阿倍野とアベ氏
熊野街道に面して阿倍王子神社の西の鳥居がある。隣には印山寺。
印山寺と阿倍王子神社は、さかのぼればどちらもかなり古くからの寺社だそう。元は印山寺は阿倍王子神社の神宮寺だったと思われるものの、詳細は不詳。
印山寺から西に旧道らしき道が通っていた。前には通れなかった記憶があるのだけれど、今は公道になっている旧家の横の路地道みたいなところを進んでいけた。
すぐチン電(上町線)の踏切に出て、ぽつんとお地蔵さん。このあたりはけっこう最近まで田畑がいっぱい残るところだったのかな、という感じがした。北を見ると、線路沿いに並ぶ古い長屋が見えた。その向こうにはハルカス。ちょっと不思議な光景だった。
このあたり、源正寺から印山寺にかけての熊野街道の西側の一帯は丘になっていて、なにか気になる丘だった。古くからの風を感じる気がした。あびこ観音の西の丘みたいに。今まで歩いてきた遺跡や古墳の周りみたいに。この丘にはどなたか大物が住んでいたのじゃないかな、という感じがした。
大物はどなただったんだろう?
住吉には大伴金村が住んでいたということだった。けれど、ここは天王寺村だったところで、住吉はすぐ南だけれど、違うかな。それなら、阿倍氏?
阿倍王子神社は古くは仁徳天皇の頃の創建と伝わり、アベ(阿閇)島なる島に祀ったんだとか。生根神社が祀られたところが玉手島だったように、阿倍王子神社が祀られたところはアベ島だったんだな。
けれど詳細は不詳。阿倍氏の氏神だったという説もあるみたい。
印山寺の元となる寺も平安時代にはあったらしく、本尊の薬師如来像は空海の手によるものと伝わるそうだ。疫病が流行った時、天皇から言われた空海が祈祷を行ったことがあるらしい。
その後、阿倍氏の氏神だったらしき社は王子社に。熊野詣をスタンプラリーにたとえたら、スタンプ設置場所が王子社で、八軒屋浜から熊野までの間にいくつもあった。その王子社の1つになり、神宮寺は印山寺に。
何度か行ったことのある天下茶屋公園には阿倍寺の塔心礎だったという石が置かれていた。あまり意味も分からずにスルーしていたのだけれど、阿倍寺というからには阿倍氏の氏寺だったのかな?
改めて調べてみると、阿倍寺についても確かなことは分かっていないものの、阿倍寺千軒坊と称されるくらいの規模だったこともあったらしい。天王寺駅と文の里駅の間くらい(松崎町)から白鳳時代(大化の改新から天武天皇の頃まで)の瓦も出土していて、そこが跡地じゃないかとされている。
白鳳時代って、有力豪族たちがこぞって氏寺を建てていた時代。阿倍氏も阿倍野に氏寺を建てたのだろうな。
この阿倍氏についてもよく分かっていないみたい。
8代孝元天皇の皇子、大彦命を祖とする一族で、平安時代の安倍晴明はこの阿倍氏の子孫ではないかとされている。
孝元天皇の皇后はウツシコメ(ニギハヤヒの子孫)で、その長男が大彦命。同母弟が9代開化天皇。
孝元天皇の妻にはイカガシコメ(この人もニギハヤヒの子孫)がいて、開化天皇はイカガシコメ(父の妻ね)を皇后にして、10代崇神天皇をもうけた。(他の妻との間には彦坐王。神功皇后の先祖ね。)
10代崇神天皇の頃には、関西あたりは一つのクニになっていたのかな。
イカガシコメの兄、イカガシコオ(肩野物部の祖)は各地に神を祀る役目をしていて、三輪、交野、枚方、喜志なんかに足跡を残している。
大彦命(母はウツシコメ)はイカガシコオやイカガシコメ(ウツシコメの甥と姪)とは従兄弟だったんだな。
崇神天皇は関西の外にも手を拡げ、四道将軍を各地に派遣。伯父である大彦命を四道将軍の一人として、北陸へ。大彦命の息子(崇神天皇には従兄弟のタケヌナカワ)を東海へ。
そして崇神天皇は大彦命の娘(従兄妹)を皇后にし、生まれたのが11代垂仁天皇。
そんな華麗な一族の、タケヌナカワあたりの子孫が阿倍氏になったのかな。
勢力としてはぼちぼちで、けれど強い水軍を持ち、武力の面で活躍していたんだとか。そして大伴氏も物部氏も蘇我氏も失墜した7世紀、大化の改新の頃に重用されるように。
大化の改新のときの天皇(孝徳天皇)の皇子(有馬皇子)を産んだのが阿倍氏の娘だったのが大きかったのかな。それから奈良時代の頃までは、かなりの有力者だったみたい。
一族は派生して、前に高槻で知った許曽部氏とかがそう。あと尼崎で知った坂合部や久々知も大彦命の子孫で、親戚かな。
ちょっと年表。
645 都の飛鳥で乙巳の乱勃発(中大兄皇子、中臣鎌足らが蘇我氏を滅ぼす)。それまでの皇極天皇(中大兄皇子の母)に代わり、弟の孝徳天皇即位。天皇の皇子(当時はまだ幼少の有馬皇子)を産んでいたのが阿倍氏の娘で、その父(阿倍内麻呂)は新政府で重職に就く。
646 難波宮に遷都。ここで大化の改新が行われた。難波宮からは難波大道で榎津(遠里小野)あたりまでつながっていた。
649 阿倍内麻呂死去。
653 政府の主だったメンバーたちは天皇を残して難波宮を去り、飛鳥に新政府を開く。
654 孝徳天皇死去。姉が再び即位。
658 謀反の疑いで有馬皇子(19)刑死。
668 中大兄皇子、即位して天智天皇に。天智天皇の妃にも阿倍内麻呂の娘(橘娘)がいた。
672 天智天皇死去。息子の大友皇子と弟の大海人皇子が皇位継承をめぐって戦う(壬申の乱)。内麻呂の息子は大海人皇子側について活躍。
673 壬申の乱に勝利した大海人皇子即位(天武天皇)。
676 舎人親王誕生(父は天武天皇、母は橘娘の産んだ皇女)
683 天武天皇、難波を副都とする。
この頃、阿倍氏は阿倍野に阿倍寺を造営。JR環状線の寺田町駅あたりに難波宮の羅生門があったっていうから、難波大道に続く門を出てすぐの西あたりかな? 当時、まだ羅生門があったかどうかは分からないけれど、難波大道はあったと思う。
阿倍さんは、いつから阿倍野にいたんだろう。阿倍野に住んだからアベを名乗るようになったのか、アベ氏が住んだから阿倍野になったのか。孝徳天皇の難波宮のときに初めて阿倍野にやってきたのか、もっと以前から阿倍野にいたのか。
強い水軍をもっていたとか、仁徳天皇のとき、アベ島に云々とかきくと、海に近いこのあたりに阿倍氏は古くから住んでいたのかな、という感じはする。
阿倍寺があったという松崎町あたりは、前に散歩していて、桑津のくくりだと感じたところ。天王寺界隈で古い土地柄なのは、縄文時代前期からの遺跡が見つかっている桑津だろう。
その近くに阿倍氏の氏寺があったのなら、桑津あたりに住んでいた人と阿倍氏は関りがあったということかもしれない。
桑津は仁徳天皇が妃の一人を住まわせ、度々通っていたというところだった。そこには桑津天神社が鎮座し、スクナヒコナが祀られている。妃を住まわせていたということは、天皇の信頼する一族がそこにいたってことで、その一族が阿倍氏の関係だったとか・・・?
伊賀には阿拝(あはい・あえ)というところがあって、そこに敢國神社(式内社)が鎮座し、阿拝(阿閇)に住んで阿拝氏の祖となった大彦命を祀っているらしい。
阿倍、阿閇、阿拝、阿倍、安倍。アエ・アベを名乗る氏族がひろがっていったんだな。アエ(アベ)と呼ばれるところがあり、そこに住んでアエ(アベ)と名乗った人が、移転地でもアエ(アベ)を名乗り、その地名も「アエ(アベ)」になったのかな。
その最初のアエ(アベ)が阿倍野だったのか阿拝だったのか、他のどこかだったのかは分からないけれど・・・。アエは餐(天皇に貢ぐ食べ物)からきている、という説もあるみたい。
アベ(安倍)は飛鳥にもあって、ここも阿倍氏(後に安倍氏)の本拠地だったとされているみたい。そしてそこにも安倍寺があったそうだ。阿倍内麻呂が建て始め、息子の代(7世紀)に完成したのだとか。
当時、飛鳥も難波も大都市で、どちらにも阿倍氏の土地があったのだろうな。
敢國神社は7世紀、658年の創建と伝わるそうだ。有馬皇子が処刑された年。アベ島に云々という話に比べたら、ずいぶん新しい感じがする。
神社に祀られるのは、阿拝氏の祖とされる大彦命と、スクナヒコナだそう。といっても、よく分からなかったのでそういうことにされただけみたいだけれど。
敢國神社の説明によると、伊賀に住んでいた渡来人の秦氏が信心するスクナヒコナを祀っていた(のを合祀した)、ということだった。前に行った服部天神(豊中市)と同じ説明だな。服部天神でも祭神のスクナヒコナは渡来人の秦氏が祀ったと説明されていた。
けれど、秦氏がスクナヒコナを信心していたっていう根拠は何なんだろう?
スクナヒコナ(少彦名)は、一般的にはオオクニヌシの国造りを手助けした人。ツヌコリ一族に関係する(ツヌコリの子孫が祖を祀ったという神社の祭神がスクナヒコナ)とか、天神って元は菅原道長のことじゃなく、スクナヒコナ(手間天神)のことじゃないかとかいう話もある。
他にもスクナヒコナは百済氏の祖だとか(「飛鳥戸神社の祭神は百済氏の祖・俗称スクナヒコナ」と書かれた書物があった)、開化天皇や大彦命の同母弟にもスクナヒコがいたとか、スクナヒコ(ナ)って「小さな男」とか「三男以降の男子」くらいの意味しかないニックネームなのかも?
けれどわたしは服部天神で勝手に思った。
スクナヒコナを祀ったのは渡来人の秦氏ではなく、ツヌコリの一族のハタだったのじゃないか?
ツヌコリが祀られるのは和泉(阪南市)の波太神社で、わたしは勝手にハタ氏や機織りは、この一族からきているのじゃないかと思った。
和泉のドン・ツヌコリ(角凝命)の一族は製鉄や機織りにも長けていて、一族には倭文(日本古来の機織りのこと)氏などもいる。海の民にも近しかったと思われ、一族は各地の海辺に住み着いた。
機織りは秦氏がもちこんだとか、機織りの「はた」は秦氏の「はた」かも、とか言われているけれど、それより古くから日本には倭文さんがいて、その関係で機織りはハタ織と呼ばれていたのじゃないか。
日本では縄文時代から布を織り、弥生時代には福岡では絹織物もつくっていたと思われ、卑弥呼は魏の国王にシルクを贈っているそうだ。
機織りは、古墳時代に渡来人がやってきてやっと名前がつくようなものではなかったように思うのだけれどな。
それにツヌコリ一族には倭文さんや捕鳥(鳥取)さんがいて、服部がいても不思議じゃない。
敢國神社の神事を代々行ったのは、服部氏だったそうだ。
服部氏は、仁徳天皇の頃に伝わったという最新の機織りを行う職人たち(漢服部・呉服部)をとりまとめる役職に就いた人たちだとか、倭文部などをとりまとめていた人たちだとか言われている。「はたおり部」から「はとり」となったとされている。
服部の地名は各地に残っていて、服部天神のある服部もその1つ。仁徳天皇の息子(允恭天皇)の時、服部連の本拠地とされたところだったそうだ。
阿拝郡にも服部があり、小宮神社には服部氏の祖(クレハトリ)が祀られているらしい。
服部=機織り部⇒秦氏って連想で、服部の地には秦氏が住んでいたはず、スクナヒコナは秦氏が祀ったのだろう、ってことになったのかな??
この阿倍野元町のあたりの丘は、松崎町からは3kmほど離れているけれど、阿倍寺千軒坊ならここもその範疇だったろうな。
もしかすると中大兄皇子や大海人皇子や孝徳天皇や中臣鎌足もやって来たかもしれない丘。
西に進むと、左右には下りになっていて、路地がいっぱいだった。古い家々の中に、新しい家も多くて、建築中の一角もあった。古い家が取り壊されては分譲されていくのだろうな。
道がいきなり急降下し、四つ辻があって、また上りに。ここも谷筋だろうな。南には下りになっていて、あちこちから流れてきた川がここに集まり、南に流れていっていたのかな、という感じがした。そちらには川筋3。集められた水は川筋3で西の海に。
その谷筋をまずは四つ辻から南に進んでいくと、道は右手にカーブして、晴明丘相生公園の南側を通り、右手に相親坂らしき坂。半分埋まった石碑の文字は「担親」と読めたけれど。
道が谷筋(川筋3)から離れていき、このあたりも大きなおうちが多かった。田舎の少しレトロな新興住宅地のような雰囲気。
それから道を下って紀州街道。やっと大阪に戻って来た感じがした。




