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南港通と帝塚山

長居公園通のほか、南港通あたりも歩いてみた。南港通あたりの凹凸も見極めてみようと思って。

長居公園通は住吉大社の南、細江川の流れるあたり。南港通はそこから北に2kmほどの帝塚山あたり。その名の通り西には南港、大阪湾まで続いている。

南港は海を埋めたてて造った陸地で、湾岸から南港通を東に進むと、前に歩いた柴谷あたり、それから北加賀屋(土地のほとんどを千鳥さんが所有しているという不思議なワールド)、玉出(勝間村なる環濠集落だったところ)へ。それから南海電車(本線)をすぎたあたりからゆるい上り道になり、チン電を過ぎたあたり(塚西交差点)からは、はっきり分かる上り道になって、上町台地の帝塚山へ。

長居公園通を歩いてみて、広い公道は周辺の凸凹とは独立した別の凸凹をもっている、ってことが分かった。ふだん、広い公道の勾配ばかり見ていて見落としがちだけれど、公道とは別にその周辺には別の凸凹が存在している。

たとえばかなり凸凹しながら標高を上げていく土地でも、そこを走る公道はきれいにならし、ほぼ均一の傾斜で標高を上げていくようにつくられている。常識かもしれないけれど、わたしはあまり分かっていなかった。改めて周辺の凸凹に注目して歩いてみよう。

南港通の北のほうでは、上町台地とその西側は「縄文海進による段差」で崖みたい(段丘)になっていて、阿倍野区と西成区を分けている。南港通の南のほうでは、そこまでの段差はないけれど、緩やかな坂だったり、急な坂だったり、一部はそこそこの段丘になっていたりする。南港通の周辺はどうなっているんだろう?


改めて歩いてみると、塚西交差点(交差するのは紀州街道)までは、南港通は周囲とほぼ同じ高度だった。

塚西交差点からは南港通は勾配がきつくなる。けれど周辺の高度はまだ変わらず、南港通だけが高くなっていく。

信号のあたり(晴明丘南小学校の東側)まで進むと、周囲も南港通に追いついて高くなり、今度は一緒に下っていく。阪堺上町線の走る道(熊野街道)と交差して、更に下りに。上町台地の東の斜面で、こちらは傾斜がなだらかなのだろうな、南港通りと周辺の標高はそう変わらない。

上町台地の西の斜面はかつて海に面していて、削られて段丘状になっているから、南港通(坂道)と周囲(段丘)との高度に一部差ができるんだな。

信号で左折して、晴明丘南小学校の東側の道を北上していってみた。ずいぶん前にも歩いたことがある道。

晴明丘の晴明は安倍晴明の晴明。阿倍野区のアベも安倍晴明の一族のアベからきているとされている。阿倍野には安倍晴明が産湯を使ったという安倍晴明神社や、安倍晴明の父親である保名さんの名をもつ郵便局もあるのだ。

このあたりの地名は帝塚山だった。南港通あたりを境に北は阿倍野区、南は住吉区だけれど、どちらにも帝塚山があるんだな。

阿倍野区のこのあたりも住吉村だったところらしくて、帝塚山(元は玉手山といった山)も、この北にまで続いていたのかな。

道は西寄りに進み、下り坂になっていった。玉手山を下っているのかな。

道が2つに分かれるところでは右手へ。けっこうな下りの道だった。平地に下るとチン電(阪堺線)通りだった。紀州街道ね。

「すぐ帝塚山」の結構古そうな碑のあるところ。地名は玉出東で、「西成の芦屋」とも呼ばれていたというところ。

紀州街道のすぐ東に上町台地(玉手山?)の山裾があって、このあたりでは下は玉出東(西成区)、上は帝塚山(阿倍野区)になっているんだな。


坂を下ったすぐ北に、もう一度坂を上って行く道があって、今度はこの道を上って行ってみた。こちらもけっこうな坂道だった。

右手(南)には更に高台で、そちらには晴明丘南小学校や南港通。

途中には大きなお宅が多かった。散歩していると、高台の住宅地って、まずは中腹に裏山をバックに大きな家が建てられ、後の開発でその裏山にも家が建てられた、ってパターンが多い。ここでも、最初に建てられた中腹の家がこのあたりだったのではないかな、という感じがした。

ずっと東に進んでいくと、道は右手に急カーブして南へ。東には急な段差があって、下の方を南海高野線の線路が走り、その向こうの低地に建物。帝塚山の山すそになるのかな。

大昔には半島だったらしい上町台地。一口で台地といっても、その輪郭はぎざぎざとして、ごつごつとして、高台あり、谷もあり、決して単純な地形ではなかったのだろうなあ。その形を今もけっこう残しているのかも。

道なりに進むと左手(東)に大原橋がかかり、下には南海高野線の線路が通っていた。

橋を渡ると、右手に古そうなレンガ塀や、奥大原霊園があった。霊園の向こうは南港通。南港通の横にこんな古そうな霊園があったんだな。しかも「奥大原」って。

天下茶屋や帝塚山は、人口の密集する都会(船場)を離れて、風光明媚で空気のきれいなところに住みたい富豪たちが最初に田園都市として移り住んだところだそうだけれど、そんなところにふさわしい名前だ。

そのまま直進していくと、すぐ南港通で、南港通に出ると、すぐ横(東)には、また南港通を離れて北上していく道があった。

今度はここを北上していってみた。


地名は阿倍野区帝塚山。最初はゆるい下りの道だった。旧道っぽい道と交差して、そのまま進むと上りになった。

それから面白そうな道と交差しながら、道はじぐざぐとカーブしながら下っていった。迷路みたいで、面白そうなところ。家でいっぱいなのだけれど、なにか不思議な感じがあった。元は川が流れていたところじゃないかな、という感じがした。しかも水路とかじゃない、自然の沢だ。

だいぶ下っていったところで、左手に阿倍野神社が現れた。地名は北畠で、このあたりに北畠顕家(南朝の武将)の話が伝わるものだから、その顕家さんを祀る神社をつくろうと、明治時代に新しく建てられた。

当時は住吉村藪山って地名だったっていうから、ど田舎だったのかな。

後日、西から行ってみると、南港通からは随分下っていった気のする阿倍野神社だったけれど、西からはけっこう上っていったところだった。

保育園や幼稚園があり、幼稚園がにぎやかでびっくりした。しばらくぶりのにぎやかさ。コロナで休園中ではあると思うのだけれど、ここにはかなりの園児たちがいて、元気に遊んでいた。

そのまま北上していくと、その先はいきなり下りの急坂。前方だけじゃなく、右も左も下り道。

直進の急坂を下って行った。この坂はさくら坂。前に阿倍野の七坂を探して散歩したことがあったけれど、その七坂の1つ。

住吉村は山あり谷あり、そのうちの山の部分が高級住宅地として開発されたんだな。

坂を下ったところで道はいくつかに分かれていて、左折。

左手に晴明丘西公園の入り口が現れた。入ってすぐ急な上り坂になっている小さな公園。南の高台から北の低地に向かう急坂が公園になっている感じ。北にはハルカス。

カンカン集めのおじいさんが、自転車にいっぱい飲料缶を潰しては載せていっていた。もう3袋目くらい。西に坂を下ればすぐニシナリなのだ。


マンション沿いに左折して西へ。

マンションは建物と外壁の調和がとれていなくて、元は邸宅だったのかな、という感じがした。大きな邸宅の外壁は残して、中はマンションになったのかな?

すぐチン電通り(紀州街道)だった。少し南に天神森天満宮。千利休の師匠がこの地の水をこよなく愛し、住んでいたというところ。

ここにやって来るのは、いつも紀州街道からだったし、紀州街道に近い神社としか思っていなかった。けれどこんなふうに丘を下ってやって来ると、ここが丘の麓の神社だというのがよく分かった。

水がよかったのも道理で、このそばの丘は、きっと起伏に富んだ、沢の流れる、緑豊かなところだったのだろうな。

神社を西から出ると紀州街道で、ここを南下。すぐ阿倍野神社の看板があって、南海高野線の高架下を通って、左手には味のあるレンガ造りの玉出変電所。

・・・ん? 帝塚山駅あたりでは地上を走り、今でも踏切を渡らないといけない高野線が、少し北の南港通では下の方を走り、もう少し北のこのあたり(岸里玉出駅あたり)では高架を走っているんだな。


そして4月の終わり頃、改めて高野線沿いを歩いてみた。

帝塚山駅の東側の道を北上。駅から西にすぐ帝塚山古墳があって、このあたりは帝塚山の中でも高台のほう。西にも東にも下り。東に下っていくと熊野街道。上町台地の尾根部を走っていたという熊野街道よりも高い山(玉手山)だったところなのだろうな。

しばらくして道は上りに。けれど線路は、少し下りに。

ここに線路が通ったのは明治33年頃かな? 低地の岸里玉出駅あたりから上町台地に向かって上ってくるために傾斜しているのだろうな。こちら側の傾斜も段丘状で、傾斜が短距離に激しく集約されているので、溝を掘ってゆるやかな傾斜になるよう調整したんだな。

南港通が通されたのは昭和になってから。溝を走る高野線の上を帝塚山橋でまたいでいる。このあたりで南港通はカーブを描き、北寄りを通っているのだけれど、まっすぐ通したのでは南海高野線との垂直の距離を十分とれなかったからなのかも。

南港通を渡って、北上。そのまま進むと阿倍野神社。最初の四辻で左折して、少し離れてしまった線路に近寄っていった。奥大原霊園の北側を通り、大原橋(高野線が下を走る架線橋)へ。

この北はいきなり低地になっていて、かつては車窓の外には豊かな自然が広がって、素敵な旅を演出していたんじゃああるまいか、とか想像した。

今では南海本線が「本線」の扱いだけれど、元は高野線が花形で、しかも高野線は難波ではなく、汐見橋駅(今では超ローカル線となった汐見橋線の駅)からの出発だったそうだ。

汐見橋駅は高野山などに向かう観光客で賑わっていたのだって。そんな時代、汐見橋駅を出た電車は、緑豊かな天下茶屋や帝塚山を走って高野山に向かったのだろうな。

大原橋は渡らず、高野線の東の道を北上。すぐに階段があり、ここを下っていった。いきなりの低地で、階段の下の家の3階と、上の家の1階が同じくらいの高さだった。

そして電車は、ここでは地上を走っていた。ここから帝塚山駅手前にかけて2階分近い高さを上っていくんだな。


道はまた線路から離れて行き、つきあたりまで進むと、目の前には三井住友銀行帝塚山社宅。

左に進むと南海高野線へ。

ここでは線路は地上1.5mくらいの高さを走っていた。小さな踏切(岸里玉出1号)がかかっていて、踏切から線路を見ると、南にはゆるい下りで、北にはゆるい上り。岸里玉出駅が見えていた。

この先(北)は都会なので、高架を走るように上っていっているんだな。

踏切の向こうは古いレンガの玉出変電所の裏手だった。その向こうは紀州街道。

踏切の東の道を、岸里玉出駅方面に北上していった。道は、線路とは逆に下っていった。更に低地になっていく。

また線路から離れていったけれど、左手に細道が現れて、行ってみると下りの階段があって、線路の横の道へ。線路は既に高架になっていた。

線路自体も高度を少しずつ上げているのだろうけれど、道も着々と下ってきたからなあ。

高架になった高野線と、地上を走るチン電(阪堺線)が交差していた。よく見れば、高架や駅は一部レンガでできた古いものだった。

チン電の踏切を渡り、高野線の高架の下を通ると、高架の壁もレンガ積だった。ただ、けばけばしい茶色のペンキが塗られて残念な感じになっていた。

西成スポーツセンターの北側を通って進んでいった。

町屋風の家なんかもあった。地名は玉出東で、迷路みたいになっているから、どこを歩いているかよく分からないまま南の玉出方面へ。

玉出も古いところだ。26号線の西側は空襲で焼けてしまったらしいけれど、東側の一帯には大きな町屋なんかもけっこう残っている。けれど、たいぶ古い建物が壊されてきていた。

あとは歩きなれた道だった。

しかし・・・だんだん暑くなってきたなあ。そろそろ散歩中の水分補給が必要だなあ・・・と思いつつおうちに帰った。

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