石清水八幡宮・初級編
そうは思いつつ、次に行ったのは石清水八幡宮駅。
橋本駅から石清水八幡宮駅までは京街道を歩いてもよかったのだけれど、当時は石清水八幡参詣きっぷみたいなのが京阪電車から出ていて、乗車駅から石清水八幡宮駅までの運賃とケーブル運賃がセットになっていた。この切符で石清水八幡宮駅へ。もう一度ちゃんと石清水八幡宮に行ってみたかった。
上りはケーブルで上って、下りは今度は表参道で降りてみようかな。
京阪の石清水八幡宮駅からすぐのところにある静かで小さなケーブル乗り場には、他には乗客が2組。老夫婦とおばさまペアだった。
きれいな車体で、たった2分の乗車だった。紅葉のシーズンにはきれいなのかな。紅葉も見頃をずいぶん過ぎて、葉は残っていたけれど、ほぼ枯れた感じになっていた。紅葉シーズンにはもっと乗客も多いのかな。
ケーブルを下りると、すぐの展望台へ。ここからは人が多かった。参拝客というか、観光客風。
前回素通りして気になっていた展望台は、行ってみると、ただの広場のようなところだった。期待するほどの眺めでもなかったかな・・・。見下ろす平野に、ただただ建物がいっぱいだった。
ず~っと平地が続いていた。ここは山に囲まれた京への唯一の入り口のようなところなのかな。河川もここに集まって流れていく。それを見下ろす男山。山の合間に京も見えていた。
京都が都になって、この地に国家の守護神として鎮座していたのも道理だなと思った。
展望台からは下りの道と平たんな道があり、どちらからでも本殿に行けるようだった。展望台は本殿の背後にあって、両サイドから拝殿に向かえるみたい。
平たんな道から行くと、三女神社があり、さびれた感じの手水舎があり、本殿へ。
三女神社に祀られるのは宗像三女神かな。
拝殿の前ではなにか階段状のものをしつらえる作業中だった。正月準備なのかな?
石清水八幡は西暦860年、清和天皇が創建したそうだけれど、その時、天皇は10歳くらい。後見人は藤原良房(清和天皇の外祖父)。姪っ子の高子さんが在原業平と駆け落ちしたって人だな。
藤原良房の父は藤原冬嗣(その母は百済系の飛鳥部さん)、母は不詳だそう。
早々に退去し、表参道の矢印を目印に下っていった。
表参道は整備された広い道だった。人にはほとんど会わなかったけれど、正月とかには人でいっぱいになるのかな?
上りはどうか分からないけれど、下りは楽だった。裏参道と同じく、道々、「〇〇跡」と書かれた場所がいくつかあった。
明治時代までは神社も寺もあまり区別はされていなくて、石清水八幡にはお堂(坊)がいっぱい建ち並んでいたのだって。その跡地らしい。今はほとんどのところは竹林などになっていた。
大扉稲荷が右手に現れ、左手には松花堂庭園と美術館、石清水社への矢印があって、上りの階段が続いていた。裏参道と表参道をつなぐ道かな。
ちょっと立ち止まって、上り階段に行くか迷ったけれど、スルー。またいつかとした。
このあたりには神宮寺があったそうだ。明治時代までは普通にあった、神社に付属したお寺のことね。というか、神社と寺が区別なく一緒にあったのだけれど、明治時代にどちらかに決めないといけなくなり、神社に決められると、そこにある寺は神宮寺と呼ばれた。寺に決められると、そこにある神社は鎮守とか呼ばれた。
後で知ったことには、今は松花堂庭園などのある松花堂跡は、石清水八幡宮より先に国の史跡になったところらしい(庭園も美術館も有料)。
松花堂は江戸時代の初め、石清水八幡宮の僧の松花堂さんが晩年に住んだところだそうだ。このあたりにずらりと並んでいた坊(寺や宿坊)の1つにあった茶房だったらしい。
松花堂さんが好んで使ったスタイルの器を弁当に使ったのが松花堂弁当だって。
茶房がある坊ってぴんとこなかったけれど、坊といっても、徳川家康の祈願所とか、天皇や上皇の休憩所とか、後には大石内蔵助の弟の寺とかがあったらしくて、出家したひとかどの人物たちの営むなにかって感じだったのかな。松花堂さんも豊臣秀次の隠し子といううわさもあるみたい。
明治時代、神社と寺の区別をはっきりさせようという天皇の意向で、石清水八幡は神社となり、寺と線引きするために、坊はみんな取り壊されたそうだ。その前に衰退したりもしていたみたいだけれど。
そして同じく行っていないけれど案内されていた石清水社は、石清水なる泉が湧いていたというところ。
八幡が勧請される前から、泉を祀る社(石清水社)があったのだって。これが石清水八幡の名の元になったと一説にはいうそうだ。
下り道が終わり、平たんな道に出ると、左折。石清水八幡宮駅方面を目指した。
すぐ左手に旧家があって、ここの門が開いていた。誰も住んでいない風だったけれど、おうちはまだ生きているみたいだった。門の中には左右に建物があり、正面は山の一部だった。男山の山裾に建てられ、その山裾が庭の一部になっていた。
それから相槌神社があった。小さな神社で、あまり気にもかけずに通り過ぎたのだけれど、代々源氏に伝わる名刀をつくった場所とされているそうだ。
伯耆の有名な刀工、大原安綱。伯耆は今の鳥取県で、出雲に近く、元はハハキ(母来)と呼ばれていて、それが「ほうき」に変わったのだって。ちょっと気になった。額田(東大阪市)で、「母木」がどうのって書かれているのを見たことがあって、ひっかかった。
それはおいておいて大原安綱は、平安時代中期の人と思われ、その銘の残る刀も現存していて、国宝になっているのだって。その国宝は「童子切(童子切安綱)」と呼ばれ、源頼光が酒呑童子を切った刀とされているらしい。代々源氏に伝わり、それをつくったというのが、ここ。
相槌を打ったウガノミタマと一緒につくった、とかなんとか。相槌って、刀づくりで助手が槌で叩くこと。
ただ童子切は平安時代後期の作と思われ、頼光とは時代が合わないらしい。
源氏に伝わる名刀っていくつかあり、伝説も数多あるみたい。
安綱がここで打って坂上田村麻呂(平安時代初期)に奉じたとか、そうではなく源満仲(平安時代中期)が外国人の鍛冶屋につくらせたとか・・・。
もうほとんどファンタジーなのだろうな。
安綱さんがここで打ったのは「髭切」(別名「膝丸」)なる刀だ、というバージョンの話もあるみたい。
安綱さんがつくって、坂上田村麻呂に奉じられたと伝わる刀は「童子切」(国宝)のほか、「鬼切」(重要文化財)、「騒速」(重要文化財)もあるそうだ。「童子切」「鬼切」とされる刀は平安時代半ば以降のもので、坂上田村麻呂とは時代が合わないけれど、そういうことになっている。
「騒速」は日本刀らしく刀が反り始めた時代のもので、時代も合っているかもしれないみたい。播州清水寺にあるそうだ。坂上田村麻呂が奉納したとかで。
播州にある清水寺(通称播州清水寺)は、法道仙人の創建と伝わるそうだ。法道仙人は6,7世紀に牛頭天王と共に日本にやって来たというインドあたりの僧。前にハーベストの丘の近く(堺市)で知ったことには、鉢飛ばしの秘法を会得していたって人。自分は一か所で念仏を唱えつつ托鉢用の鉢を飛ばし、托鉢を回収していたって感じかな。
推古天皇や行基も堂宇を建立。そこに後に坂上田村麻呂が刀を奉納したのだって。
京都(山城国愛宕郡)の清水寺も坂上田村麻呂縁の寺らしい。縁というか、坂上田村麻呂が創建。まだ平城京が都の時代、自分の屋敷を本堂としてお坊さんに寄進したのだって。
そして石清水八幡以前、そこにあったのは石清水寺。坂上田村麻呂に奉じる刀がそこで打たれたって伝説が残る。
清水つながりだなあ。
清水がないと刀はつくれなくて、清水と名がつくということは、刀づくりに適した土地だったのかも。
そして山城に遷都する以前から、山城に坂上田村麻呂は屋敷をもっていたんだな・・・。
石清水八幡宮を建立した清和天皇(10歳くらい)の後見人が藤原良房。藤原良房の母は不詳、父は藤原冬嗣で、その母は飛鳥戸さん。
雄略天皇の頃に渡来してきた飛鳥戸さんの先祖は百済の21代コンキ王で、その子孫には百済王氏や桓武天皇の母がいる。百済王氏は枚方に、桓武天皇の母は交野に住んでいた。少し北が山城。
山城の長岡は藤原種継の実家があったところ。種継さんの母は秦氏みたいで、その関係でかな? それとも当時すでに山城に人々は進出していっていたのかな。
桓武天皇の子を坂上田村麻呂の娘の春子が産み、春子の孫娘は清和天皇(桓武天皇の子孫)の子を産んだ。その子孫が源満仲。そのさらに子孫が源義家。
源義家が石清水八幡で元服したから石清水八幡が源氏の守護神となったのではなく、それよりずっと以前から、源氏と石清水八幡は強いつながりがあったのかな。
平家は武士でありながら貴族かぶれし、武士の精神を忘れていなかった源氏に敗れたとかいうけれど、平家も源氏も元は皇族だものな。
源氏が武士たる所以は、坂上田村麻呂にあったのかも。
坂上田村麻呂は武門の一族で、武器も多く手に入れられたのかも。そのつてをもっていた人だったのかも。見当違いかもしれないけれど、まあファンタジーってことで。
相槌神社から石清水八幡宮駅方面に向かうと、前回も歩いた道だった。
神應寺のことはまだ知らずにいたので素通りし、石清水八幡宮駅の東側の踏切を渡った。神應寺って、元は應神(応神)寺だったのを神應寺に改めたそうだ。
そのまま北上して、すぐの大谷川を渡った。