番外編 美しい人 後編
青々とした山肌を太陽の光が照らす。日の出から久しく、青い空には雲一つない。
ペールグリーンのシミーズドレスのアリーシャは、自室の窓から景色を眺めていた。扉を軽くノックされたことで、彼女は視線を向ける。そっと開かれた隙間からクララが顔を覗かせた。
「お姉様、お客様がいらしたそうですよ」
膝の上にある開いていただけの小説を閉じ、なぜか緊張してしまった彼女は、足音を立てずにクララの前に立つ。
「見たの?」
「私の侍女のナンナが厨房にケーキを取りに行ったときに・・・貴族階級の使用する馬車でしたけれど、紋章はなく私用車じゃないと言ってました。中からは従者と思しき黒いローブの方と、とても綺麗な女性が出てきたとも言ってましたよ」
「女性?」
オーレリアの様子から、来訪予定の賓客は軋轢のある間柄、もしくは親交のない高位貴族だと思っていた。それが女性となればある程度は絞れるだろうが、母親が緊張感を得るほどの女性貴族がカルネアス王国にいるだろうかと、疑問が湧く。
「ケーキもしっかりと食したので、お姉様にご報告させていただきました。ただ、蛇のような目付きのお兄様が『暢気に廊下に出るな、部屋に戻れ』なんてご命令してきたので、すごすごとお部屋に戻ろうと思います〜!あのような冷たい言い方では、女性に好かれないと教えて差し上げた方がよろしいわ!」
わざわざロランスの声真似までして膨れるクララに、アリーシャは思わず笑みを溢した。間を置かず「聞こえてるぞ」と言葉を投げ付けられたクララが慌てて扉を閉じると、足音を立てて去っていく。ロランスも去ったようで、気配を感じなくなったアリーシャは、手にしていた小説を壁際のキャビネットの上に置く。
(元公爵令嬢で現ユーディット侯爵であるお母様が、体を強張らせるほどの女性貴族・・・)
考えても、そのような人物はカルネアス王国の貴族では浮かばない。小さな唸り声を上げながらも見当つかないと、どこか遠くを見るような目を窓に向けた。ただ目に映すだけの窓の外の景色。山の緑が強い風に凪がれて揺れている。
一息付いた彼女は気持ちを切り替えたことで、景色に意識も向いた。どうにも風が強く、突風が発生するかもしれないと懸念を抱く、が。
「アリーシャお嬢様、よろしいでしょうか」
ノックのあとに聞こえた声。
オーレリアの政務に加わる補佐官の一人だと気付く。挨拶はすれど会話をしたことがない相手に、彼女は多少身構えて声を送る。
「ええ、どうぞ」
女性補佐官は扉を開いて一礼をしたが、その顔は強張っていた。
「侯爵閣下より、客人のご対応を願われています。すぐにご支度をなさってください」
「・・・対応?」
オーレリアは自身で「対処」すると言っていた。当日は自室で待機するようにとも。
母親が侯爵として対処する会談に、アリーシャが必要となったのだろうか。しかし、彼女は淑女教育とマナーはしっかり学んでいても、政務に関しては全くの無学だった。侯爵家の跡取りとして育てられたわけではないのだから。
「ロランスも同席するのですか?」
「いえ、ロランス様のお呼び出しは言付かっておりません。客人はアリーシャお嬢様にお目にかかりたいと乞われていまして、その・・・お嬢様がいなくば、侯爵閣下との会談は無意味だと仰っています」
「何を、言って・・・いえ」
この場に賓客がいないとはいえ、アリーシャは無礼な言葉を呟きそうになり、咄嗟と口を噤んだ。負の感情を振り切るように首を軽く横に振る。
「直ちに参りますと伝えてください」
「はい、お願いいたします。侯爵閣下も困り果てていらっしゃるので・・・あのままでは永遠に応接室に居座るつもりですわ」
最後は憤慨と語気を強めた補佐官は扉を閉めて、早歩きと分かる足音を立てながら去っていく。慌てた様子にその心労を慮るが、すぐに支度を整えなければと思い出したアリーシャは、侍女に頼んで着替えを始めた。
選んだエンパイアラインのドレスは、夜に至る前の空を思わせる紺色で、首から手首までしっかりと肌を隠したもの。飾りに選んだのは銀とアクアマリンの花を模したイヤリングと、同デザインのネックレス。
清楚な雰囲気を纏うアリーシャは、オーレリアと横暴な賓客の待つ第一応接室の前に立つ。扉を軽くノックすれば、中から母親の声がかけられた。入室を促された彼女は、控えている黒いローブの従者によって扉が開かれると、淑女の礼を取る。
「・・・完璧で美しい所作だ。剣を振るう快活な娘だと聞いていたが、俺の目には慎ましくも麗しい姫君として映っている」
(・・・男の人の声?)
クララの話では、来訪した賓客は綺麗な女性貴族とされていた。しかし、かけられた声は男性のもの。父親のフレデリックよりも、重低音で響くような美声だった。女性貴族の従者の声かと思うのは一瞬で、物言いからあり得ないと気付く。
「アリーシャ、多忙な身であるのに呼び出したことを申し訳なく思います。ハルワーヴァ大公殿下がどうしても一目見たいと願われました。さあ、顔を上げなさい」
オーレリアに言われた通り顔を上げる。
そして、言葉を失った。ハルワーヴァ大公殿下という人物をアリーシャは知らない。大公という身分は現在カルネアス王国に存在しないからだ。その時点で国外の要人だと分かる。分かっただけで、視界に映った人に見惚れて言葉を発することができなかった。
美しく艷やかな水色の髪は長く、肩口で結っていた。長い睫毛に縁取られたおっとりとした目の瞳の色は、エメラルドを思わせるほど澄んだ緑。豪華といった顔立ちで、シミもホクロもない清らかな白磁の肌。口角の上がった薄い唇に歪みもない。白くゆったりとした異国の装束は、胸元が開けていることで盛り上がる胸を見せている。
母オーレリアと並ぶ絶世の美女がそこにいた。美しい刺繍のされたソファに優雅に座って、アリーシャを眺めている。正しく美女であった。それなのに、美女であるのに、その体格は男性に他にならない。
胸が盛り上がっているのは鍛えられた胸筋があるため。肩幅は広く腰は細いが、その逆三角形の上半身はスマートながらスタイルの良さを見せつけていた。
豪華な美女の顔をした男性。他に室内にいるのは、オーレリアと政務の補佐官、二人の従者。全員女性であり、つまり、入室時に響く低音の美声を発したのは、彼。
「・・・ア、アリーシャ・ユーディットでございます。大公殿下のお目にかかれて恐悦至極に存じます」
(何この人、顔に体と声が合ってない!)
不敬極まる言葉を内に秘めて、それでも動揺から声が震えてしまったが、しっかりと挨拶をしたアリーシャは、再び淑女の礼を取った。
(ハルワーヴァ大公殿下って、どこの国の方?自国では貴族の最上位よね?最敬礼で間違いないはず!)
慌てふためく気持ちも必死に抑えて、所作に出ないように努めれば、ふっと息が漏らされた。
「そう何度も頭を垂れずともよい。面を上げよ。俺は、美しいと音に聞くそなたの顔を見に来たのだ」
やはり美女の口から奏でられている声とは思えず、それでも態度に出さないように堪えて顔を上げる。浮かべるのは本心を悟られない微笑。
「・・・真に美しい。貴女によく似ているではないか、ユーディット侯爵。カルネアスの北端に斯様な女神ごとき母娘がいたとは、ロルカの地を出なければ確かと知り得なかったこと。良いものを目にすることができて満足だ」
(ロルカ・・・では、この人は)
侵略戦争を繰り返した南の隣国、ロルカ公国の大公。あの国で大公を名乗るのはただ一人。君主のみだとアリーシャも流石に知っている。
断定はされていないが、グレナディア辺境伯カルロを支援することで内乱に助力し、カルネアス王国の侵略の尖兵にした人物。血の気の多い大公とも聞かされた。
そうは見えない麗しい容貌だが、外敵に近しい隣国の君主が、なぜ侯爵位に過ぎないオーレリアを訪ねたのか。身分からも不可解に思う。
「ハルワーヴァ大公殿下。願われた通りにアリーシャをお見せしました。ロルカ公国の君主たる殿下が、なぜ当家にいらしたのか、お話を伺いたく存じます」
宝石のような瞳の視線が、アリーシャからオーレリアに移る。慈愛すら感じる眼差しは細められたことで、威圧感を与えられた。
滲み出る圧力にハルワーヴァが一国の頂点だと思い知らされて、アリーシャの心臓は締め付けられたかのような痛みを得る。それはオーレリアも同様だろう。母親は顔にも所作にも表していないが、人柄を考えれば理解できる。アリーシャと同じく恐怖心を抱いている、と。
「確かに、女神に通ずる美女達をただ目にしたかったわけではない・・・その美を手に入れたいと思うのは男の性というものだ」
「・・・意味を伺っても?」
ハルワーヴァは座っているソファの背もたれに身を沈めると、肘掛けに立てた腕の手で自身の頭を支えた。フレデリックが力を抜いて座るときの所作に似ているが、脱力した彼は気怠げで、どこか艶めかしい。
「現在カルネアス王国は、南方の辺境伯が反旗を翻したことで内乱が起こっている。その打開策を講じたい。カルネアス南方の辺境と言えば、我が国に隣接している。いつ貴女の国の反乱軍がロルカに攻め入るか分からぬからな。我が国の防衛のためにも、辺境伯の軍を挟撃するべく手を貸して良いと考えている」
どの口が、とは言わない。ハルワーヴァ大公がカルロを支援しているとは確定していないのだから。
必死に感情を抑えているアリーシャと、静観と口を閉ざしているオーレリアを流し目で見た彼は、口元に弧を描いた。
「ただ無償で我が軍を提供することはできない。報酬として、貴女オーレリア・エドナ・ユーディットとその娘アリーシャを我が妃に求める。さすれば、貴国の反逆の徒を一人残らず滅してやろう」
一瞬、理解が及ばなかった。美貌の大公が紡いだ言葉が、異常だとアリーシャは体を強張らせる。
辺境伯軍を討伐する報酬にオーレリアとアリーシャを求めた。他国の君主が、一応は現在友好国であるカルネアスの、既婚者でもある侯爵を妃に望むなど、異常と言わざるを得ない。
「・・・お戯れを」
「戯れでロルカより遥か北の地にあるユーディット侯爵領なぞに参ると思うか?人伝ではあったが、誰もを虜にする美女がいると聞いた。どの程度かと思えば想像以上の美しさだ。母に似た娘も、聞きしに勝る美貌を持っている。是非、二人とも娶りたい」
「私は、このユーディット侯爵領の統治をカルネアス王国国王陛下により賜っています。何より私には夫がおります。我が身の代わりに戦地に行かれた方です。夫は私のために辺境伯軍と対峙をしております。妻として彼を信じ、無事の帰還を心待ちにしているのです。であるのに、愛する夫を待つ身の私が殿下の戯れに従うと思いますか?」
「その程度では障害とならんな。貴女は子沢山と聞いている。後継ぎも産んだのだろう?その子供に任せればよい。夫なる者は・・・」
肌触りがいいと分かる滑らかな衣擦れの音を立てて、ハルワーヴァ大公はソファから立ち上がる。向かい合って座るオーレリアに歩み寄ったが、その顔に手を伸ばしたことで、アリーシャは母親の前に立った。壁となろうとするが、彼は妖艶な笑みを浮かべて一瞥するだけ。伸ばした手でアリーシャの肩を押し、真顔で見つめるオーレリアに向かい合う。
「ユーディット侯爵軍の司令官だったな?後方支援として都市内に陣営があると聞く。そこは南方で最大の都市とも聞いているが、辺境伯軍の猛攻は凄まじい。都市西部は占拠されたようだぞ?東部にいる貴女の夫はどうなるだろうな。辺境伯は貴女の夫を憎悪しているとも聞いた。このままでは無事に済まないだろう」
他国の戦地の状況を掌握しているなど、当事者の一人と暗に伝えているとしか思えない。
やはりと、アリーシャはハルワーヴァ大公を睨み付けた。強い視線を受けた彼は声を漏らすと、彼女に笑みで細まった緑色の視線を送る。
「睨み付ける顔すら美しいとは罪であるな。不敬極まりない行為にも拘らず、許してしまう」
彼の手の甲がアリーシャの頬に当てられる。撫でられたことに総毛立った彼女は、身を跳ね上げて少し避けた。
「私の娘にみだりに触れないでいただきたく存じます」
オーレリアの声はよく響く。初めて聞く平坦な声色。感情を感じない声に、母親の内心が計れない。紫色の瞳を動かして視界の端に捉えれば、感情などないという真顔のまま。
もしかすれば怒りを感じているのではと、アリーシャは思った。
「俺の妃となる女だ。触れても構わないだろう?」
「殿下のように話を聞いてくださらない方は他にもいました。本当に、腹立たしく感じます・・・私も娘も、殿方の一存で思い通りにできると考えられているのですか?」
「俺には従わせる力がある」
「脅されたからと素直に従うと思いますか?ユーディット侯爵家は私が初代当主とはいえ、ルヴァン公爵家の流れを汲む一族。古代より続くカルネアス王国の臣下の血筋として、以前の敵国の君主の妄言などに従いません。徹底的に反抗させていただきます」
はっきりと言いのけたオーレリアに、ハルワーヴァ大公の笑みは失せた。威圧感のある鋭い眼差しを向けて、形のいい唇を開く。
「戦利品の血筋が何を言うか」
侮蔑以外の何物でもない言葉が投げ付けらたことで、アリーシャは頭に血が上ったが、ハルワーヴァ大公は語りを止めない。
「娘にも伝えたその紫色の瞳は、このユーディット侯爵領となった土地の豪族の血筋からのものと聞いた。古代の戦いで死に絶えかけた敗戦者の血筋からくるものだ。古代王の側妃に召し上げられた女の付添人が、王の側近に下賜されたからだ。蹂躙者が国の支配階層だったことで血を残せたに過ぎない。男に支配されて生き残った女の子孫が、私に歯向かうと言うのか」
何か言いたい。言い返したいとアリーシャは思うが、静かに聞いていたオーレリアの手が、彼女の前腕を掴んだ。しっかりと、弱い力とはいえ握られたことでアリーシャは押し黙る。
「当時の戦いなど、子孫である私には変えられぬ事実です。多少事実とは違いますが、私の瞳の色が戦利品とされた女性から受け継いだものというのも、他国の方には屈辱だろうと思われたのなら仕方ないこと。ただ、それが私の現在の地位や意思に影響を及ぼすものではありません。ハルワーヴァ大公殿下は、友好国であるカルネアス王国のユーディット侯爵家を軽んじ、侵略の意思を見せた。その事実は許しがたく、当主として徹底抗戦を選ばざるを得ません」
「・・・よく回る口だな。か弱いが弁が立つというのも事実だったか」
一歩後退した彼は口元をニヤつかせながらオーレリアを見つめる。
何を考えているのか。ただ見ることしかできないアリーシャは、傲慢な美貌の大公に視線を送り続けるだけ。
「では、貴国に協力などできぬな。ロルカに被害が出ないよう防衛に注力するのみ、だが・・・惜しいな、ユーディット侯爵。このままでは貴女は蹂躙されるのみ。愛憎に狂った男は何をしでかすか分からぬ。貴女もよく理解していることだろう。それに、外聞というものもある」
「グレナディア辺境伯のことを仰っているのであらば、私の声を聞き入れる方ではないとお教えします。そして外聞については、人の口に戸が立てられぬなど百も承知。グレナディア辺境伯に関連するものでしょうが、此度の内乱は辺境伯がカルネアス王国へ反乱の意を示したことが」
「貴女の末子は本当にフレデリックという男の子か?」
「・・・」
ハルワーヴァ大公が口を挟む。あまりの荒唐無稽な言葉にオーレリアは二の句を告げず、アリーシャも言葉を失った。
彼が何を言っているのか分からない。他国の、母親と知り合いでもない男が、リュミエールを不義の子と疑っている。
呆気に取られている彼女に、ハルワーヴァ大公は流し目を向けて、口元に弧を描く。
「噂というものがあってな、アリーシャ。そなたの母と反逆者のグレナディア辺境伯は通じているという話だ。グレナディア辺境伯が王太子だった頃、当時は公爵令嬢だったユーディット侯爵に恋をした。それは激しいほどの愛執で、弟王子だったフレデリックと殺し合いになったほど。なぜ、そこまでの愛憎に至ったか。魔性のユーディット侯爵に魅入られたからとカルネアス王国の者達は口々に話した。元々はユーディット侯爵とグレナディア辺境伯は想い合っていたが、フレデリックが引き離したとも話した。様々な憶測が飛び、そなたの母が領地に籠もったことで噂は留まることを知らず、末子の誕生で更に拍車がかかった」
おかしそうに話すハルワーヴァ大公が非常に不快だった。オーレリアとグレナディア辺境伯カルロとの話が愉快だと、流布された噂に興味を抱いたと、瞳が輝いている。
「末子の髪と瞳の色はグレナディア辺境伯と同じ色と聞く。臣民達も驚いたようだぞ。フレデリックを選んだ魔性オーレリアは、カルロとも繋がっていたと。時折聞こえる襲撃や誘拐騒動は、恋人との逢瀬に過ぎなかった。生まれた幼子の色が何よりの証左となっているとも、な」
「た、ただの噂です。他の方は交友のために憶測を生み出し、会話というものを楽しんでいるだけです。母は誠実な女性であり、私は、母が父と常に一緒であったと証言できます。お二人は、一度も離れたことはありません。グレナディア辺境伯が間に入るなど不可能でした!」
「母親が侮辱を受けていると知って憤慨から声を発したか。可憐で愛らしい声だな。震えてさえいなければ、俺は感心していた」
声を荒げたアリーシャにハルワーヴァの視線が向かう。楽しそうに目を細めて笑う彼は、彼女へと手を伸ばし、オーレリアが壁のように立ち塞がったことで、その手を止めた。
「噂は噂。我が子は全て夫との子供です。末の子の色がグレナディア辺境伯と同じと仰るのなら、それは王家の色を発現させたに過ぎないと私は声を上げましょう」
「俺に訴えても無駄である・・・グレナディア辺境伯に与する者、屈服した者共は貴女と奴の間を面白可笑しく流布している。内乱の原因は魔性の恋人に魅入られたから。貴女がそもそもの原因だとして、グレナディア辺境伯に引き渡せと訴える者達も多い」
「引き渡したところで侵攻は止まりません。グレナディア辺境伯はカルネアス王国の滅亡と『時の砂』を手に入れることも望んでおります。私だけで済むならば、このような戦にも発展しませんでした」
「・・・中には、貴女の著作の一つであるブラスの反乱になぞらえる者もいる。恋人を奪われた男が取り返そうと反旗を翻した、と」
背筋を伸ばして佇むオーレリア。威圧感のある大公に怯むことなく、真っ直ぐに顔を向けている。
「全く異なると明言させていただきます。歴史において、ましてやブラス王弟殿下に関して、そのような戯言に私が耳を傾けるなどありえません。私は、この身を持って証明します。ユーディット侯爵領を守り抜き、愛する夫の帰還を待つことで、他心などないと証明いたします」
凛とした声ではっきりと答える。背に隠されたアリーシャは、母親の背を見つめ、小柄なはずなのに心強さを得た。そっと袖口を指先で摘む。オーレリアに寄り添い、向かい合うハルワーヴァ大公を見つめた。
笑みは失せて、窺うように緑色の瞳を細めた彼。少しの間、僅かな時間の睨み合いは、その形のいい唇から溜め息が漏れたことで終わった。
ハルワーヴァ大公は呆れた表情を浮かべるとソファに座り、背もたれに両手を乗せて脱力をする。君主らしからぬ無作法な座り方だった。
「頑固者だな。俺の手も取らず、グレナディア辺境伯から国を守ろうと身を捧げる気概もない」
「私にはユーディット侯爵として、母として、妻として、夫が帰還するこの地を守る義務があります。妄言に心を乱されて無様を晒すわけにはいきません」
「そうか・・・」
室内を流し目で見渡したハルワーヴァ大公は「確かに」と呟くと、ソファから腰を上げた。
「開拓途中の田舎ではあるが、穏やかで治安の良い領地と分かる。ロルカには貴女ら母娘を得てすぐさま帰ろうと思ったが、暫し休養させてもらおうか」
「・・・我がユーディットにご滞在されるのですか?」
オーレリアの言葉に答えず、ハルワーヴァ大公は扉に向かう。外にいる自身の従者に声をかければ、開かれた扉から出て行った。
応接室が静寂に包まれる。その内の誰か、眼鏡をかけた従者の女性が息を漏らすと、伝播したように皆は脱力をする。
無論、それはオーレリアも同様で、大きく息を吐き出すと胸を手で押さえながら。
「ずっと心臓が痛かったわ。ロルカ公国を統べる方ですもの、凄まじい威圧感をお持ちだったわね・・・」
アリーシャに力なく笑いかけた。そしてまた、一息漏らすと表情を引き締める。母親の視線はしっかりと閉じられた扉に向かった。
「お見送りをいたします。アリーシャも、お願いできる?」
「はい、勿論です」
勝手に先行くハルワーヴァ大公を二人で追う。エントランス前で合流すると、兵士の控える玄関の扉へと向かった。
大公はオーレリアに一方的に話しかけ、アリーシャにいやらしい目線を向けていて、絶世の美貌であっても不快感が凄まじかった。彼は、まだ二人のことを諦めていないと分かる。
うんざりとしたが、それでも顔に出さず、アリーシャは母親の側に控えて足を進める。
「大公殿下」
突如、知らない声が聞こえて、それが黒いローブの従者のものだと気付いた。フードを目深に被った男性は、澄んだ声をしている。
その声を聞いた瞬間、オーレリアの肩が跳ね上がった。ハルワーヴァ大公に向けていた紫色の瞳が、従者に向かう。驚愕と目を見開いていて、何事かとアリーシャは不思議に思った。
大公はなぜか含み笑いをすると、兵士によって扉が開かれている玄関の出入り口を進む。
「宿泊をされるのですか?」
「暫しユーディット侯爵領を滞在する。良い宿を見つけよ」
「・・・畏まりました。領都に辿り着き次第、探し当てましょう」
「あの・・・」
割って入った母親の声は震えていた。
「宿泊施設をお探しならば、領都にあるブラス王弟殿下の城址の車道を挟んだ目の前に、観光客向けの宿がございます。そちらならば、大公殿下も満足いただけると思います・・・あなたも、遠いロルカ公国からいらしてお疲れでしょう?」
「・・・ええ、ご助言ありがとうございます。是非、活用させていただく」
オーレリアの目は黒いローブの従者から離れない。凝視と見つめていて、その瞳は煌めいている。涙を浮かべていると分かった。
(なぜ?)
不可解に思うも、先行くハルワーヴァ大公を追い、従者の彼は背中を見せる。
大公は、玄関前のロータリーに停車している高級馬車へと向かった。そのまま躊躇いなく乗り込んだが、黒いローブの彼はタラップの前で踏み止まり、見送る二人へと振り返った。
「俺はもう後戻りなどできない。だから、大公殿下に願い出て、カルネアス王国の案内役として一時的に従者となった・・・最後に目にすることができて良かった。もう会うことはないと思う。後悔しかなかった人生だったが、君に幸あらんことを」
それだけ言うと馬車に乗り込み、すぐさま扉を閉じてしまう。二人を乗せた馬車は走り去り、オーレリアはただ眺め続けている。苦しそうに顔を歪めながら、風の吹く中、離れていく馬車を眺めていた。
哀愁帯びた母親を後ろから抱き着いたアリーシャは、慰めるように背中を撫でる。
なぜ悲しんでいるのか分からない。語るつもりがないのなら、聞くべきではないと口を閉ざし、同じく馬車の去っていった道を眺めた。
その夜、オーレリアが再び庭園を望むベンチに座っているのをアリーシャは目にする。
憂いを帯びた美しい人は、その手に銀色の花、百合の花を模した銀の飾りを握り締めていた。
領都イルブラスは、ブラスの居城跡が畔にある湖を中心に広がっている。その透明度の高い清らかな水場の周囲は、淡い色の煉瓦の道に囲まれ、季節ごとに可憐な草花で彩られる。
訓練も兼ねて、アリーシャは教養の一つである乗馬をしていた。栗毛の馬が穏やかな性格であることで、彼女の操縦にも素直に従ってくれた。領主館の厩舎から湖まで何事もなく来ることができた。このまま二周ほどしたら屋敷に戻ろうと考えている、が。
「あ、お姉様〜!あの、あの花です!マドンナリリーというお名前ですよ!」
なぜかクララがついて行きたいと強請り、駄々まで捏ねてきたことで、仕方なく同乗を許していた。お互い乗馬服。アリーシャはクララが落ちないように気を張っているが、無邪気にはしゃぐ姿に呆れてしまう。
「クララ。私は慣れてきたとはいえ、乗馬に関してはまだ未熟な身なの。落ちないように、しっかりとサドルハンドルを掴んでちょうだい」
「分かってますけれど、綺麗ですよね〜」
本当に分かっているのだろうか。片手で鞍に付けたサドルハンドルを持ち、もう一方の手で小さな図鑑を開いている。旅行者向けに編纂されたユーディット公爵領内の植物図鑑だが、今更ながら夢中になっているのはなぜなのか。
「あのお花も私の経営するカフェの庭園に植えたいですわ!」
「また将来の夢が変わったの?前は毎日舞踏会を主催する貴婦人ではなかった?」
「美味しいものを食べながら綺麗なものを眺めるのは素敵なのです!例えば、薄桃色の花が咲き乱れる木の下で、妖精達と木片で作った食器でお食事会なんて幻想的でしょう?ああ!そのような暮らしをしてみた〜い!」
「つまり、また絵本の影響を受けのね」
息を漏らせば、キラキラと瞳を輝かせるクララが振り返った。移り気ではあるものの、夢見る可愛らしい妹はしっかりと頷いて、別の絵本にあった幻想的なお茶会の描写を話し始める。
夢中なクララに笑みを溢したアリーシャは、その身が落ちないように腕でしっかりと囲う。彼女が気になっていたマドンナリリーという花の前にやって来ると、手綱を引いて馬を止めた。
感嘆と声を漏らすクララだったが、乗っている栗毛の馬がふんふんと鼻を鳴らしてマドンナリリーを突っつくと、制止の声を上げた。
「お馬さん!食べてはいけません!お腹を壊しますよ!お花も無くなってしまうから駄目です〜!」
「大丈夫、触れたのは好奇心から遊んだだけ。この子は偏食だから飼い葉とリンゴしか食べないの」
「お馬さんってリンゴを食べるのですか?私と好みが一緒だわ!」
クララの興味は白い百合の花から栗毛の馬に移り、その艷やかなたてがみを優しく撫でながら、話しかけ始めた。
妹と乗馬を楽しむこの時、南方が戦地となっているとは思えないほど平穏だった。父親フレデリックからも変わらず手紙が届くことで、このまま鎮圧に向かえばいいと気楽に考えてしまうほど。
そうして穏やかな時間を過ごしていたアリーシャは、隣接している石畳の車道を走る馬車が急停車したことに気付いた。視界の端に捉えていたそれは、貴族の紋章のない高級馬車。見覚えのある黒い馬車に、嫌な予感がして顔を向ける。
馬車の扉が開き、護衛と思しき騎士服の男が出てくると、次に水色の長い髪の人。一見すれば美女であるのに、肌を見せる異国の装束を纏った体は男性に間違いなく、相変わらず顔と体付きが一致しない。見知ってしまった人物の登場に彼女は焦った。
あのオーレリアが気にしていた黒いローブの従者はいないようだが、ハルワーヴァ大公自身は領内の様々な場所を視察していると母親から聞いていた。まさか再び顔を合わせるとは。
「クララ、今すぐ移動を始めるからハンドルを両手で持って」
「え、どうしてですか?お馬さんにあの百合の花の髪飾りを差し上げたいのですけど〜」
「花は後で、今はこの場所から急いで」
「そなたは乗馬も嗜むのか」
一直線に近付いてくる美女のようなハルワーヴァ大公は、言葉を投げ付けることでアリーシャを留めた。
他国の君主を無視するわけにもいかず、彼女は喉を詰まらせることで拒否の言葉を飲み込み、絞るように声を出した。
「・・・馬上より失礼いたしました。今、降ります」
栗毛の馬から降りて、次いでクララも降ろそうと手を伸ばす、が。
(そういえば初対面だったわ)
愛らしい妹に何かしら反応を示すはずだと思えば、案の定、ハルワーヴァ大公はクララに言及した。
「妹か。ユーディット侯爵とそなたには似ていないと聞いていたから興味を引かれなかったが、驚くほど可愛らしい娘ではないか。美女となる素養もしっかりと持ち合わせている」
クララを抱えて降ろしながらも聞かされた言葉に、怖気が走る。幼い少女であろうとも、美しければ守備範囲になるようだった。
不快感を押し込めて、アリーシャは手綱を持ちながら一礼をする。クララも倣って淑女の礼を取ったが、美女のような男性に怯んでいるようだった。
「お姉様、こちらの方は・・・女性ではありませんよね?」
「ロルカ公国のハルワーヴァ大公殿下です。気を緩めず、気持ちを悟られずに取り澄まして佇みなさい」
小さな声で言葉を交わし、姿勢を正したクララを視界に捉え続つ、ハルワーヴァ大公と向かい合う。
「まさかお声がけをいただけると思わず、不相応な装いであることをお許しいただきたく存じます」
「いや、そなた達が乗馬を楽しむ最中に声をかけた俺に非がある。気にするな、楽にせよ」
「ご厚意ありがとうございます」
「ありがとうございます」
会話をするつもりはない。それでも、他国の最上位を無下にするわけにはいかない。気分を害し、不敬と断じられれば、この大公はユーディット侯爵家を弾劾する力がある。
自身の対応が家の命運を左右させると、アリーシャは重責を感じていた。
そのような気持ちを知らずか、もしくは知っているからか、気さくな笑みを浮かべたハルワーヴァ大公を近付いてくる。彼は、手が伸ばされたら掴まれてしまう距離まで詰めると、背中を屈めてクララに視線を合わせた。
妹は反射的に一歩下がろうとして、すぐに踏み止まる。所作を間違えてはいけないと理解していた。
「クララだったな、小さな姫君。そなたのような可憐な娘を目にすることができて嬉しく思う」
「お会いできて光栄です、大公殿下。私のような礼節ままならない者にもお声をかけてくださり、ありがとうございます」
「固くなるな、クララ。俺はそなたとも仲良くなりたい」
「仲良く、ですか?」
クララは小首を傾げる。不思議だと所作に出してしまったが、ハルワーヴァ大公は気にせずに笑みを深くした。大輪の花が咲いたような華やかな笑みに、アリーシャは見惚れつつも肝を冷やす。
相手の考えていることが、なんとなく分かっている。そして対応を間違えれば、気軽に命を摘み取られてしまうとも。
「そなたの母と姉とも俺は仲良くしたいのだ。だが、先日振られてしまってな。俺のような男には興味がないらしい・・・そなたはどうだ?俺を見てどう思う?」
小さな妹を口説いているとアリーシャにも分かった。明確に狙っていると理解したことで、彼女は震えを抑えながらも唇を開く。
「大公殿下、口を挟む無礼をお許しいただきたく存じます」
「いいだろう」
「クララはまだ八歳の未熟な少女です。殿下のお相手は務まりません」
「楽にせよと言った。恐れなくともいい。俺はただ親交を深めたいだけだ。クララとも、そなたともな」
背筋を伸ばしたハルワーヴァ大公が、顔立ちからは想像のつかない骨張った手でアリーシャの肩に触れる。生地越しから肌を撫でるように、親指を動かしている。
触れ方に更に不快感を得るが、彼女は必死と耐えた。相手は欲を滲ませた男なのだから。
「私達は、ロルカ公国の君主たる大公殿下と対等ではありません。恐れ多く、気を楽にするなど不敬となります」
「俺が許している」
「許しを得ている理由も、分かりかねますので」
感情を押し殺した返答に、ハルワーヴァ大公は口端を吊り上げた。
「嘘をつけ、そなたは分かっているだろう。俺がそなたとクララも妃に求めているとな。美しい女を求めるのは男の性。それも聡明で、希少な色を持つ血筋の貴い者ならば尚の事よ」
「貴いなど、殿下は先日に仰っていました。私達は戦利品の血筋だと」
「そうだ、全てを兼ね備えた豪華な戦利品だ。俺にとっても財宝に他ならぬ。是が非でもこの手にしたい・・・アリーシャ」
肩に置かれていた手が、アリーシャの頬に触れようと動く。もう少しというところで、彼女は手で制した。
「ご無礼を。ですが、触れることはやめていただきたく存じます」
言葉を返せば、彼は顔を寄せてきた。美しい顔が、形のいい唇が耳元に寄せられる。
「気付いているだろう?俺とグレナディア辺境伯は繋がっていると。彼奴はこのカルネアス王国を下すために俺に援助を求めた。征服が完遂すれば、要らぬ土地と残った国民を譲渡すると言ってな」
息を呑む。視界の端に映るクララが、不思議そうな顔で見上げてくる。彼女にはハルワーヴァ大公の密やかな声は届いていないようだった。
「これから荒廃するとはいえ、我が一族が何度も支配圏を広げようと手を伸ばした土地だ。俺は辺境伯の口車に乗ることにして、人員と物資の援助をしている。彼奴の侵攻が止まらぬのは俺がいるからだ」
「そ、そのようなことを、なぜ私に?」
視線を動かせば、間近に見えた緑色の瞳。エメラルドを思わせる美しい煌めきの瞳は、アリーシャだけを映している。
「そなたを惜しんでいるのだ、アリーシャ。グレナディア辺境伯はオーレリア以外は不要と言っていた。そなたを含めた子供達も皆殺しにするそうだ。隣国の侯爵家とはいえ、ユーディットのことは我がロルカにも伝わっている。美貌の侯爵と美しくも賢しい子達がいるとな。領地から出ないそなたには感じ取れぬと思うが、ユーディットの子らの評価は高い。その優秀たる子の命が、一人の男の愛憎で儚く散るなど許し難かった。だから、俺はロルカに誘おうとこの地に来たのだ」
「私とクララを召し上げることで、グレナディア辺境伯から守ってくださるということでしょうか?」
吐息で肌が撫でられる。どうやら、ハルワーヴァ大公は笑みを溢したようだった。
「もっと良い提案をしている。そなたが求婚を受け入れれば、カルネアス王国は妃の母国となる。妃のために国を乱す悪辣な辺境伯を討ち取ってやろう。先日、そなたの母にも言ったであろう?この手を取れば、グレナディア辺境伯軍を挟撃するべく手を貸すと」
「手を引く、の間違いでは?」
アリーシャは、抑えきれなかった感情から鋭い眼差しで彼を睨み付けた。不敬や処罰など脳裏に過るも、身勝手な男に対して怒りが勝ってしまった。
「良い目だ、アリーシャ。気の強い女は好みである。オーレリアは絶世の美女であるが些か気が弱い。公妃よりは妾妃向きだ。だが、そなたならば、第四公妃として迎えることができるだろう」
「つまり、現在ご正妃は三名いらっしゃるということですね。申し訳ありませんが、好色な男性は私の好みではありません。お断りします」
留めていたハルワーヴァ大公の手を、振り払うことで薙ぐと、アリーシャは身を離した。ずっと手綱を持っていた栗毛の馬も何かを察したのか、彼の顔に鼻柱を当ててふんふんと嗅ぎ始める。
突然の動きに目を丸くしたクララの肩を掴み、更に距離を開けるも。
「こら、馬。俺は食い物ではない。髪を食むな、腹を壊すぞ」
威圧感凄まじい大公はアリーシャの不敬を咎めることをせず、異食しそうな馬を咎めていた。
彼女の拒絶など気にすることではないと、不満と歪めた顔を栗毛の馬に向け、少し離れることで鼻先を手で撫でている。
「ええっと」
呆気に取られて声を漏らせば、ハルワーヴァ大公は大袈裟に溜い息を漏らした。
「やはり妃が多いと女からの心証が悪くなるものだな」
「・・・ええ、好ましく思えません」
「大公殿下はお姉様に求婚されたのですか?」
きょとんとして見守っていたクララが口を挟んだ。アリーシャは慌てて制そうとするが、目の前の男は笑い声を漏らす。
「その通りである。ただ、アリーシャだけではなく、そなたにも求婚している」
「そうでしたか・・・でも、困りました。お姉様は姫君を守る騎士様になることが夢で、私はお花が咲き乱れる庭園のあるカフェの経営者になることが夢なのです。他国の妃にはなれません」
きっぱりと言ったクララを止めようと、口に手を回そうとした。だが、彼女は一歩前に出てハルワーヴァ大公を見上げる。
「お母様から教えていただいたのです。夢を見るだけではなく、行動すれば望みに届く可能性、でしたか?とにかく可能性が高まると教えていただきました」
「確かに、何もせずに与えられるものを待つ者より、望みのために行動する者が成し遂げる可能性は高いな」
ハルワーヴァ大公の手がクララの頭を撫でる。その優しい手付きは父親のようで、不意にフレデリックの姿が重なった。
アリーシャは胸に小さな痛みを得る。
「ですから、お姉様は騎士様になるべく訓練をしています。私もカフェに咲くお花の吟味をしていまして、こちら!こちらの図鑑を参考にしているのですよ。領内の草花の図鑑なのですが、とても美しく可憐なお花ばかりなのです。このようなお花のある自然豊かなユーディット侯爵領を、思わず誇りに思ってしまいます」
「・・・ああ、ユーディット侯爵領が豊かだからこそ、そなたは清らかな娘となったのだろうな」
「ええ、大公殿下も我がユーディット侯爵領を素晴らしい場所だと思われますか?」
臆することなく会話を続けるクララ。いつの間にか慈愛の微笑みを浮かべたハルワーヴァ大公がしっかりと頷くことで、彼女は愛らしい声を上げた。
「殿下も私と同じ気持ちですのね!とても嬉しいですわ〜」
無邪気なクララは取り繕わない。自身の気持ちを押し通している。公爵令嬢らしからぬ行いであるが、恐ろしい大公に対して怯まない姿に、アリーシャは感心をしてしまう。そして、気付いたことで慌てて止めに入った。
「クララ、大公殿下に対してあまりにも気さくな態度ですよ。慎みなさい」
「いや、構わぬ。俺に対して無邪気に接するのは罪ではあるが、罰するには値しない。清らかで美しい心の姫君だと分かるからな。眩しさすら感じる」
「私が眩しいですか?大公殿下も眩しいですわ。瞳も御髪もとても綺麗です!」
「そうか、俺はそなたの好みの色をしているということか?」
なぜか意気投合している様子に、アリーシャは目眩すら感じたが、しっかりと煉瓦の道を踏み締めることで耐えた。
その不安で曇る顔をハルワーヴァに向け続ければ、クララとの談笑を楽しんだ彼に視線を向けられる。
愉快だと、いやらしさを一切感じない笑みを浮かべていた。
「気に病むな、アリーシャ。俺は不快に思っていない。クララは好ましい娘だ。そなたも、妹を気にかけた情のある様が非常に好ましい・・・そうだな」
一息付いたハルワーヴァ大公は、顔を伏せるように視線を落としたが、その動作でアリーシャに隙を作ったのだと分かった。素早く動いた彼の手が、彼女の艷やかな烏の濡羽色の髪を撫でている。
さらりと、指を絡められて持ち上げられた髪は大公の口元に寄せられた。
「ユーディット侯爵領の滞在は有意義であった。この地の何もかもが好ましい。蹂躙を受けるべきではないとも、よく分かった」
「・・・それは、如何様な意味でしょうか?」
「すぐに分かるだろうが、暫し考えれば良い。この満たされた気持ちのまま俺はロルカに帰ろう・・・アリーシャ、クララ。また会おう。その時こそは求婚を受け入れてほしい」
触れられていた髪は、ハルワーヴァ大公が身を離すことで指先から流れ落ちた。踵を返した彼が馬車に乗り込むと、颯爽と走り去っていく。
アリーシャは、クララと栗毛の馬と一緒に立ち尽くしながら見送って。
「お姉様、先ほどの大公殿下は子供が好きな方なのですか?お姉様は十四歳、私は八歳ですから婚姻はできませんよね?つまり、あの女性のような男性は子供が対象の犯罪者ですか?」
「・・・国ごとで法律が違うから何とも言えないけれど、多分、ロルカ公国の婚姻は子供でも可能なのかもしれないわ」
「そうなのですか?気になります〜!ねえ〜ぇ、今すぐ調べましょう!お屋敷の図書室なら、ロルカ公国の婚姻に関するご本がありますよね!」
「そのような局所的な書籍があるかしら?」
何とも気の抜けた会話をしながらも、屋敷に向かって歩き出す。
いつの間にかハルワーヴァ大公への懸念は消え失せて、アリーシャの心は凪いでいた。
帰国したらしいハルワーヴァ大公から囁かれた言葉。アリーシャは報告としてオーレリアに話して、数日。内乱の戦況に変化が起きたと知らされた。
都市部まで侵攻していた辺境伯軍は、離脱者が現れた。日を追うごとに少しずつ減り、戦死者もいることで辺境伯軍の勢いは失っていく。主要兵器だった火薬も使用されることが減り、占拠されていた西部の一部も奪還された。
ただ、それはフレデリックからの手紙からではなく、今や王国軍となった全軍を統括している王太子エイダンからの通達。ユーディット侯爵だからこそ通達を受けた母親は、その書状を読み終えると、不安と曇らせた顔を窓の外に向けた。
(お父様からの知らせではなかった・・・あれから手紙が届かないなんて)
ほぼ毎週一通、多ければ三通届いていた。後方に陣を構えるフレデリックだからこそ、自身のことを含めた戦況を小まめに伝えてくれたのに。
「フレデリック様・・・」
吐息混じりに名前を呼ぶ声は物悲しく、フレデリックに対する心配で胸を痛めているのだろうと、如実に分かった。
それから、また数日経ってルヴァン公爵家から手紙が届いた。当主である祖父は、公爵軍の指揮官として参戦している。その祖父の身に何事かあったのかと、アリーシャは不安を抱えた、が。
「都市西部奪還戦にて、混戦となった商業区で負傷。重傷ではあるものの公爵閣下に意識はあり。命に別状はなく、無事の撤退となった。商業区を占拠していた辺境伯軍の部隊は指揮官を含めて全滅。指揮官は・・・アルバ・フェリクスっ、あ、お、お兄様?お兄様を?」
読み込んでいたオーレリアの声が震え、苦しいと顔を歪めると、はらはらと涙を流し始めた。
「お母様!?大丈夫ですか!」
手紙の内容を知りたいと同席していたアリーシャは身を寄せ、倒れそうな母親の体を支える。十五歳を迎えた彼女は、すでにオーレリアよりも背が高く、日々の訓練で引き締まった体をしている。母親の華奢な体を抱き留めると、ソファに座らせた。
「アルバという指揮官は、もしかしてお母様のお兄様でしょうか?」
耳にした名前から察して聞けば、嗚咽を漏らす母親は頷いて、震えた声で言葉を紡ぐ。
「ど、どうして?あのときは、ユーディットにいたの、に・・・どうして、戦場に、行かれて・・・お、お兄様」
それ以降は言葉も紡げず、泣き腫らすオーレリアの背中を撫でて、落ち着くように慰める。
アリーシャが顔も知らない母方の伯父。婚姻式前の母親を連れ去ろうとして姿を消した人。以前に参加した王城の新年祭では、カルロと共に登城していたようだが、祖父が怒りの声で名前を呼んでいたと記憶にあるだけ。
アリーシャとは希薄な関係でも、オーレリアには大切な兄だった。涙を流す母親の姿に理解しながらも、彼女は不意に父親フレデリックを思う。
(もし、お父様も直接戦闘となれば)
自身が想像してしまったことにゾッとしたアリーシャは、身を震わせて、オーレリアの体に抱き着いた。母親も、彼女の体に腕を回して抱き締め返す。
「ああ、アリーシャ・・・」
二人はお互いの温もりを感じて慰め合う。早く、恐ろしい内乱が終結することを願って。
それなのにフレデリックから手紙は届かない。エイダンより戦況を知らせる通達もない。遠く離れた国の北部にいるアリーシャが、現状が如何なるかなど分からない。
毎日不安を感じていた。しかし、すっかり消沈としながらも政務は熟すオーレリアと、フレデリックの無事を祈り続けた。侯爵家子女として、姉弟達と領内の平穏を守るために出来る範囲のこともする。
アリーシャにできることは己を鍛えること。不安に駆られて自棄にならず、堂々とした姿を領民に見せること。
領民達も不安に思っている。挙兵に参加した家族は無事でいるのだろうか、と。もしかすれば全てを薙ぎ払った辺境伯軍が侵攻してくるかもしれない、と。
彼らが不安に押し潰されないように、侯爵令嬢として怯えなど見せずに普段通りに過ごす。
それが今の彼女に出来ることなのだから。
堂々とした姿で領内を巡回する騎士見習いの侯爵令嬢。しっかりとした面差しと、常に前を見る美しい紫色の瞳。騎士服を身に着けることで、女性らしくも引き締まった体。
勇ましくも美しい人は、人々の希望として彼らの瞳に映っていた。
冬が過ぎて草花が芽吹く頃。花々が花弁を広げようと蕾を膨らませた春先。
王家から内乱終結の通達と、父親フレデリックから久方ぶりの手紙が届いた。
不意打ちと現れた辺境伯軍本隊とユーディット侯爵軍が交戦をした。迎え撃った侯爵軍は死傷者を出しながらも、本隊の指揮官カルロを討ち取った、と。
領主館の前、石畳の広場でユーディット侯爵軍の帰還を待つ。
少し痩せた母親オーレリアは、表情が曇っているものの堂々とした佇まいだった。橙色のドレスを纏い、春風に裾を舞わせていても、動じずに軍の馬車列を待ち続けている。
アリーシャとロランスは黒い騎士服を、クララは淡い黄色のドレスで母親の後ろに控えていた。顔を緩めずに、皆でオーレリアの背を見ながら近付いてくる馬車列を待ち構える。
一人、落ち着きないのはリュミエールだった。身を締める礼服を着て、帰還式などにも参加したことのない幼い弟は、きょろきょろと辺りを見渡す。警備のために参加している騎士や兵士を見て、怪訝と顔を歪めていた。
「お姉さま」
「何かしら?」
彼の右手を握っていたアリーシャは、幼い弟に向けて目線を落とした。上から覗き込むと、リュミエールは唇を尖らせている。
「足がつかれました。だっこしてください」
もうすぐフレデリックが帰還するというのに。
それでも見上げてくる綺麗な赤い瞳に根負けしたアリーシャは、小さな体を抱き上げた。
「おい」
「問題ないわ。今日は、お祝いになるのよ」
一度咎めたロランスだったが、彼女の言葉に溜め息を返すだけだった。
柔らかい弟の体温と重さを感じれば、アリーシャの紫色の瞳に、広場の前で止まった馬車列が映る。
これより、馬車から降りてくるフレデリックを迎える。内乱終結を祝い、無事の帰還に喜びの言葉を送る。そのはずなのに。
扉が開き、父親は明らかに右手を骨折したと首にかけた布で吊っている。顔にも無数の傷があり、包帯やガーゼが当てられていた。非常に痛々しい姿。それでもしっかりと立つ逞しい体から、無事を確認できた。
良かった。そうアリーシャが安堵の息を吐けば、オーレリアが突然走り出す。あまり走ったことのない母親が、外聞憚らず走り出して、父親に抱き着いた。
しがみついたまま崩れ落ちそうな体を、フレデリックがしっかりと抱き締めている。傷のある顔の頬を、オーレリアの涙で濡れた頬に擦り寄せて、言葉を紡いでいる。
遠くにいるアリーシャには聞こえない。ただ、母親が言葉を返したときに、父親の夕日を思わせる瞳の目は見開いて、感慨深いと目を細めると涙を浮かべ始めた。
「お姉さま」
「・・・何かしら?」
「お母さまがだきついている人が僕のお父さまですか?」
「ええ、そうよ」
リュミエールが物心の付く前にフレデリックは戦地に向かった。幼い弟は父親の顔など覚えていなかったのだろう。
しがみついている弟の背を優しく叩く。彼女の目は、ひたすら抱き合う両親に向かっていた。
「お母さま、泣いているけどうれしそうです。お父さまがかえってきて良かったですね」
綺麗なソプラノの声が耳元を擽る。
父親は酷く傷付き、母親は感情露わに泣き崩れそうであるのに、アリーシャには美しい光景に見えた。その目に映るのは、何よりも望んだ光景だった。
彼女は想い合って身を寄せる美しい二人の姿を、紫色の瞳に焼き付ける。これより続く幸せを願いながら。
これにて「死に戻ったからには幸せになりたい」は完結となります。書いている最中はバッドエンド、ハッピーとは言えないもやもやエンドとなるだろうなと思い、書き進めていましたが、気が付いたら大分ハッピーエンド寄りになりました。書いていく内に、人物の人間関係が変化したからです。不安定ですみません。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!




