それぞれの夜
『おいで』
優しい声に呼ばれて顔を上げた。
烏の濡羽色の髪を短く切り揃えた青年が、黒鹿毛の馬に跨りながら手を差し出している。
白く細い手が青年の手に触れれば、引き上げられて、馬の背に乗せられた。乗馬をしたことなどあっただろうか・・・馬は移動手段。山脈から伸びる深い森を切り開いた平原では、馬がなくば移動できない。
青年と並走をしたこともあった。ただ、こうして後ろから抱き締められて相乗りしたのは初めてだった。
顔に熱が集まる。青年は戦士だと鍛え抜かれた逞しい体躯をしている。小さな体なんて包み込まれてしまう。
『俺が支えているから緊張せずとも大丈夫だよ』
厚い胸板が頭に触れていて、頭上から落とされた声の近さに恥じらいを覚えた。触れ合うことは初めてではないのに、しっかりと腰を抱く腕の太さに胸が高鳴る。
『君の体は細いから、少しでも力を入れたら折れてしまいそうで怖いな』
後ろを振り返る。
精悍で整った顔に似つかわしくない朱に染まった頬。触れ合いを青年も気恥ずかしく感じているようだった。
首を振れば、見つめる赤い瞳の目は細まる。それが近付いてきたと思えば、頬が触れて擦り合わされた。
『昨夜も壊してしまうのではないかと思った』
耳元に囁かれて、窘めるために腰を抱く手を叩いた。腰に響く低音の美声がその耳を擽る。
『ふふ、ごめん。からかいすぎた。頬を染める君があまりにも可愛いから』
頬にキスを送られた。感じた温もりを指先でなぞれば、青年は手綱を引いて馬を止める。
『見て』
言われて顔を向けた。
清らかな湖水は様々な花で彩られている。奥に見えるのは色とりどりのマーガレットの花園、水面間近にアナベルの葉が茂り、ライラックの花が咲いている。時折聞こえるのは鷲の鳴き声か。猛禽の住まう森の中、湖水の側には白い小城が建っている。
心を奪われる何とも美しい情景。
『当初は人里から離れていて不便だと感じたが、君と一緒なら苦痛ではないな。景色も悪くない』
自然と口元が綻ぶ。
『ブラス様。わたくし、この景色が気に入りました。結婚後もこうして二人でお散歩したいですね』
返事の代わりに額にキスが送られる。愛を感じて心が満たされていく。
青年と、ブラスとこれから一緒に過ごしていく、はずだった・・・───。
「・・・・・・」
オーレリアの目に映るのはぼやけた天井。自身のベッドの天蓋だと気付き、彼女は目元に指先を向ける。溢れる涙で濡れていて、目蓋を閉じれば、また一筋頬へと流れ落ちていった。
夜の帷は落ちて、三日月が空を飾っている。その青白い光は強く、書庫の窓からも差し込んでいた。
用意したランプよりも照明たりうる月の光を浴びながら、フレデリックは出窓に寄りかかっていた。腰を下ろす窓台には三冊の本が積まれている。
四代国王グリフィスの政や、宮中内の慶事、出来事を記した記録書。文献に残されたもの、言い伝えられたものを纏めているが、古代のことであるため詳細には書かれていない。
目的であるロブロスの側妃イレーヌのことも、グリフィスの生母とはいえ僅かな記述のみだった。
ただ、その名を呟いたときから彼の胸は燻っていた。何か、つっかえがあるように感じる。何度目かになるが、また胸に手を当てた。感じるのは己の心音だけで、落胆を覚えるのも何度目かのこと。
「オーレリア・・・」
呟くのは愛する人。何年も前、時が戻る前の子供の時に恋した人。
時戻しの場にいたことで、フレデリックにも時が戻ったという自覚がある。「記憶」がある。オーレリアを虐げて苦しめて殺してしまった、と。自ら彼女を害して失ったことに胸が張り裂けそうで、嗚咽で呼吸ができなかった。
一目で心を奪われた人。ずっと愛している人。オーレリアの死を拒絶するために、救うために、今は死に至らせるものを排除している。彼女を守り抜こうと彼女に誓っていた。
そして、フレデリック自身がオーレリアからの愛を得るために、彼女自体も惑わせている。ただ純粋に愛しているから。
最愛のオーレリアのことを思うと、胸の燻りは消え失せた。愛する人を想えばいいのだと、心の奥底にあるものも訴えている。歪んだ愛であっても彼女を害するものではないからと、一人納得していた。
ひたすらオーレリアを愛せばいい。どんな手段を取ろうともフレデリックが彼女を幸せにできればいい。
手にしていた本を、窓台にあった三冊と一緒に片手で抱える。収納されていた本棚に戻し、放置していたランプを手に書庫から出た。
「・・・」
目が合う。赤い瞳、燃えるような炎の瞳。廊下の奥から睨み付けてくるカルロは、後ろにアルバを従えて歩み寄ってくる。
無意味に近い視察を本日終えたようで、怒りのままにフレデリックに迫っていた。
「チッ」
舌打ちしたのはどちらか。
それは些細なことで、早足になったカルロにフレデリックは胸ぐらを掴まれる。反射的に掴んだ手の腕を握ることで、火のないランプは絨毯に落ちた。
彼の上半身は黒いハイネックのインナーだけを身に付けていたことで、簡単にその布地が喉に食い込んでいく。
「フレデリック!!」
強い怒りの言葉は廊下に響いた。アルバが止めようと間に入るが、力の強いカルロには敵わない。
「貴様だな!!父上に余計なことを吹き込んで私を僻地に飛ばしたのは貴様だ!!よくも無駄な時間を過ごさせたな!!」
「っ、ぁ・・・ぐ」
喉が締まって声は出ない。力技で何も言わせない憎き兄。
苦痛の最中、フレデリックは宙で固まっていた手で腰の小剣を掴むと、鞘に入った状態でカルロの腹に押し付けた。
「ぐ、うっ!」
鳩尾に食い込んだことで、カルロの手から力が抜ける。もう一方の手で払い除けて距離を取った。
「ごほっ・・・はぁ、殺す気?」
「っ・・・貴様が、貴様が私のオーレリアを奪わなければ」
「何度も言うよ、オーレリアはお前のものじゃない」
ずっと昔から僕のものだった。
言いたいことは詰め寄ってきたカルロに封じられ、アルバが止めたことで睨み合いになる。
悪鬼といった顔で睨み付けてくる兄を、憎んだのはいつからか。時が戻る前の「あの時」か、同じくらい憎むバーバラの「洗脳」が解けた時か。それとも、カルロがオーレリアを婚約者に望んだ時か。
違うと訴えるものがある。
「・・・カルロ、僕は生まれたときからお前のことが憎かった。叶うなら今すぐお前を殺したい」
柔和だと言われた第二王子の明確な殺意。アルバは戦慄をして、怒りを増長させたカルロが叫んだ。
「貴様こそ殺してやる!!貴様さえいなければ、オーレリアは私のものになるのだ!!」
殺意を向け合う兄弟に兵士達も止めに入る。引き離そうと数十人が加わって、彼らは視線で睨み合うことしかできない。
夜が明ける前、騒ぎを耳にした国王陛下が王子二人に接近禁止を言い渡した。彼らの視線すら交わることがないように、生活拠点を王城の西と東の塔に分けられる。
十六歳を迎えたカルロは、中央学園に入学したことで日中は王城にいない。
フレデリックは、そのうち王子としての公務の必要性はなくなるからと王城を出た。南方の、オーレリアが暮らす屋敷のある地方都市の郊外、王家の別宅に居を移す。
愛する彼女の側にいつでもいられるように。偽りであっても愛してもらうために。




