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石清水八幡宮・入門編

それから京街道を進んでいくと、八幡の常夜灯があった。

京街道はこのまま京阪電車の横を進み、石清水八幡宮駅へと向かうらしかった。駅からは男山を上ると石清水八幡宮。

石清水八幡宮には行くつもりだった。石清水八幡宮駅まで京街道を歩いてから向かうつもりでいたのだけれど、時間が押していた。この常夜灯のところからも山に上っていけるみたいで、ショートカットすることにした。

京阪電車の線路の向こう(東)には上りの道が始まっていた。

男山の北麓が石清水八幡宮駅、西麓が橋本駅であるらしかった。ちなみに南麓は樟葉東あたり。

南麓では旧石器時代の大量の石器も見つかっているらしい。飛鳥時代の窯跡も。樟葉は土器作りも盛んだったのだって。四天王寺創建の時の瓦を焼いた木型を使って焼いた瓦も見つかっているのだとか。

「男山レクリエーションセンター」とか「八幡宮境内」とかの案内にそって道を進んでいった。

ずっと上り道で、かつては山だったのだろうけれど、そこに広くてきれいな舗装道路が通されていた。左手は山のままだったけれど、右側は住宅地だった。上っていくことを考えたら、恐ろしくなるくらいの急坂なのだけれど、そこに家々がきれいにびっしりと建ち並んでいた。

見晴らしはいいだろうけれど、上り下りを考えると、住むのには勇気がいるな・・・。


途中、左手に狩尾神社。狩尾と書いて「とがのお」だって。

鳥居の向こうは上り階段の参道で、スルーしたのだけれど、桃山時代に建てられた本殿が重要文化財らしい。

まだまだ上り坂を行き、男山レクリエーションセンターも過ぎて、まだしばらく進むと石清水八幡宮だった。けっこう参拝客がいた。

このあたりまで来るとさすがに住宅はなくて、きれいな竹林などがあった。

エジソン記念碑があって、なぜにエジソン?と思ったら、竹つながりだった。

エジソンの時代、ガス灯が一般的だったそうだ。電気の照明(白熱電球)も発明されていたけれど、実用化できるレベルではまだなかった。そこでエジソンはフィラメントに様々な材料を試して試行錯誤。竹(炭)がいいことに気がついて、中国や日本に助手Sを送り、各地の竹を吟味。京都の竹がいいですよと、大臣とかのアドバイスがあったそうで、八幡の竹を使うことに決定。

八幡の竹は、しばらくエジソンの電灯会社に輸出されたんだって。(後に金属製に)

石清水八幡は男山の山頂あたりなのかな。境内は広かった。

本殿、食堂、駐車場、トイレ。

ここで源義家が元服したんだな。かつては今よりももっと自然の中にある感じのところだったのだろうな。

祭神は応神天皇とその母、神功皇后、宗像三女神。宇佐神宮からの勧請なので、宇佐神宮の祭神と同じ。

宇佐神宮では最初は宗像三女神を祀っていて、後に八幡神(応神天皇?)を祀るようになったとされている。


帰りは裏参道の矢印に沿って、石清水八幡駅方面に下っていくことにした。

途中、展望台とケーブル駅への分岐があった。ケーブルでも上って来られるみたい。展望台が気になったけれど、また次回とした。なにしろ時間がおしていたので・・・。

裏参道は古い石畳の階段道で、素敵だった。

山中の感じが濃くて、12月初めのその日、かろうじてまだ紅葉も少し残っていて、きれいだった。

人にはほとんど会わなかった。

石の階段が折れて下に伸び、そこには色づいた木々がある。秋にはきれいだったことだろうなあ。

途中、表参道が案内された分岐もあった。そちらに進むと、石清水の名の由来になったとされる石清水井や、松花堂跡を通って、下の方で表参道に合流するみたい。


平地にたどり着き、そこは広くてきれいな空き地だった。

駅方面にきれいなまっすぐな歩道が伸びていて、左折してそちらに進んでいった。

空き地と思ったのは、どうやら駐車場だったみたい。けれど車はほぼ止まっていなくて、きれいな空き地と男山の間を歩いた。

高良こうら神社があった。石清水八幡を創建するように宇佐神宮で神託を受けた行教(空海の弟子)がたてたものらしい。

徒然草に、石清水八幡に参ったつもりが、八幡は山頂にあることを知らなくて、山麓の神社に参っていただけだったという和尚の話が書かれていて、その山麓の神社というのがこの高良神社だったらしい。

笑えない話。わたしも身に覚えがある。

ここも鳥羽・伏見の戦いで燃えてしまい、再建したそうだ。

祭神は高良玉垂神。かつては河原の近くにあったとかで河原(川原、瓦)神社といい、名前が似ている高良大社(福岡県久留米市)と同じ祭神を祀るようになったと伝わるそうだ。

高良大社は仁徳天皇のときの鎮座と伝わり、古すぎて高良玉垂神の正体も不明。

神戸では東明神社に高良宮があり、厄除けの神、竹内宿禰が祀られているってことだった。高良玉垂についても竹内宿禰説などなどがあるそうだ。


それから門を通った。ここが石清水八幡の神宮寺だったというお寺(神応寺)かな?と思った。さっそく石清水八幡のつもりで高良神社に参っていた和尚と同じになってしまった。

ここは八幡の頓宮だったみたい。神応寺はこの横だったけれど、知らずにスルー。

北門から出ると石畳の道で、車が通るとガタガタいった。「東高野街道」と書いてあり、おどろいた。

今回、京街道を歩く前、東高野街道を北に歩いていた。郡津まで歩いて、そこで知ったもろもろで石清水八幡のことが気になって、石清水八幡(京都)なら京街道だろうと京街道で石清水八幡へ。

ところが郡津からそのまま東高野街道の続きを進んでも石清水八幡だったみたい・・・。そしてこのあたりで東高野街道は京街道に合流するらしかった。

ということは、茄子作(本尊掛松)で出会った二人は、どちらも東高野街道をやって来たのか。法名上人は南から、石清水八幡から本尊を携えてやって来た人は北から。

走井餅なる名物の餅を売るお店があった。

元は近江(大津)にあったけれど、八幡にもでき、その後、近江の店は閉めたから、今はここでだけ賞味できるそうだ。大津にあったお店は1764年創業で、安藤広重の東海道の絵にも描かれているのだって。小さいお餅5つで750円だった。

街道の横を流れる川は放生川。大谷川なのだけれど、ここで放生会(捕った生き物を川や山にかえし、殺生を戒める行事)が行われていたことから、放生川とも呼ぶようになったのだって。

かつては蛍が見られたそうだ。今もまっすぐな川に橋が架かり、きれいなのだけれど、整えられたきれいさだった。

すぐが石清水八幡宮駅(京阪本線)で、ここからおうちに帰った。

電車の中から石清水八幡宮駅から橋本駅まで歩かなかった京街道が見えた。古い建物もけっこうあって、また機会があったら歩きに来ようかな・・・。

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