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海とカメラ

執筆者:折穂狸緒

 海を見ることが好きだった。


 キラキラと太陽が反射した水面。爽やかな潮風。白く焼けた砂浜。時折空を横切る白い鳥。

 

 全部、海の全てが好きだ。


 きっかけはなんだったんだろう。

 嗚呼、そうだ。


 遥か昔。

 僕がまだ小さな子供だった頃。


 貴方が海にいたせいだ。



 僕の父親がまだ現役で転勤を繰り返していた頃。

 僕と母親は父親とともに国内を転々としていた。

 そして、何度目かの引越し。

 一ヶ月だけの滞在となった、海の見える街。

 初めての海だった。


 安いアパートに未開封のたくさんのダンボール。これから住むというのに部屋の中は薄暗かった。

 母親は相当疲れていたんだろう。振り乱した髪の毛と化粧っ気のないカサついた肌にはぽつぽつとシミが目立ち始めていた。


 僕の記憶の、一番古い母親は生きる希望に満ち溢れていて、笑顔が素敵な女性だった。


 けれどもあの時の僕の瞳に映るのは暴力的で口元が引きつった猫背の醜い女だった。


 度重なる引越し、近所付き合い、その他もろもろ。

 母親も限界だったんだろう。海の近くに引っ越してきた次の日、酒に溺れた。


 それからというものの、僕を視界に入れては怒鳴り散らした。ひどい時には暴力だって。


 父親は仕事で深夜にしか帰ってこない。引越し続きで他に肉親も親戚もいない。

 

 味方は一人もいなかった。


 そこで僕はひとつの方法を見つけた。

 逃げる、ということ。


 学校が苦だったことは一度もない。だって嫌なことがあってもすぐに移動できるから。いじめられても少しの我慢だ。別に気にするほどのことでもなかった。

 友達ができないのは少し残念だったけれど。

 

 けれど家のことはどうしようもない。引っ越しても家の中の人間が変わることはない。


 だからそんな家の中にいる時間を少しでも抜け出すために、逃げた。


 初めての街。初めての道。見たことはなかったけれどなんとなく、適当に走った。


 まっすぐ、時折角を曲がってみたり。

 楽しかった。

 こんなにも走ることが楽しいと思ったことはなかった。


 そして走って数十分。

 長い柵を見つけた。

 どうやら続きがあるみたいだ。なんだろう。

 僕は柵に近寄ってみた。


 ざぁっと波の音。ぶわりと薫る塩っぽい風。遠くでキィキィと鳥の鳴き声がする。

 そこで僕は気づいた。

 これは海なんだと。

 絵本や小説、テレビでしか見たことのなかった海が今、僕の目の前に広がっている。


 抜けるような青空がそのまま地面に張り付いたように、真っ青だった。

 

 僕はそのまま柵を乗り越えて砂浜へと駆け出した。


 さらさらした肌色の細かい粒が僕の足元に絡みついた。靴の隙間に入ってくすぐったい。

 もどかしくなって靴下と靴をそのまま脱ぐ。

 

 目前には海。なんだか僕は飛び込みたくなった。

 ここに飛び込んだらもう母親の顔は見なくて済む。逃げられる。


 勢いよく助走をつけて、ジャンプ――


「こらこら。ダメだよ」


 しようと思ったらできなかった。

 後ろの方で声が聞こえた。

 しまった。近所の人かな。怒られちゃうのかな。ひょっとしたら殴られる、かもしれない。

 

 そんな事を思いながら恐る恐る後ろを振り返った。


 そこには昔の母親がいた。


「――母さん」


 昔のような綺麗なつやつやの黒い髪の毛。白く透き通った肌。穏やかな笑み。

 全部、昔の母親の通りだった。


 昔の母親は真っ白のワンピースと同じく白いレースのパラソルをさしていた。

 くるり、回るパラソルは幻想的だ。

 首に下がった大きなカメラが黒光りしてなんとなく怖いな、と思っていたことを今でもしっかりと思い出せる。


「ふふ、私は君のお母さんじゃないよ?」


 その女性は困ったように笑った。

 でもどうして? こんなにそっくりなのに。


 そう僕は言うとますます彼女は考え込んだ。


「うーん、それはよくわからないけれど、他人の空似……なんじゃないかな?」


 彼女が言うならそうなんだろう。クスクス笑う彼女を見たら、心が和んだ。

 もう僕はその女性が母親だろうとそうでなくても、もうどうでもよかった。


 それから、僕と彼女は砂浜に座っていろんな話をした。


 まずは僕の話。

 父親が転勤を繰り返して引越しばかりをしていること。

 この街にもあと一ヶ月で離れなければならないこと。

 母親が最近僕に暴力をふるってくること。

 友達が全くいないこと。

 でも全然寂しくなんかないこと。

 海を初めて見たこと。

 彼女が昔の母親にそっくりなこと。


 次は彼女の話。

 この街は彼女の故郷だということ。

 元々海が好きで一年のうち何度かここに戻ってきていること。

 写真を撮ることが趣味なこと。

 旅行することが好きなこと。

 けれど生まれつき病弱で運動が苦手なこと。

 小さい頃は何度も高熱を出して親を心配せたこと。

 まだ大学生だということ。

 だから僕に母さん、と言われて少し驚いたこと。


 海の色が真っ赤になるまで僕たちは話し続けた。

 頬を撫でる潮風が心地よくて、磯の香りが気持ちよくて。

 ずっとここにいたい、と思っていた。

 

 けれど家の人が心配してるでしょ、と彼女が自分のことのように悲しい顔をするから渋々別れを告げることにした。


「また明日ね」


 明日があるんだ。そう当たり前のことを不思議に思いながら手を振った。


 どうやらこの街の学校はしっかりと機能していなかったようだ。それにあの母親の様だ。入学手続きすらもしていないだろう。


 それから毎日。僕と彼女は海を眺めながら話をした。

 いろんなことを話した。僕のこと、彼女のこと。


 毎回彼女は僕をカメラで撮ってくれた。


 カメラを構えた彼女。

 白い指がボタンを押す。

 一瞬だけ視界が白くなる。


カシャリ、ストロボとともに聞こえたあの音がとても好きだった。

 それからふ、と僕のほうを向いてふわりと笑いかけてくれる。

 

 あの顔がとても魅力的で。

 可愛らしくて。


 触れたくなって。

 

 今思えば初恋だったんだろう。

 

 胸の鼓動がやけにうるさくて病気みたいだった。初めての感情だった。

 でも彼女の笑顔を見たら全部吹っ飛んだ。


 それから何日も何日も過ぎていった。

 とうとう僕がこの街を離れなければならなくなった最後の日。


 なぜか彼女は海に来なかった。

 最近は約束なんかしなくても次の日には当たり前に会っていたから、初めてのことだった。

 

 悲しかった。


 キラキラ反射している水面がなんだか癪で何度も飛び込んでやろうと思った。

 そうしたら彼女が後ろからたしなめてくれるんじゃないか、なんて期待しながら。

 実際、僕は一度だけ飛び込んだ。


 冷たかった。


 あれだけ照りつけてきた太陽じゃ足りないくらいに寒くなった。

 当然彼女は来なかった。その時初めて泣いた。

 

 虚しくなった。


 僕はただひとりでじっと青い海を眺めていた。

 太陽が海へと落ちるまで。


 彼女の名前はわからない。僕の名前も教えていない。

 もしかしたら彼女は一足先にどこかへ行ってしまったのかもしれない。

 もしかしたら生まれつきの病弱で倒れてしまったのかもしれない。

 だけどもう僕にはわからない。

 遠ざかる海の言える街を車の中から眺めていた。

 助手席には強く目をつぶった母親。

 運転席には黙ったままの父親。

 漠然と立ち込める不安だけ持ち帰ってきてしまった。色鮮やかな感情や楽しい思い出はあの飛び込んだ時全部海に溶けた。

 

 そんな中、車は無情にも新たな地へと向かっていった。


 それから数十年。

 僕は十分すぎるほど成長して、両親は数年前に離婚した。


 育ち過ぎた僕の趣味は写真を撮ることになっていて、肩から鈍く光る大きなカメラをぶら下げていろんな場所を訪ね歩く、いわばひとり旅になっていた。

 

 彼女とは一度も再会していない。連絡先も知らないから当然といえば当然だ。

 風の噂で聞いたけれど、あの海の見える街は最近起こった大地震で街そのものが津波で飲まれてしまったのだという。

 もう二度と僕はあの綺麗な海を眺められない。

 彼女と眺めたあの海を。


 海を見ることが好きだった。


 キラキラと太陽が反射した水面。爽やかな潮風。白く焼けた砂浜。時折空を横切る白い鳥。

 

 全部、海の全てが好きだ。


 初めての街。どこか昔訪れたことのあるような懐かしさに満ち溢れていた。


 僕が砂浜に踏み出したとき、波打ち際で佇んでいるひとりの少女に気づく。

 白いワンピースを纏って、傍には白いパラソルが転がっていた。

 その少女はすっと数歩後ろに下がってぐっと体を丸めた。


 飛び込もうとしてるのか。


 途端、その光景が遥か遠くの僕の姿と重なってぶわりと溶けてしまった思い出が蘇った気がした。

 

 少女の足が白い砂浜から離れる前に。


 思わず僕は声をかけた。


「こらこら。ダメだよ」


初参戦させてもらいました。これからメキメキ参加したいやる気と情熱はあります。

稚拙ながら必死に悪足掻き中です。

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