第1話 家に帰れない夜
「ようこそ~!Bar Chez toiへ」
閑古鳥のBarに現れたのはずぶ濡れのスーツに禿かけた頭の初老の男だった
(…たぬきみてぇな腹)
ついでに小太りだった
「お客様、ようこそぉ~、やだなぁずぶ濡れですよぅ!タオル使います?」
俺のにこやかな接客にたぬきは愛想よく笑って答えた
「いやぁ、ありがとう。こんな台風の日だろ。常連のパブも居酒屋もやってないしさぁ!」
「まさか、この雑居ビルにBarがあったなんて知らなかったよ!
「かわいい子もいないし、地味な店で逆に居心地良さそうだね!」
ガハハとたぬきが笑う。
死んでるのは毛根だけじゃなく語彙力もらしい
ドカドカとたぬきはカウンターに向かい真ん中の席に座った
「マスター!何か適当に一杯ちょうだい」
「……少々お待ちください」
店長がシェーカーを振る静かな音が聞こえ始める
俺はこの時間が別に嫌いじゃない
「お客様、一杯飲んだら帰った方がいいっすよ!今日台風すよ!」
(…そして俺に楽をさせて欲しい)
「いやぁ、家に帰っても居場所なんかないんだよ」
(…どっかで聞いたセリフっすね~)
「いや家事も育児も妻に任せっぱなしでさ。
まあ妻はよくできた女なわけよ
娘はすくすく育っちゃったわけでさぁ」
「……朝6時に家出て、日付変わらないと帰らないなんて、そりゃ居場所なんてないよなあ」
ガハハとたぬきが笑う。
(なんか…それって痛いっすね)
シェーカーを振る音が止まった
「どうぞ…ギムレットです」
「あんがと!マスター
…あっ悪いけどライター借りてもいい?
ほら!これっ!これね」
そう言ってたぬきは鞄から煙草を取り出した
(…鞄の中に白いものが見える…ハンカチだ。ワンポイント刺繍がしてある)
「亀………?なんで?」
そうするとたぬきは慌てたように話し出した
「いや娘の趣味だよ。誕生日プレゼントってやつ」
「亀が俺に似てるんだとよ。俺には分からないけどさ」
たぬきは照れ隠しみたいに小さく笑った後、ギムレットを一口飲んだ
(…なんだ、愛されてるじゃん…お前…なら帰れよ)
たぬきは俺の独白なんか気づかず煙草に火をつけようとする
俺は目配せして、店長からライターを受け取った
「……今度は、娘さんと当店にいらっしゃったらどうですか?」
「……ノンアルコールカクテルもありますので」
店長がいつも通り小さな声で、けれど珍しく目線を合わせてそう言った
たぬきは一瞬固まった後、照れくさそうに笑った
「連れて来れるかな…話しかけ方も分からないよ」
「適当に声かければいいっすよ、たぶん」
俺の口から出たその言葉はなんだか他人ごとに聞こえなくて。
誰に向けて言ったのか、自分でも…よく分からなかった
ギムレットのグラスが空になった時、
たぬきは「ありがとうな」とポツリと言ってBarを後にした
ガン、ガン、ガンと階段を降りる音が遠ざかっていく
(いいな…なんか…ずるいっす…)
「ねぇ~店長ぉ~」
「…………」
「安心、安全、のフルシカト」
「俺にもさ、ああいうハンカチ送ってくれる人できると思う?」
「……知らん」
雨と風の音が遠くから聞こえる
まだまだ夜は明けなかった
ギムレットのカクテル言葉:遠い人を想う