暗い昏い嘘に泣く
ソッ……(11月更新予定という言葉から目を背ける音)
ピチョン ピチョン
水滴の音が響く。
洞窟の中で、岩肌から染み出した水が滴るような、透き通った音だ。
蓋で閉ざしたように暗いソコで、揺らめく水面が弾く、僅かな光だけが薄ぼんやりと、辺りを照らしている。
───彼は無事、“外”に戻れたのだろうか─────
ボーッと、視線は動かさず、瞬きもせずに遠くを見やる。
揺らめく水面の光を、薄ぼんやりとした冥界を、鮮やかに色輝かせる黄金がいた。
───もう少しだけ、お話をしたかった…ちょっと、ワガママだろうか───────
親に叱られた子どものように、背を丸め縮こまっている。
隅に隠れ蹲るその姿からは、かつての冥界の管理者たる威厳はない。
それでも、彼女は美しかった。
それでも、女は神々しかった。
去っていった少年と、もう少しだけでも一緒に話していたかった なんて、ワガママな自分を恥じる少女のように在りながら、しかし彼女は神であった。
───自分が彼にしてあげられることはなかった──
だから、彼を“外”へ戻した
その思いを持ちながら、自分のために話をしてくれた彼を、こんな場所に繫ぎ止めるのが申し訳なかった。
───もう十二分に、お話したんだから──────
“ワガママな私”を押し殺し、死者の国の管理者として、冥界の主として、生者である彼を外へと………
好きな振る舞いが出来るのは楽だった。
気ままに言葉を発するのは楽しかった。
彼が紡ぐ言葉は新鮮で素晴らしかった。
頭に流れ込む情景がどれも美しかった。
冥界に、水滴の音が響く。
閉ざされた暗闇で、長い年月をかけて地中から染み出した水が、岩肌に滴るような透き通った音だ。
水面は揺らめく。
波1つ立たない凪いだ鏡のような水面は、静かに、しかし絶えることなく揺らめいている。
乱反射する光が、小さく蹲る黄金を照らす。
泣き疲れた子どものように、小さく背を丸め、縮こまっている。
─────もうちょっと、もう少しだけ、お話…したかった……なぁ…
地上に輝く砂塵の星はもうない。
冥界を灯す蒼い焔も全て消えた。
あれだけ広大な領域を誇っていた冥界は、より昏い闇へと無くなっていく。
この消失に、冥界の民たる魂が巻き込まれなかったのは、せめてもの救いだった。
そう考えると、やはり彼にしてあげることがあれ以上になかったことを悔やんでしまう。
“自分”には、何もなかった。
女神エレシュキガルには、色んなものが与えられた。
冥界を管理する上で、必要以上なもの全てを持っていた。
だから望むことは許されなかった。
ソレは、持たざる者の特権だ。
持たぬが故に、望むことを許される。
邁進という術を身につける。
人々が見上げる夜空とはどんなものだろう
活気とは、営みとはどんなものだろうか
“死者の国には必要ない”
この手にないものは、全てそう言われているようで
事実として、人々の営みも、活気も空も、冥界の女神には1つとして必要ではなかった。
ひたすらに、女神エレシュキガルという役割を果たそうとした。
魂の行く末を、その世界の管理を
理を定め、領域を広げ、安寧と休息の地足らんとした。
“私”には、何もなかったから
持っているものは、“女神エレシュキガル”だけで、私という単一の存在に与えられたものは、得たものは1つもない。
そして、その権能すらも、既にこの身を離れている。
だから恐怖することはない。
女神が消える訳ではない。
女神には恐怖なんてない。
何もない存在が、消失するというだけのこと。
既に無くなった存在が、無くなる筈だったものが漸く、終わりを迎えるというだけのこと。
安寧と休息の地は、既に役目を終えている。
残った魂は彼によって安らぎを得た。
“私”が消えることに恐怖はない。
最期の想い出は、彼から貰った。
何もない“私”の、たった1つの貰い物。
女神エレシュキガルではない。
冥界の管理者としてでもない。
“私”が最期に言葉を交わした、たった1人の相手。
その彼との会話だけは、絶対に“私”だけのものだ。
“私”だけが持つ、“私”だけの宝物。
独占欲が強いのだろうか、それとも普通なのだろうか、知る由はないし、知りたい訳でもない。
けれど、大切なものを独り占めしたくなる、この気持ちが満たされるのは、素敵なことだと、そう思える。
まるで女の子みたいに、夢を描ける。
それは、とても素敵なことでしょう───────
静寂の帳が降りる。
無音より尚濃い闇の世界が、消失に支配される。
囁く声も、水滴の音すら小さく
女は、闇に背を預ける。
“そこ”は既に冥界の岩壁ですらなく、何かの感触すらない。
不安と心細さに苛まれながら、それでも頬を拭い、上を向く。
自分の消失まで、もう僅かな時間もないと理解している。
“やりたかった”ことが、自分にはあったのだろうか
女は、思い返すように自問する。
胸中に残るこの“痼り”が、果たして後悔と呼べるのかは分からない。
けれど、“やり残した事”はないと、胸を張って言える。
そんな充足感が、思い出の中に在る。
女神エレシュキガルとしての使命も、彼に貰った“自分”も、果たすべきを果たした。
助けられた部分もあったが、だからこそ彼に与えた。
それが助けに見合うだけのものかは自信が無いけれど、人に与えるには過剰なものではある。
だからきっと、自分に出来ることは全部やり尽くした筈だ─────────────
女は、問いを続ける。
神であった頃とは異なる 自分への問いかけを
“どうするか”ではない、単純な自問自答。
益体もなく、無為とも言えるそれは、しかし自らの為に必要な行動で、年頃の乙女のように、女は笑みを浮かべていた。
音もなく、光もない無への消失の中
女の笑顔だけが、静かに咲いていた。
水滴の音だけが、静かに響いていた。
震えてはいない。
女に恐怖はない。
思い出の希望を抱きながら、神代の遺物は消失した。
1人の少女が消えた。
─────“怖がる”というのがどんなものか、彼に教えてもらっておけば良かった───────────
自分に出来たことを思い返して、ちょっとだけ悔やみながら……
その思いすらも、虚無へ消失した。