小さな改革
執筆者:雪村 夏生
まあ、最近は成績も上がってきて、お母さんにも怒られなくなって、あっ、今さらなんだけどさ、ゆったりと落ち着いた声が、いったん止まった。続きを待っていると、人差し指がこちらの足元を指す。
「君の立っているちょうどそこ、骨が埋まっているって言うの、すっかり忘れてた」
すぐに言っている意味が理解できなかった。
由香は百八十度回転して、海の方に身体を向けた。両手を横に伸ばす。あー、誰もいない朝の海って、ほんとにきれい。待ち合わせをして近況報告を始めた瞬間から今まで、全く口調が変わらなかった。むしろ初めて知り合った、中学一年生の頃から話し方に変化はない。ゆったりと落ち着いていて、実年齢よりも大人びた印象を受ける。
だからなのか、つい今しがた彼女が言った言葉をようやく理解したとき、妙に納得してしまった。
「どうして、骨があるってわかるんだい?」
由香は肩越しに振り返った。「そうだなあ、君にだから話してしまおうかな」無表情から一変して満面の笑みに変わる。また百八十度回転した。
「いよいよ、殺しちゃった」
ああ、やっぱり。最初に起こった気持ちが、納得だった。
別に、彼女が以前から極悪人であったわけではない。殺したいとほのめかしていたわけでもない。だが、ひどく納得してしまった。そのせいか、次に来た感情は叱責とか憤慨とかではなく、純粋な興味だった。
何を殺したんだい。訊いてみると、笑顔が一瞬にして消えうせた。しかし元の無表情に戻ったわけではない。微かに口元は緩んだままだった。クティーのこと、覚えてる? この一言でだいたいのことは理解した。
クティーは彼女の愛犬だ。下校途中に一緒に見つけた。道端に段ボール箱が置かれていて不思議に思い、中を見たら子犬が入っていた。犬好きだったこともあったし、こちらを見つめる瞳が助けを求めているようでもあったので、拾い上げて抱きかかえた。連れて帰りたい気持ちは山々だったが、あいにく母親が大の犬嫌いであった。仕方なく段ボールの中に戻そうとしたのだが、横から手が伸びてきてすくい取られた。このまま放置するなんてかわいそう。持ち帰っちゃおうかな、と感情はなく、平たんな声で言った。ねえ、君が名前をつけてみて。自分のペットにするならば、自分でつけた方がよいのではないかと思ったが、結局つけてやった。ミルクティー色をしていたから、クティー。我ながら単純だなあ、と思った。
中学卒業と同時に引っ越してしまうから、クティーはどうしたらいいかな。卒業の二ヵ月前、唐突な告白はいつもと同じ調子だった。連れていってもいいけど、そうしたら君はもう、クティーと会えなくなってしまうから。なんと返事をしたかは忘れてしまったが、少なくとも彼女はクティーを手放すことはなかったのだから、構わないとでも言ったのかもしれない。
「どうして、クティーを殺したんだい?」
「あのね、将来は犯罪者になろうと思うんだ。それでね、世界を正すんだ」
流れを無視して放たれた一言は、なんだか異様に明るかった。三年ぶりに会う友人の顔をまじまじと見つめ返す。驚きはしなかった。だからといって、納得もしなかった。
「じゃあ、僕も犯罪者になろうかな」
由香は首を横に振った。
「そうちゃんには、なれないよ。そうちゃんは、警察官になって、私を捕まえるんだ」
またくるりと回転し、こちらに背中を向けた。少し、由香の頭の位置が低くなったように思うのは、こちらの身長が伸びたせいか。
来てほしい。集合場所はここ。たった二文の下に住所が添えられていたメールが届いたのは、一週間前。ちょうど予定も空いていて断る理由もなかったから、二つ返事で了承した。
来てみれば、ここのあたりが由香の引っ越した先なのだと教えられ、とりあえず近況報告をしあった。由香は中学の頃から、成績については親から強く言われていて、順位を一つでも落とすと叱られていたらしい。知る限り、彼女の学年順位が五位以下になったことはない。話しの節々から、彼女が現在通っている高校が、かなりの進学校であることは知れた。引っ越した理由は知らないままでいたけれど、進学先が原因であったに違いない。
「クティーはね、もう病気で死にそうだったんだ。でもどうにか治療して、生かされてたんだ」
あっ、と思わず声を出した。由香が肩越しに振り返る。口を開いたが、ついぞ声は出なかった。