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京街道を石清水八幡駅から

踏切を渡ると、踏切の南側とは違い、面白くない住宅街の中だった。

道は上りになり、信号を渡ると広く長い橋が始まっていて、御幸橋と書かれていた。

ここまで西から淀川左岸をやってきた13号京都守口線が、ここで橋を渡って北へ。ここが京街道。わたしたちは京都に向かっているけれど、京都からやって来るとここで、南下する東高野街道と西に向かう京街道(こちらからは大阪街道だけど)とに分かれるんだな。

御幸橋を進んでいった。まず渡ったのは木津川だった。橋の右と左で景色が全く違っていた。

左(西)は風光明媚。ほぼ緑で、山里の感じだった。大山崎のあたりかな? 和歌の1つも詠みたくなるような素敵な景色だった。

右(東)には電車の走る鉄橋と大きな工場のタンクと高速道路。

それから橋の途中に信号があり、次の川を渡るようになっていた。次の川は淀川。

木津川と淀川にはさまれたところは、左側が「背割堤」と説明されていた。初冬だったからなんてことのないところだったけれど、春には桜がきれいな観光地らしかった。

背割堤ってときどき聞くけれど、なんのことかやっと分かった。2つの川に挟まれた堤のことなんだな。川の合流地点まで桜が植えられていて、春には桜のトンネルになるそうだ。

淀川は、ほんの少し上流部は宇治川だった。宇治川が淀川と名を変えて、木津川と合流するんだな。

宇治って、応神天皇が自分のあとを継がせたかった息子(ウジノワキイラツコ)の名についていて、関係があったと思われるところ。前に歩いた東大阪(石切の西あたり)には盾津宇治縣神社があり、神戸にもかつて宇治ってところがあった。


淀川を渡ると、更に北には桂川も流れているのだけれど、13号線は右にカーブを描き、宇治川と桂川の間を東に向かっていた。京阪本線も。

13号線が走るのは、桂川左岸あたりかな。京街道は13号線の少し南、宇治川右岸あたりを進むみたい。

淀川を渡ったところで橋(13号線)から下りていき、13号線の下をくぐって13号線の東側に移動。田舎を歩いていると、先に進めなくなることってままあるから、早めに手を打つようになった。橋の下には浮浪者の寝床だった感じのボロの山が2つあった。大阪では見慣れているけれど、京都でも同じなんだな。

ここをそのまま東に進めばよかったのかな。けれど今では迂回しないといけないと思い込んでいて、しばし13号線を進み、高速(初めて聞いた京滋バイパス)の下を過ぎた。歩行者にも自転車にもまったく出会わなかった。通るのは車ばかり。

それもそのはずの工場地帯だった。スクラップ工場などが多くて、砂ぼこりがひどかった。自動販売機も現役では見たことがないくらい砂ぼこりで汚れていた。空き地には駐車しているトラックが多くて、数少ないレストランなどもトラック運転手が主な客って感じ。

右手に下りていく道が現れて、そちらに進んでいった。ここを南下して、京街道に戻れるみたい。

京阪本線の踏切を渡ると、左手は「京阪」と書かれた広い施設だった。ずうっと壁が続いていてよく分からなかったのだけれど、京阪電車の車庫と、物流施設だったみたい。施設に沿って歩くと、左にカーブして、道は東に向かっていった。ここが京街道。

さっき橋の下をくぐった、その道の続きらしい細道とつながっていて、なんだ、この道を来ればよかったのかな、と思った。


このあたりで八幡市から京都市伏見区に入ったようだった。

それから進んだ京街道の、右手(南)は元はなんだったんだろう。雰囲気は暗めだった。

奥には神社らしき緑が見えていた。

しばらく行くと南に土手や、それから田畑も現れだした。土手の向こうは宇治川。かつては川のそばの、田畑ばかりの、神社もある素敵な田舎だったのだろうな。

道が上りになり、一番くらいの高台に圓通寺(浄土宗)。その手前を南に行くと、さっきから見えていた神社だった。

田んぼに向かう坂を下り、あぜ道を通って神社に行ってみた。なんだか、知らない村で歓待されているみたいな気分だった。村の道を通って、村の社に参らせてもらって。地名は美豆みず

たんぼでは、稲刈りされた稲から、また緑の芽が出ていた。初めて見たかも。

田んぼのあぜ道を進んでいったところにあるような神社は、村の小さな鎮守かと思いきや、説明に仁徳天皇の名があって、驚いた。大阪で仁徳天皇の名を見るのには慣れていたけれど、京都も?

凉森(すずしのもり・すずもり)神社といい、仁徳天皇が高津宮にいるとき、行宮がこのあたりにあったそうだ。

考えてみれば、仁徳天皇は淀川(宇治川)の下流あたりで茨田堤もつくっている。父の応神天皇の頃から、土木工事のノウハウが飛躍的にUPしたそうだし、淀川~宇治川~山城と開拓していったのかな。


仁徳天皇の皇后は、嫉妬深かったという葛城イワノヒメ。葛城ソツヒコの娘。

前に歩いた仁徳天皇陵では、浮気心を出す仁徳天皇と、それに怒る皇后の歌がところどころに紹介されていて、ちょっとおもしろかった。

結婚して30年くらいしてイワノヒメが亡くなると、仁徳天皇は八田(矢田)皇女って人を皇后にした。

父、応神天皇には位を譲りたかった息子、ウジノワキイラツコがいたけれど、その妹(仁徳天皇の異母妹でもある)。

ウジノワキイラツコは自分よりも異母兄(後の仁徳天皇)が天皇にふさわしいと、自殺してまで皇位を譲ったとかいわれる。その後すぐくらいから、天皇は八田皇女を狙っていたのかな。それで皇后に怒られていた。

結局、仁徳天皇の思いは成就して、イワノヒメは怒って天皇の元を去り、山城へ。亡くなったのもそこでだったそう。筒城宮ってところだそうで、場所は分かっていないらしく、候補地の1つが京田辺。綴喜郡だったところらしい。筒城つつきとか綴喜つづきとかいうところだったのかな。

けれどこのあたりも元は綴喜郡だったところ。このあたりから南に八幡市、京田辺市のほうまでが綴喜郡だったみたい。

嫉妬とか言われているけれど、本当かな? 本当はそこには、背後にいる有力者たちの勢力争いとかがあったのじゃないかな、という気がする。

応神天皇には妻がいっぱいいた。コンダ(ホムタ)さん(品陀真若王)の3姉妹とか、ワニ氏の2姉妹とか。

ホムタさんの娘のうち、真ん中の人(仲姫命)が生んだのが仁徳天皇。

ワニの姉妹の姉が生んだのが、ウジノワキイラツコと八田皇女。妹が産んだのはウジノワキイラツメで、この人も仁徳天皇の妻に。

ウジにいたのは、たいそう有力な人たちだったのだろうな、って感じがする。そんな宇治から宇治川の流れるこのあたりは、平安遷都よりずっと前から開けていたのかも。

初めて入った山城なので、まだよくは分からないのだけれど。


このあたりは、美豆野御牧だったこともあるそうだ。木津川の両岸が広大な牧場になっていたらしくて、平安時代のことかな?

そして神社の西側は美豆城跡らしかった。城があったのは、室町時代のことかな?

宇治川沿いに城があり、その横に神社があった感じかな、と思ったのだけれど、宇治川は当時はもっと南の方を流れていたそうだ。明治時代に付け替えられたのだって。

神社の東側は小学校。すごくのどかで、けれど上をセスナが飛んでいった。

圓通寺まで戻って、京街道の続きを歩いた。つきあたりまで行くと、その先(東)はいきなりの低地だった。美豆あたりは島だったとかかな?と思ったくらい。


つきあたりを右折して、最初の四つ辻を左折。また東に向かっていった。

道は少しずつ下っていき、そして少しずつ都会になっていった。スーパーがあって、ここで軽食をゲット。ここまでめぼしいお店は皆無で、この先もありそうになかったから。

スーパーすぐの信号を渡ると、その先は工事中で進めず、少し右側の道を迂回して歩いた。「区民の誇りの木」と書かれた大きなイチョウがあった。迂回して得をした気分になる大きさだった。

このあたりから、おうちに「御献酒 與杼神社」と書かれた札がはられているのをよく見た。

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