帝塚山とクボタ
南港通から西成と阿倍野の境界あたりを北上していってみた。
南港通を東に向かうと、チン電の塚西駅のある交差点の北に粉浜霊園。
粉浜霊園を過ぎてすぐ、上町台地に向かって上りはじめてすぐのところに、北に向かう道があった。南港通から少し下る階段があって、細い道が北に続いている。
階段を下りて、細道を進んでいってみた。間口の狭い家々がずらりと並んでいた。元は長屋だったのだろうな。こんなに細いところに株式会社やクリーニング店があり、道に洗濯物が干されていたりして、少し不思議なところだった。一軒の家にはいろいろなものが貼られていて、「この事務所は指定暴力団に関わるものなので、立ち入りを禁ずる」「この紙をはがすと刑に問われる」みたいなことが書かれていた。
指定暴力団って、暴力団の中でも不法行為に近いところにいると認定された暴力団みたい。日本には指定暴力団が20数団体あって、有名なのが山口組など。大阪に本部を持つ指定暴力団も2つあって、どちらも本部は西成の北部にあるみたい。犬の知らない世界だ・・・。
この長屋だった建物の列の背後が西成(玉出)と阿倍野(帝塚山)の境目のようだった。そしてこの細道は視界が悪すぎて分からなかったけれど、建物の裏は段丘で、崖みたいになっていた。そしてその段丘の上に晴明丘南小学校。
細道を抜けると、つきあたったのは見覚えのある急坂で、右手のぐんと高くなった高台にあるのは晴明丘南小学校だった。ほぼ崖の上のようなところ。
このあたりには久保田坂と呼ばれる坂があって、その坂の上にクボタの創立者の久保田さんのおうちがあったということだった。その邸宅跡に建てられたのが晴明丘南小学校らしい。
西成の低地を見下ろす段丘の端っこに久保田邸があったんだな。
クボタ創立者は久保田権四郎。
権四郎さんのことは恩加島(大正区)あたりで知って、前に調べたことがあった。明治3年、因島の貧しい農家の末っ子として生まれ、子どもなのに親の反対を押し切って単身大阪へ。14歳のとき、やっと職にありついた。
当時はコレラやペスト、腸炎などがはやり、はやれば次々人が死んでいくような時代だった。大阪は洪水の多さから低湿地をどんどん嵩上げして今の状態になったけれど、かつては海抜0地帯だらけだった。
すぐ大雨なんかで浸水し、下水もあふれるような不衛生な環境の中、井戸水を使っていた。
蛇口をひねっても浄水はでない・・・というか、その蛇口自体がなかったんだな。上水道の整備が望まれるところだったけれど、そのための水道管を作る技術がまだ日本にはなく、輸入品は高価だった。
研究が続けられる中、成功したのが鋳物屋をしていた若き権四郎。権四郎の水道管で上水道が整備され、日本の衛生状況が変わったそうだ。
江戸時代とは違って、人口がどんどん増えていった時代でもあった。江戸時代には人が増えてもそれを養う食料がなかったから、そう人口の増減はなかった。けれど産業が近代化し、人が増えてもなんとか食べていけるようになっていったんだな。権四郎は増えていく人々の食料のため、生産性を飛躍的にあげる耕運機なども製作。
他にも多岐にわたって成功をおさめ、帝塚山に住み、人々を支援しながら生き、昭和34年、89歳で亡くなった。
昭和61年に帝塚山の邸宅跡地に晴明丘南小学校が建てられたそうだ。
権四郎さんが住んだ帝塚山は、かつては住吉村の、人も住まない山だったみたい。
けれど明治時代、人がどんどん増えて、食料もどんどん作らないと追いつかないから、各地で使われていない土地もどんどん農地にしていくということが行われた。
当時、住吉村でも村長の太田さんたちが着手。起伏が激しすぎて農地にも向かず、それまでほぼ手付かずだった帝塚山の開発が始まった。
一方、先を見通せるお金持ちたちは、土地に投資するのを始めた時代でもあったみたい。これから人はどんどん増えるし、鉄道ができたら田舎にも人が住むっていうんで、まだ超格安の田舎の土地をゲット。開発して土地を分譲したり、長屋をいっぱい建てて人に貸したり。
最初は農地として開発されていた帝塚山も、住居のために買われていったみたい。久保田さんは帝塚山の地主の一人でもあり、帝塚山の土地を住宅用に分譲してもいる。凹凸の激しい未開地だったのだろう帝塚山は、そうして様変わりしたんだな。
ちょっとまとめてみた。
明治18年 今の南海本線(難波~大和川)開通
明治23年 住吉村藪山に阿倍野神社建築
明治33年 今の南海高野線(汐見橋駅~)開通
明治35年 馬車鉄道(今のチン電)、天王寺~住吉大社間を走るように
明治45年くらいから帝塚山の開発に着手
大正3年くらいから帝塚山の分譲開始
久保田さんが帝塚山に屋敷をもったのはいつ頃のことだったのかな? 大正3年前後かな?
帝塚山の西の低地は、開発しなくても人が住めただろう。帝塚山の開発に先立って、長屋がたくさん建てられ、人々が住み始めていたのかな。
近くの津守には明治30年に津守煉瓦製造所が、明治42年に尼崎紡績(後に大日本紡績、今はユニチカ)津守工場ができている。大正になると木津川セメントも。
それまで50軒くらいの農家しかなかったような津守に人が押し寄せたそうだ。そして工員さんたちが松島新地に遊びに行く(徒歩で)のに通るので、鶴見橋商店街が栄えたというくらいだったそう。
粉浜には明治33年、大阪合同紡績(今の東洋紡)住吉工場が。大きな工場で、日本の産業を支える一大柱だったらしい。
大きな工場だけでもそんな感じだから、電車が通るようになった、人家もまばらな田舎には他にも工場が次々に建ち、人が住み、長屋も建ち並んでいっただろうな。
大阪では住まいのほとんどが長屋の賃貸だった。小規模な地主は自分ちの裏に長屋を建てて貸し、大規模な地主はあちこちに土地をもってそこに長屋をいっぱい建て、大家さんを住まわせて管理した。
田畑の多いところだった粉浜にも工場ができて、どんどん人が増え、農地が長屋に変わり、あぜ道が公道になっていった。道路や宅地を整理する間もなく住宅街になった。
大正になって分譲が始まった帝塚山は、西を見下ろせば工場からの煙が見えていたんだな。
天下茶屋や帝塚山が人気だった時代はすぐ終わり、住吉(神戸)や御影の山に移っていったそうだ。人や煙が増えすぎたのかも。
東洋のマンチェスターと呼ばれたらしい大阪。
最初は紡績が盛んだったけれど、そのうち輸入品に押されて下火になった。かわって造船業が活発に。
木津川沿いに造船所が建ち並ぶようになり、それまではまだまだど田舎だった加賀屋(田畑ばかりで、川沿いに数軒のみの漁業従事者、という感じだったそうだ)にも工場ができて、人が押し寄せた。
そうして大阪市はどんどん拡張。
東洋のマンチェスター、林立する工場、それが誇りのように語られているのしか知らなかったので、活気ある大阪、そこの工場で元気に働く娘さんや若者たち・・・というのを勝手に想像していた。
けれど、大阪合同紡績天満支店の明治40年の様子がルポされているのを読むと、「第二の監獄」と、頑強な労働者ですらおそれている、みたいな・・・。
工場で働く人たちは、多くが住みこみだったそう。社宅は長屋で、1畳につき1~2人くらいの計算でつめこまれていたそうだ。日当たり悪くじめじめした長屋。ご飯は不味くて質素。のみやしらみがいっぱいの中で少し眠る。すぐ働かされるから。
労働基準法なんてなかったのだろうな。最小限に眠り、最大限に働かされる。
当時は電力じゃなく、蒸気機関で機械が動いていた。夜の間もずっと機械は動かして、人も働かせていたので、一日中その騒音の中にいる。綿埃が舞い、みんな声が嗄れている。
衛生状態の悪いところに押し込められ、栄養状態も悪くて、ペストなんかがはやることも多々あったそうだ。ひどい場合は工場主が隠し、判明したときには既に何人もが犠牲に・・・ってこともあったらしい。
集団赤痢なども何度も発生して、何人も死んでいった。
そして働いていたのは娘さんや若者ばかりではなく、子どもも多かったそうだ。明治29年調べでは、約8割が女性で、その半分近くが15~19歳。10歳~14歳や、10歳未満もいた。大正半ばに14歳未満は働かしてはダメと決まるまでは、9歳以上はOKだったみたい。でっち奉公とかの名残かな?
大正時代はましになったようだけれど、明治時代には本当にひどい。
帝塚山が開発されている頃、その下の低地では、狭いところに押し込められて子どもたちが働いていたかもしれないんだな。
お腹は空いて、眠くて、お母さんに会いたくて、しょっちゅうお腹を壊して、それでも働かされて、いつもうるさくて、食事も空気もまずい。
「東洋のマンチェスター」「大大阪」へと大発展を遂げた、と語られる影には、そんな現実があったんだな。
水道管ができて喜ぶ人たちの様子を、久保田さんは丘の上から見ていたかな。




