コロナ3
やっぱりGWが開けても緊急事態宣言は解かれず、自粛生活は延長。わたしたちも近場ばかりを散歩した。近場にけっこうおもしろいところがいっぱいあるのが救いだった。歩いたことのないところも歩き、けっこういろんな景色を見た。
農場があったにふさわしいような丘、宗教施設の固まってあるところ、古そうな高級住宅地、激しい高低差のある不思議な住宅密集地。
西成の玉出では、自転車にまたがったおじいさんがスーパー玉出の前でしゃべっていた。
「大阪はみんな閉めとるやろ。こんなじいさんにどこにおれっちゅうんや。ほな、またな」
缶かん集めするおじいさんが、大きな袋を9つ、黙々と自転車にくくりつけていた。コロナで缶集めの人も自粛を始めたのか、あまり見なくなって、そのぶん、いっぱい集められるのだろうな。
100坪ちょっとの空き地が1億円超えの値段で売り出されているのも見た。
そういうのも面白かった。
少し自粛も解けてきて(行動するなじゃなくて、気をつけて行動しろ、に変わってきた)、行きは電車に4,5分乗って、そこからおうちに歩いて帰るというパターンも始めた。
けっこう丹念に近場を歩いていて思ったのは、やっぱり上町台地って山あり谷ありの素敵なところだったのだろうなあってことだった。
海に近い森。清水が湧き、沢が流れ、滝もあり、鳥が鳴く。その台地の南の端に住吉津はあって、船が太古から出入りしていた。人はところどころに住み暮らしていたのかな。桑津とか、住吉とか、森ノ宮とか。
上町台地に住んでいたのは、船の民たちかな。山あり谷ありの台地は田畑には適していなかっただろうし、海は近い。
それがイクタマやアメノホアカリやワタツミの子孫たちだったのかな。
森は一部切り拓かれ、古墳もつくられた。
いろんな氏族が結びついて、葛城氏や尾張氏なんかになっていった。その中でトップをとったのが天皇家だったのかな。
真の継体天皇(聖徳太子のひいおじいちゃん)陵とされている今城塚古墳(高槻)で、展示された品々に驚愕した。天皇家は大和にこもっていた人々ではなく、海の民と深く結びつき、自らも海に出ていたような人々の子孫だ、と感じた。
天皇家と海の民族が結びついた舞台の1つが上町台地だったのかな。みんな海をまたにかけ、広い範囲を行き来していたのだろう。
聖徳太子は上町台地に四天王寺やあびこ観音や森之宮を創建。孝徳天皇のときなどには上町台地に首都があった。中国の影響で南に向けて大道(難波大道)もつくられた。
平安時代には熊野街道ができ、貴族たちで行列に。まだまだ上町台地は緑豊かなところだったろうなあ。
5月も半ばを過ぎ、近くを散歩していて、ヘビイチゴを見た。
古い味のあるおうちがどんどん壊されていって、空き地が増えているのを感じていた。久しぶりの玉出では、大正時代の素敵な萬昌苑のあったところも空き地になっていた。
あちこちで見た空き地の1つにヘビイチゴが育って、赤い実をいっぱいつけていた。
いつも山に出かけて見かけるヘビイチゴ。まさかこんな近場でヘビイチゴを見るとは思わなかったな。ドクダミもぼうぼう育っていた。
大阪ってどこもかしこもコンクリで固めちゃっているなあと残念に思っていたけれど、そうしないとぼうぼうと野草が育つのだろうな。かわいくレンガ敷きにしたところでも、レンガの隙間から雑草が育って、意図したのだろう感じとは別物になっていた。
日本は、放っておいても植物が茂る、そうはない国の1つらしい。前に上町台地の西端の工事現場で、こんこんと湧いている水を見たことがあったものな。水が湧き、緑がすくすく育つ、大阪は実はそんなところなんだな。
それからしばらくして、自粛、自粛、自粛の日々がいきなり終わった。
自粛を促していたゴミ収集車も、音楽と共にやって来る。小学校から流れていた放送もなくなった。町は五月晴れで明るいし、人もマスクはしつつ普通に行き来している。自粛しますの張り紙をして閉まっていたシャッターもおおかた開いていた。学校も来月15日からは、みんないっせいに登校できるそうだ。
ただなあ・・・散歩に一番いい季節は既に終わってしまっていた。そしてまた散歩にいい季節がやってくる頃には自粛生活が再び始まるのかもしれないな、なんて思った。
寿命の短い犬には散歩日和なんて元々そうは多くないのに、やっかいな時代。しばらくはマスクして、大阪の小中学生はフェイスシールドして、三密は避けて、寒くなってきたら警戒する、そんな時代だった。




