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紅天河

作者: 史花



 まるで天国。



 無数の赤い華。

 大地を埋め尽くす華の群は、天の国の大河のように、淡紫色の空へ広がる。

 これほどの光景を初めて見た。


「曼珠沙華ですね……」


 四華の一つ、曼珠沙華は天上の世界に咲くという。

 風にさやさやと揺れ、一つ一つの触れ合うさまは、女人の裳のように艶やかだった。


「ならばここは天国でしょうかしらね……苑里(えんり)さま」


 一回り歳上の李子(りし)は、朗らかに微笑む。

 輿から降り立つと、何も言わずに歩いてきたのに、忠実な侍女は後ろに控えていた。



 天の国ならば、魂はこの大河の果てにあるだろうか―――。


 目の前のものを一本手折ってみると、緑の茎の根元には朝露が溜まっていた。

「後二日ほどで城ですわ。姉君も弟君も、きっと首を長くして苑里さまを待っておられるでしょう……もう、十年ですもの」


 私はとうとう戻ることができる。

 苦しみから解放された。もう牢獄にいるような思いをすることもない。

 でも不思議だ。

 泣くほど待ち望んだ母国へと戻るというのに、この寒々しさはなんだろう。



 心は定まらないまま、引きずられるように華の群へ入ってゆく。

 後ろから、李子の歌うような声が聞こえた。

「劉僖さまも夫も、この果てにいらっしゃるかもしれませんね」


 彼女は炎に包まれた地獄のような城に、長年連れ添った夫を置いてきた。

 あの城から生還したのは、私と李子の二人だけだった。

 朝靄の中で延々と続く曼珠沙華の群。


 私には血の海にも見える。



 なぜあの男は言わなかったのだろう。今になってはわからない。




 十年前。嫁いだのは数え十三の歳。

 すぐに壊れかねない和平の上に成り立った結婚。体裁の良い人質だった。

 私は私なりにその事実を理解して、花嫁の輿に乗った。


 結婚相手、劉僖(りゅうき)に会った時の事を覚えている。

 輿から降りた時、その風景は美しかった。

 こぼれるように桃の花が散っていた。

 その中に家臣を従えた劉僖がいた。


 最初顔を合わせた時、私はあの男に好感を持ったものだった。

 細い顎に神経質な鼻梁。十五の割に鋭い眼光を持った人間だった。

 非凡のかけらはその頃から見えていた。


 けれどすぐに私は自分の愚かさに気付くことになった。

 小さな勇気をもって微笑みかけた私に、彼は最初から冷たかった。


 暗闇の始まりだった。

 私はすぐに、微笑む意味を忘れていった。




 始めの出会いからそうであったから、年頃になってもその夫婦関係は変わらなかった。

 一国の武将の姫として、それまで下にも置かれず育てられた私は、 この世に自分を虐げる人間がいることなど考えたこともなかった。

 幾度もの酷い仕打ちの中で、絶望を味わった。

 形式上そばにいることがあっても、ほとんど話をすることもなかった。

 双方から望まれていた子供も授かることはなかった。


 劉僖は私よりも気が利き、私よりも美しい愛妾を数えられぬ程そばに置き、その享楽的、退廃的な 生活の様は国外にも届くほどだった。

 呼びつけられて行くと、いつも酔った状態で妾と一緒にいた。

 気の利かない奴よと嘲笑う姿は、妻に対しての微塵の情もなかった。

 目を覆いたくなるような出来事の数々。


 幾多の屈辱が私を変えていった。




 成人してからの劉僖は、近隣国と数々の交渉を結んでは破り、戦を始めた。

 元はこの辺り一体を強力に支配していた国は、劉僖の父親が亡くなってから急速に衰退していた。

 彼の根底には、どこか底のない絶望と自虐的な破壊願望があるように思えた。

 しかし私にはそれさえ傲慢な意志であり、憎悪の対象だった。

 劉僖はそれらの狂気を十分な程―――容赦なく私へと向け、思うままさいなんでいたのだ。

 国同士の関係以上に、日々苦痛を受ける環境が城内にあった。



 閉ざされた空間での十年間は、私を苦しめた以外の何物でもなかった。

 外に出たかった。

 幼い頃のように、梨の園を駆け巡り、山から広がる景色を見渡す。

 汚濁にまみれた現実を憎んだ。

 夜な夜な、暗く高い塀を越えて、鳥のように羽ばたく夢を見た。



 でももう終わったのだ。

 劉僖は私の実父である嶝珈(とうか)に攻められ、自刃して果てた。私の目の前で。


 私は自由になったのだ。




 不意に華の中から、李子は優しげに言った。

「劉僖さまはお優しい方だった……夫はいつもそう言っておりましたわ。武人に非ずと」


 劉僖の素行を見尽くしている李子が、一体何を言っているだろう。


「不思議ですわ。意外に誰も寄せ付けず、一人で部屋にこもられることがお好きだったとか。 一体、何をしていらしたのでしょう……」

 目をそらした。微笑む李子は女菩薩のようで疎ましかった。


 なぜ李子は私の心を抉るような事ばかりを言うのか。


 父があの男に兵法の鬼才を見ていたと、敗戦の民達は口を揃えて言った。

 真実は知らない。

 でも遅かれ早かれ、あの男の振る舞いは近隣国全てを敵に回していただろう。

 破滅の歯車を自分から好んで回していたのだ。




 落城の前夜、あの男は愛妾の代わりに私を呼んだ。

 和平の条件は私の命の保障だった。

 五年以上入ったことのない部屋での時間は、口論さえなく静かなものだった。

 めずらしく彼は酔ってもいなかった。


 そして翌日の昼、侵入してきた兵が居室に辿り着くまでに、自刃した。

 共に死ねとも、死ぬなとも言わなかった。

 唯一頼まれた通り、もがき苦しむ中を確実に死へ向かうようにと、私は満身の力を込めて劉僖の刀を押した。

 それでも静かな最期だった。

 目の前で一つの命が尽きるのを、無言で見下ろしていた。


 入ってきた兵達は彼の首を取ると、救出とは名ばかり、金品を求めて部屋を荒らしまわった。


 もし彼らが一つの文箱を投げやらなければ、私は自分を失いはしなかっただろう。


 投げやられた文箱は、床に転がった。

 高価でもない螺鈿細工の文箱。

 散らばった絵筆と無数の絵。


 使い込まれた筆は、主人のそばに添い遂げるように転がっていった。

 床に広がった淡い極彩色の、たおやかな絵の数々。

 それらはみな物品に血眼の兵たちに踏みつけられ、血の海の中へと沈んでいった。


 全ては私の姿絵だった。




 なぜあの男は言わなかったのだろう。今になってはわからない。

 何も言わず死んでいった。

 ただ思う。

 それが―――長い間ある一つの真実に気付かなかった私への、 あの男の復讐なのかもしれないと。




 朝靄の中に、紅の河が広がる。


 曼珠沙華。紅蓮華。天上に花開くという。


 一度も、愛しているなどと思ったことはない。

 憎み通した。

 でも何を真実だと言えるだろう。全て紙一重ではないか。


 汚濁にまみれた現実を憎んだ。

 夜な夜な、暗く高い塀を越えて、鳥のように羽ばたく夢を見た。

 でも憎めば憎むほど、魂の翼は重くなるばかりだった。


 愛していたなどと言わない。



 なぜ涙が出るのだろう。

 なぜ狂ったように泣くのだろう。

 私は同じ狂気をもった片割れを失ったのだ。

 私は今、地獄の鬼のように、あの男の魂を求めてさまよい歩いている。


 ひそかに仕組まれた凶悪な復讐。

 私の中だけに燻り続けて、永遠に消えない。


 それが無言で逝った、あの男の望み。



 私の前に、天上の世界は見えない。

 私は永久に、地上の孤独を泣き叫びながらさまよい続ける。



 私の前に、天上の世界は見えない。



 ひざまずいて、空を仰いだ。


 白い鳥が一羽、淡紫の空を横切っていった。







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