-初めての異世界-
ふと気が付くと、七織は見知らぬ場所に立っていた。
そこは見渡す限りの雄大な自然で、七織の記憶に残る景色の中でも一番と言ってよいほどに美しい場所だった。あまりの美しさに一瞬ここがどこであるのか考えるのを忘れてしまったほどだ。
「あー、いけね。とりあえず現状の確認をするべきだよな」
予想外の事態の時こそ落ち着いて行動しなければいけない、ということは大体の人はわかっているだろうが、案外そうあれる人は少ない。しかし、七織はその例にあたわない。
ここで七織について少し説明するとして、七織という人物を表すのに"天才"以上の的確な言葉はないだろう。眉目秀麗であり頭脳明晰、とはいかず頭に関しては顔面詐欺といわれる程であるのだが、では彼の何が天才であるのかというとそれは、彼の運動神経と身体能力なのだ。
七織はこれまでに数々のスポーツや武術などをやってきが、どれも長くは続かなかった。最長でもおよそ半年といったところだ。別にそれは七織に才能や忍耐力がないからではなく、偏にやることがなくなったからである。つまり、少なくとも技術的に見て七織が出来ないことなど半年もすればなくなってしまうのだ。それこそが彼が一つのことを長く続けてこなかった理由であり彼の"天才"の左証でもある。
以上のことから七織は常に妙な自信に満ち溢れており、大抵のことでは動じないという自負もある。だから今この瞬間も冷静に状況を判断することができるはず、なのだが。
バサリ、と羽撃きの音と共に一羽の怪鳥が降り立った。ギョロリとした目、毒々しい体色。そして何よりもその体の大きさ。それらの点を加味した上で全く見たこともない、明らかに地球に存在するはずがない生物を目にした七織は。
「うわおおおおっ、なんだこれ、バケモンじゃねーか!」
見事に動揺し、その精悍な顔を歪ませて、怪鳥がその大きな口を開ける度に漏れ出す火の熱気を感じながら叫んだ。思わず我を忘れていた七織だが、食い殺さんと自身に迫ってくる怪鳥を見てはっとなり、直ぐに怪鳥とは反対の方へと走りだす。走りにも当然自信のある七織は逃げきれると思いほっとしたが、怪鳥は口を大きく開け、舌を垂らし目を見開き狂ったように鳴きつつものすごい速さで追いかけてくる。
「くるくるくるくるくる、クルッポー。くるくるくるくるくる、クルッポー」
「見た目の割に随分可愛い鳴き声なだな、おい!」
思わず転けそうになりながらもツッコまずにはいられなかった。
しかし、無駄に叫んでしまったことにより、息が苦しくなり走る速度が少し落ちてしまった。距離が僅かに縮まると先程からチロチロと口から覗いていた火を七織に向けて吐き出してくる。怪鳥から放たれた赤く揺らめく火は運悪く七織のズボンに当たり、そのズボンを燃やし始める。
「熱ー! や、やばいぞこれ、早く脱がなきゃ」
素早くズボンに手をかける七織。しかしその瞬間に七織の頭をある懸念がよぎる。
――今ここで本当にズボンを脱いでもいいのだろうか。ズボン、いや衣類とは人間であることの象徴。それを脱ぐということは人間であることを放棄することにほかならないのではないか?
普通の人ならこんな時に何を考えているんだ、となる所ではあるが、七織は違った。普通ではなく、馬鹿。それも底抜けの馬鹿であった。結果として。
「て、そんなこと考えてる場合じゃなかったー!」
あわや、上服にも火が燃え移るという所でズボンを脱ぎ捨てることとなった。下半身が下着姿の男が奇声を上げながら走っている。もしこれが街中であったなら、警察のお世話になるところであった。今だけはこの訳の分からない状況に感謝する七織であったが、よく考えると、そもそもこんな事になっているのはこの訳の分からない状況のせいなのだと気づく。
七織の体力も限界が近くなってきてはいるが、何も考えなしに走っているわけではなく、目の前に見えている森に逃げ込む算段なのだ。
満身創痍の体ではあるが、なんとか森に逃げ込むことに成功する七織。すると、七織の目論見通り、怪鳥は森の中には入って来れないようである。悔しそうに翼を広げ、ジャンプを繰り返している。
「クックックック、貴様はなかなかの強敵であったがこの俺には一歩及ばなかったな。しかし、貴様の健闘はたたえよう」
左手で顔を覆うようにして、右手で怪鳥を指さす。命の危機から脱したことでおかしなテンションになっている七織。精一杯かっこつけてはいるが下半身がパンツでは冗談にしかならない。
バサリと上着を翻しつつ振り返る。しかし、パンツ。右手を銃の親指を折った形にして、額に当ててから振る。しかし、パンツ。後はただ無言で立ち去るのみ。ただし、やはりパンツである。
そのまま暫く森の中を歩く七織。今になって痛くなってきた火傷が気になるが、とりあえず森を抜けてどこか人のいる場所に行き、ここがどこなのかを確認しなければならない。
「いや、そもそもこの森を抜けることが出来るかどうか……。しかたなかったとはいえ森に逃げ込んだのは失敗だったかもな」
一人でいると自然独り言が多くなってしまう。冷静でいようと心がけ実際に表面上は冷静でいられているが、つい先程まで命の危機にさらされていて、暗い森の中で独り。この状況で心細くなってしまうのも仕方のないことであった。だからだろうか、普段なら聞き逃してしまいそうなほど小さな声に気づくことが出来たのは。
「……たす……て」
その声は余りにも小さすぎて、もはや言葉の意味を理解することが出来なかったが、なぜだかその時の七織にはその声が助けを求めているものだと分かった。それは、先刻、自分が命のやりとりを演じていたからなのかもしれない。
「今の声、あっちの方から聞こえたような……」
自分から見て左の方へと向きを変えて走りだす七織。なんだか今日は走ってばっかりだなと、やくたいも無いことを考えた。しばらく走ると声もはっきりと聞こえるようになり、同時にそれ以外の音も聞こえてきた。破壊音と人のものではない声。助けを求める声よりもよほど大きいのに何故かあの時には聞こえなかった音が今は聞こえる。それらの音を聞いて事態が切迫していることを悟った七織は地面を蹴る脚に力を込める。
やっとの思いで喧騒の渦中へとやってきた七織が見たものはフードをかぶった人物と熊のような化け物であった。どうやらその化け物に襲われているらしく、七織が聞いた声はやはり助けを求めるものだったようだ。その光景を見て七織は二つの意味を込めて息を吐く。間に合ったという安堵と、予想はしていたがまた化け物と相見えることになることに対しての辟易の気持ちだ。
「まったく、今日は厄日だな……」
そう言いつつも、七織は足を踏み出し、前へと進んでいく。
化け物の手があわやフードの人を襲おうかという瞬間、七織の渾身の蹴撃が化け物に叩き込まれた。