員に緊張が走ったのは習慣、いや本能によるものだ。とはいえこういうときは大抵世間話、つまり『今日はこういう実験があった、明日は、あさっては、来月は……』という楽しくもない現実を一方的に語られるだけなのだが。


 しかしこの日は違った。


「お前ら。誰でもいい、今から一人研究棟へ行け」


 瞬間、張り巡らされていた四人の緊張の糸はあっけなく切れた。


 実は俺達の組はこの労役のおかげでひどく得をしていた。他の組は朝から晩まで座る暇もなく大量の料理を作ったり、指がしびれるまで服や靴を縫ったり、馬のように重量物を運ばされたり、肉体的または精神的限界に挑むような仕事ばかりをやらされていたのだ。


 それに引き替え、俺達の組は時間にゆとりがあり、疲労困憊して昏倒するような作業でもなかった。確かに精神的には一番きついかもしれないが、そこさえ乗り越えればあとは楽勝で、この稀少性のある労役のおかげで、他の組に比べて被験者に選定される回数も極端に低いという恩恵もあった。実際、俺はG棟では指折りの生存期間を誇っていたし、ベンじいもそれなりに長生きしている方だった。同じ組、ナルセが来る前に連れて行かれたダイという少年はいたが、彼はデルタ系の中でも特に背が低い点が研究者の興味をひいてしまっただけのこと。


 だから、もはやなんの特徴もない俺達の組が標的になるとは思ってもいなかった。


「さっき急に一人追加してほしいと言われたんだ。すぐに向かえ。いいな?」


 それだけを言うと、守衛は長く青い髪をなびかせながら去っていった。


 デルタ系は自分の命令に従うのが当然だと言わんばかりに。


 俺達は死へ向かって歩くのが当然だと言わんばかりに。


「……ナルセえ」


 ソウがぎゅっとナルセの手を握った。すがるように見上げるソウの目は潤んでいる。あの日、あの朝と同じだ。ナルセは黙ってソウの小さな手を握り返し、地を見つめ、思案する表情になった。


 俺は……俺は?


 自分の感情を整理するよりも、考えをまとめるよりも早く。


 この場の沈黙を破ったのはベンじいだった。


「わしが行こう」


 誰もがベンじいのことを驚きの目で見た。特に俺がそうだった。あの自己愛の強いベンじいが、『昔のソウ』が亡くなっても何ら感傷的にならなかったベンじいが、自ら志願して研究棟へ行くと言い出したのだから。


 ベンじいは三人をかわるがわる見つめ、にこっと笑った。にこっ。その擬音がまさにしっくりとくる笑い方だった。初めて見る笑顔だったが、皺だらけの日に焼けた顔にそれはよく似合った。


「この組にはオオノ、お前が必要だ。ソウにはナルセ、お前が必要だ。ナルセにはソウ、お前が必要だ。だからわしが行く」

「ベンじい!」


 叫んだのは――ソウだった。


 本心をいまだ素直に表せるのはソウだけだった。


「ベンじい! 嫌だ、嫌だよお!」


 ベンじいはほほ笑んだままソウの頭を軽くなで、それから俺とナルセを一つの意志を持って見つめた。


「お前ら、あとは頼んだぞ」


 俺にはベンじいの言いたいことがよく分かった。つまり、ソウを黙らせ、ベンじいを行かせ、この組を、残る三人を守らなくてはいけないということだ。


 俺はためらいながらもうなずいた。それにベンじいが満足げにうなずき返した。次にナルセと視線をかわし、うなずき合い、本格的に泣き出してしまいそうなソウの首に一気に手刀を打ち込んだ。口を半開きにしたまま膝から崩れ落ちたソウを、ナルセがすかさず抱きとめた。


 静かになったこの場で、ややあってナルセがつぶやいた。


「……僕はあなたになんて言ったらいいんでしょうか」


 ベンじいは少し考えるようなそぶりを見せたが、ただ黙ってナルセの肩を軽く叩いた。それから胸元に抱かれるソウを見つめ、俺に向かって再度力強くうなずき、その足で迷いなく去っていった。俺とナルセが見守る中、ベンじいはやがてあの一本道にたどり着き、道に沿って研究棟へと消えていった。俺達はそれを台車を曳くことも忘れて見送った。


 それはよく晴れた日の午後のことだった。


 次の日も晴天で、俺とナルセはまばゆい陽光の下、変わり果てたベンじいの体を焼却場へと運んだ。全身の皮膚をはぎ取られていようとも、俺達にはすぐにそれがベンじいだと分かった。だからベンじいの体は懇切丁寧に扱った。依怙贔屓だろうか。でもそうしたかったのだ。


 その日は煙突から吐き出される煙を何度も見上げ、天へと還るかのような煙の流れるさまを幾度も目に焼き付けた。きっとその向こうに俺達の同胞が安らかに眠れる場所があるはずだと信じて――。俺も遅かれ早かれ行かねばならないその場所に迷うことなくたどり着けるように、そう願いながら――。


 ソウはベンじいが去った日に高熱を出し、容態が落ち着くまでに三日を要した。その間、俺とナルセは二人だけで四人分の仕事をこなさなくてはならなかった。だけどそれでちょうどよかった。大量の仕事は人を無心にする。ここでは心を残したままでは生きてはいけない。それは誰もが知る当たり前のことで、俺はそのことを再認識させられたのだった。


 ただ、あの一本道を歩く同胞を見かけるたび、ナルセが思わずといった感じでそちらを見つめ、一度だけこうつぶやいたのは聞こえた。


「あの道のことを僕は家畜のための道だと思っていた。だけど違った。ベンじいは違ったよ。……ねえオオノ、今あそこを歩くあの人は何を思って歩いているんだろうね。僕達もあの道を歩くために生きているのかな……?」


 俺はこの時も聞こえなかったふりをした。

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