京街道を淀から
12月も半ばを過ぎた頃、京街道の続きを歩きに行った。
京阪電車で淀駅へ。散歩しに行くにはやや遠いなあと思ったけれど、続きが気になるし、しょうがないのだ。
京阪電車(特急)には、中国人旅行者の一家なども多くて驚いた。京都方面に向かうのかな・・・?
淀駅で降りると京都競馬場と反対側(北)に進み、納所交差点へ。この左手が前回行った與杼神社や淀城跡あたり。
納所は、淀川で平安京へ送る物資を一時保管していたところだそうだ。それで納所。
納所交差点は、いっぱいの道が交差する辻(六叉路)だった。このあたりは、元々はたくさんの川やらでもっと道は複雑なことになっていたみたい。橋から橋へくねくね歩かないといけなかったりしたのかな。でも今はすっきり、納所交差点もできて進みやすい。
このあたりを京街道は通り、鳥羽街道が分岐していくようだった。鳥羽街道は鳥羽を通って、京都の羅城門に通じる道だって。
納所交差点で右折して、一本右手の道(今来た道と、13号線との間の京都府道124号三栖向納所線)へ。
しばらく行くと「淀小橋跡」の碑があった。
このあたりで北からの桂川、東からの宇治川、南からの木津川が合流して淀川になっていたそうだ。淀駅あたりは宇治川と木津川ではさまれた中州になっていて、中州には北の宇治川を渡る淀小橋と、南の木津川を渡る淀大橋がかかっていたらしい。豊臣秀吉によってかけられたのだって。
淀小橋を渡ったところが納所で、淀君の淀古城もそのあたりにあったそうだ。元々あった淀城を、妊娠した茶々のために秀吉が改修。茶々を出産に備えて住まわせたのだって。そして茶々は淀君(淀殿)と呼ばれるようになった。淀君は城をもった最初の女性なのだって。
けれどここで生まれた子(鶴丸)は早くに亡くなってしまった。
甥の秀次が家督を継いで、秀次の家老の木村某さんが、淀城の城主となったのだって。
けれど茶々が再び秀吉の子を出産。徳川秀頼ね。
邪魔になったか、秀次は切腹を命じられた。この時、秀次さんをかばった木村某さんも切腹を命じられ、淀城は廃城となったのだって。
秀吉の継承者候補ナンバー2と目されていた秀秋さんは子どもだったから、まだましだったのかな。アル中でも?
有馬街道歩きなどで行った小浜(宝塚市)には、秀次さんが有馬温泉に行く途中で宿泊したという毫摂寺があった。そこで寺の娘(亀姫)が見初められ、側室に。
秀次さんが切腹させられ、三条川原でさらし首になったとき、亀姫も処刑され、寺も焼かれたということだった。側室もその幼い子どもたちもみんな三条川原で処刑されたそうだ。
江戸時代、淀藩主となった徳川さんが、新たに中州に淀城を築城。それが淀城跡公園にあった淀城。
2代目藩主が淀城の城下町を拡げ、洪水からも守るため、木津川を付け替えて、もっと西で宇治川に合流するようにしたのだって。それにともなって淀大橋も移動。
その2代目藩主というのが永井さん。京街道を歩いていてたびたび目にする、近辺の神社に次々に菅原道真を祀らせたという、道真びいきの人ね。
左手の地名は納所薬師堂。淀古城にあった薬師堂からきているみたい。
住宅がずらりと並び、その向こうはずっと広い公園のようだった。横大路運動公園だったみたい。ここは横大路沼なる低湿地だったところだそうだ。
右手には京阪電車の高架が続き、その向こうにはJRAの建物が見えていた。京都競馬場の一部だった。
その向こうに宇治川。今は競馬場の南側を宇治川は流れているけれど、かつては北側を流れていて、その堤が京街道みたい。
JRAの建物が終わりに近づくと、京阪電車の高架も終わって、線路が地上に降りてきた。
10年位前(当時の)、淀駅周辺だけが高架化されたそうで、その費用の6割はJRAが負担したそうだ。
高架が終わったところに、競馬場と横大路公園をつなぐ跨線橋がかけられていて、これは昭和の時代にできたものみたい。
下野第二公園があり、その手前には戊辰役東軍戦死者慰霊碑があった。
あの戦いほど悲しい出来事はなかった、みたいな長い文章が刻まれていた。少しの違いから、ある者は官軍(西軍)に、ある者は旧幕府軍(東軍)にと分かれ、日本国民同士が戦った悲しい戦いであった、って。
このあたりは千両松と呼ばれたところらしかった。
宇治川と横大路沼の間の堤に秀吉さんが植えたという見事な松があり、それが千両松と呼ばれていたかららしい。旧幕府軍が劣勢で淀城に逃げ込もうとしたものの、拒否されてしまって市街戦(千両松の戦い)になったっていう、激戦地がここだったんだな。
旧幕府軍は淀小橋をはじめあちこちに火をつけ、新政府軍の追っ手を阻んでみたものの、新政府軍は宇治川を船でやって来て襲撃。
その先には、最近建ったらしき新興住宅が並んでいた。今も新築工事中のところもあった。
線路沿いを東にずっと進んでいくと、左手に産業廃棄物(アスファルト系かな)処理の工場があって、黒い小山がいくつもできていた。その上で、危ういバランスで作業する小さめのブルドーザー。道に接したところにも「ここで遊ばないでください」と書かれた小山。
そのまま直進すると処理工場の事務所(古い!)につきあたるようで、踏切を渡って線路の向こう側に。
線路を渡ると宇治川の堤道で、ここからは左手に線路を見下ろしながら堤道を進んでいった。
いきなり宇治川が現れて、その向こうには山が見えて、いきなり長閑な田舎の散歩だった。だだっ広い河川敷にはススキなどが群生していた。川の流れはほぼない。
堤道は少し狭いけれど、トラックなんかも通った。そこまでは交通量はなくて助かったけれど。
右手の宇治川の側にはずっとフェンスがつづいていた。視界の悪い夜などに、車が転落しないようにかな。他には歩いている人なんてひとりもいなかった。
左手の線路沿いには、工場かなにかや浄水施設なんかがずうっと続いていた。
前方には車の列や高速が見えていた。ずっと堤を歩いて行って、その車の列(京阪国道)と高速も通り過ぎていくらしかった。
淀駅から中書島駅まで4.4km。この間に駅が無いのは、民家がほぼ無いからなんだな・・・。
京阪国道には信号がなくて、河川敷に下りて京阪国道の下を通って通過した。とげとげ(くっつき虫のセンダングサ)がいっぱいで、わたしトゲだらけになっちゃった。
顔や足で、顔はいいとして足裏とかだと歩いていられない。でももう慣れてきた。取ろうとしても無駄だけど、おかあさんの服をなでなでするとけっこう取れる・・・というか、おかあさんの服に移動する。くっつき虫って、取られるのはイヤだけど、移動させられるのはOKなんだろうな。
次には高速(第二京阪)を通過。ここは高架(巨椋大橋)で助かった。
ススキが対岸に、きらきら光ってきれいだった。
河口から43kmとあった。大阪湾にある淀川の河口部からね。マラソンのはやい人は、大阪湾からこのあたりまでを3時間とかで走るんだな。
田舎の土手道の下、左手に京都大防災研究所が現れた。
それから土手道がカーブしていく。
すぐの橋を渡った。土手道はカーブして、宇治川に注ぐ水路(東高瀬川・新高瀬川)沿いに北に進んでいく。いったんこの水路を渡って、京街道は東に宇治川沿いを進んでいくんだな。
そっけない橋で、ちょっと怖かった。
宇治川沿いに戻ると、このあたりが、この日、一番素敵な光景だった。広々として、自然豊かだった。周りは土手道ばかりで。
少し行くと、閘門ってやつだろう建造物があった。散歩でたびたび見てきたから、分かるようになった。
閘門からは水路が北にあり、ここからは宇治川を離れて水路沿いに北上。
宇治川の堤から階段を下りて行った。
初めてのところでよく分からないなりに、ルートをたどっていった。