淀城跡
京街道の続きに戻って進むと、小さな川に出た。川(淀水路)には狭いけれど遊歩道があって、淀緑地だって。
南にすぐのところに東屋などあって素敵だったのだけれど、先客がいた。休憩すべく緑地を北に行ってみた。木津釈迦堂があり、その近くの小さな公園のベンチでパンをいただいた。
川沿いには家々がびっしりと建っていた。桜も植えられていて、春にはきれいだろうな(河津桜で有名みたい)。スーパーで買ったパンは味気なかったけれど、ぽかぽか陽気で、ありがたかった。
その後は、歩道の狭い、けれど車通りは多い、散歩にはよくない道だった。危なっかしいくらいで、おかあさんのだっこで進んでいった。
小さな天満宮(淀新町)や文相寺があった。
それから目の前に伊勢向神社。小さな神社だった。南には大専寺。ぼろぼろの葬儀社とかも近くにあった。
このあたりは鳥羽・伏見の戦いで戦場になり、多くの戦死者が運び込まれたところだそうだ。
伏見奉行所に幕府軍がいて、新政府軍(官軍)がそれを包囲していたんだって。まだ行っていない、ここから北東に5kmほどのところ。
鳥羽には主に薩摩藩が、伏見には主に長州藩がいて、旧幕府軍を迎え撃ったそうだから、このあたりにいた新政府軍は主に長州藩かな。
新政府軍の砲弾が爆薬庫に命中して炎上し、旧幕府軍は退却。敗色濃い中、味方のはずの淀藩を頼ろうと、淀城に向かった人々もいたのかな。けれど拒絶され、市街戦に(淀千両松の戦い)。
旧幕府軍は多くの死者をだしたそうだ。新選組も幾人か亡くなったそう。
伊勢向神社の前の道を北上。ここも歩道は狭かったけれど、車通りは少なめでましだった。
途中、左手に鳥居が見えた。京阪電車の高架の向こう。京阪本線はこのあたりでは高架になっていた。
鳥居に向かって行ってみると、與杼神社だった。
けっこう広いけれど、人の姿は皆無。
平安時代、北九州(佐賀県)の與止日女神社から勧請したらしい。與止日女神社は欽明天皇のときの創建で、祭神の與止姫は、別名を豊姫といい、神功皇后の妹だって。
一説には豊玉姫のことだともいうらしく、與杼神社の祭神は豊玉姫になっていた。地名の淀は與止姫からきているのかな? 「淀み」からきているといわれているみたいだけど。
隣は広い公園で、そちらにも行ってみた。
そこにも神社があった。稲葉正成公を祀る稲葉神社だって。でももう神社というよりは、公園のオプションと化しているみたいだった。
稲葉さんは春日局の夫だそうだ。春日局って、聞いたことはあるけれど、あまり知らないんだな、わたし・・・。
稲葉さんは小早川秀秋なる武将の家臣(家老)で、小早川さんを説得して、関ヶ原の戦いで家康側に寝返らせた一人だそうだ。それが関ケ原の戦いを決したらしい。
小早川秀秋はそのとき、19歳とかの若年者。
そして2年後に亡くなるのだけれど、原因はアルコールではないかと思われるそうだ。12歳の時には既にアルコール中毒だったのだって。
秀吉の妻ねねの甥っ子として生まれ、幼い時に子のいない秀吉の養子になり、他の武将たちから接待されまくったらしい。なんてことだ。そんな人を説得するのはすごく簡単な気がするなあ・・・。
けれど12歳のとき、秀吉に息子、秀頼が誕生し(産んだのは淀君)、秀秋は小早川家の養子になって、小早川秀秋に。
そうして関ケ原の戦いで徳川家康が勝利して天下をとり、家康の孫の竹千代の乳母が募集された。それに応募して採用されたのが稲葉さんの妻。そうして春日局となったのだって。
春日局は大奥をつくった人らしい。裏(大奥)を固め、表でも大臣級の仕事をこなして、徳川家を安定させたそうだ。
稲葉さんと春日局の孫の孫くらいの人が淀藩主となってから、代々稲葉さんが淀藩主を世襲したそうだ。
鳥羽・伏見の戦いで、淀藩にかくまってもらおうとした旧幕府軍の兵たちを拒絶したときの藩主も、何代目かの稲葉さん。
ただ、このとき藩主は不在だったのだって。留守を預かっていた人が独断で決めてしまったそうだ。
公園にはいろいろあって面白かった。稲葉神社がある他、「唐人雁木旧跡」ともあった。
唐人はアジア大陸の人のことで、雁木は船着き場の階段のことだって。
朝鮮(李氏朝鮮)の王から慶事があったときなどに送られた朝鮮通信使の船着き場があった跡らしい。お祝いのために派遣されてやって来たとかかな。
李氏朝鮮から瀬戸内海経由で大阪にやって来ると淀川をさかのぼり、このあたりで上陸。京都、そして江戸へと陸路などで向かったのだって。
今まで歩いたあたりでも、朝鮮通信使が通ったとか泊ったとかいうところがあった。三軒家(大正区)とかに。
通信使は外洋船で大阪の川口へ。6日ほど大阪に滞在した後、船を替えて淀川を京都へ向かったんだって。異国情緒漂う使節団を見ようと、沿道には見物の人であふれたらしい。なにしろ江戸時代の日本は鎖国をしていた(琉球国と朝鮮国とは国交があった)から、ものめずらしかったんだろうなあ。
江戸時代に何度かやって来ていて、その費用は幕府や諸藩もちで、莫大なお金がかかっていたそうだ。象が一緒にやって来たこともあるってことだった。
新井白石が節約を勧めるまで、1回100万両ほどが費やされていたのだって。すごーくおおまかにいうと、1両が今の10万くらいなのかな。100万両は100000000000円くらい?
実際には雁木はここから北に200mほどのところにあったのだって。そして宇治川がそこを流れていた。今は埋められて旧京阪国道になっている。
京都でも川はいろいろ形を変えられているのだろうな。明治時代までは淀で木津川、宇治川、桂川は合流していたらしい。
公園には「淀城跡」ともあった。
淀君が住んでいた淀城(淀古城)はここから北500mほどのところにあったと思われ、ここは淀君亡き後、徳川家がつくった淀城があったところだそう。淀藩主が住んだところ。
公園の周囲には高くなったところがあって、上っていってみた。
そうするとその向こうはお濠だったらしき池で、池と接する面は積まれた石垣で、まさに城跡だった。ここが本丸で、休憩した淀緑地の淀水路は、淀城の外濠の働きをしていたそうだ。
鳥羽・伏見の戦いで、頼ってきた旧幕府軍を拒絶した淀城。外で激しい戦いになり、城も一部が焼けたそうだ。それから明治になって廃藩置県。淀城は廃城になり、一部だけがこうして残ったのだって。
そうしてそこに、河川の改修で移動することになった與杼神社が移転してきたのだそう。
公園(淀城跡公園)のすぐそばには高架の淀駅があった。
まだまだ本当は歩きたかった。けれど次の中書島駅までは4.4kmだって。
この先、京街道は宇治川沿いを京阪電車と一緒に進んでいくことになるようで、次の駅までの4.4kmを歩くには時間がおしていた。遠くまで来たのに、一駅分しか歩かなかったなあ。石清水八幡駅から淀駅まで。
残念だったけれど、淀駅から帰ることにして、その前に近辺を散歩した。小さな商店街みたいなところでは40円の揚げたてコロッケを賞味。
駅の東側はほんの一部が見えるだけだったけれど、京都競馬場だった。昔は巨椋池だったところで、大正14年から競馬が行われているそうだ。
大昔、大阪平野は海の中で、河内湾だった。生駒山地の西麓まで海で、そこに上町台地は半島みたいに南から伸びていた。縄文時代、暑くて海面が上昇していた時代かな。それから海面が下がり、土砂の堆積もあって河内湾は陸地化していったけれど、大きな河内湖が残っていた。さらに陸地化していったけれど、江戸時代、まだ大きな深野池と新開池が残っていた。池には大和川やその支流が流れ込んでいた。
けれど大和川を、こちらには流れないように、堺の方の海に流すように江戸時代に大工事。大和川が流れてこなくなり、大きな池は埋め立てて新田に。そうしてできたのが鴻池新田など。今は池は深北緑地にとっても小さくなって残るだけ。
そんなことを散歩で知ったけれど、京都にも巨大な池があったらしく、それが巨椋池。このあたりから東にかけてあり、桂川も木津川も宇治川もその巨椋池に注いでいたのだって。宇治川は宇治で注いでいたみたいで、宇治からここまでの今の宇治川の流れはみんな後でつくられたものなんだな。
そしてもっと昔には、美豆のいきなりの低地からが池だったのかも。