六道の辻と住吉界隈2
六道の辻から北東に向かう道は行ったことがなくて、一度はここにも上がっていってみた。
閻魔地蔵堂の横を通る、東に向かう道は上町台地に上る感じで坂道になっているのだけれど、そこから途中で左手(北東)に分岐する道は、進んでみると、それよりももっと急な坂道だった。上町台地に向かう坂の中でも、峰みたいになった部分だったのかな。
かつては道はこのまま東に続いていたのじゃないかと思うのだけれど、行き止まりになって途切れていた。このあたりも、知らないところみたいな気のするところだった。
前に見つけたレンガ塀の大きな旧家のそばも通り、他も雰囲気がレトロで、面白かった。住吉界隈はレトロな牛乳箱の宝庫のようなところで、新しいバージョンも見つけた。「山は富士 乳は藤川」とか書かれてあった。
東に道が残っていたら、住吉小学校あたりにつながっていたのかな?
この近辺はかつての地名は「神ノ木」だったみたい。
ここから一休さんの庵跡の公園に行き、公園の南側の道を東に、線路(南海高野線)を渡って進んで行った。
この向こうに阪之井会館があるのを地図で見つけて、行ってみようと思って。かつては阪之井って地名だったのだろうところがどんなところか、見てみたかった。
踏切を渡ってすぐ路地みたいな細道に右折した先が阪之井会館だった。新しい小さな建物だった。
道は左にカーブを描いて続いていて、進んでいくと、南に向かう下り坂に。南には細江川が流れていて、ここが上町台地の南端部なのだろうな。
道がつきあたり、少し北に行った三叉路に地蔵がいた。
三叉路を東に向かう道は旧道らしくカーブしていた。けれどほんの短い間だけで、あとは区画整理されて消滅している。
なるほど、阪之井って、「坂の井戸」とかがあったらしきところだな、と思った。南の細江川に向かって下り坂になっていて、地蔵のあたりに井戸かなにかがあったのかも。
かつては住吉村だったところで、坂之井村として独立したのだって。
三叉路を北に上り道を行くと、工事の音が響いていた。住宅が建設中で、周りにも新興住宅が並んでいた。
このところ、あちこちの古いところが取り壊されては新しくなっていっているなあ・・・。
古い道標に「油かけじぞう」とあり、大きな旧家の間の細道を行くと、右はツシ2階の古い町屋(木下家住宅)で、左には浄光寺。
ここで交差するのは住吉街道で、西にいくと、太田家、住之江味噌、ハット屋パン、それから住吉大社へ。
浄光寺には油かけ地蔵がいて、油をかけて無病息災を願ったそうだ。近くの太田家が油屋さんだったのも関係しているのかな?
気づかずに通ってしまったけれど、阪之井の地蔵のそばには極楽寺の出張所もあったみたいで、極楽寺って遠里小野の極楽寺だろうか?
遠里小野にあった榎津寺は南北朝の時代に退廃して、本尊は極楽寺に移されたそうだ。信貴山の本尊と同じ木から聖徳太子が彫ったと伝わる毘沙門天だそう(実際には平安時代の作?)。
遠里小野は江戸時代ごろには油の一大産地でもあったそうだ。平安時代の終わり頃、山崎の離宮八幡宮の神官が油搾り器を考え出して、エゴマ油(主に灯りに用いられた)を生産するようになったということだったけれど、それに代わって遠里小野の人が考え出した油絞り器による菜種油が主流になっていったのだって。
それ以前から遠里小野で菜種油がつくられていたみたい。だからこその発明だったんだな。遠里小野で作られた菜種油が油屋や住吉大社に運ばれる途中に油かけ地蔵がいたのかも?
浄光寺の先は、道がきれいに舗装されていた。一帯は最近、きれいになったところ。前もきれいだったけれど、ますますきれいになって、そこに福祉系のきれいな建物がいろいろと建っている。
保育所に行き着いて、右手に寺が見えて行って見ると、荘厳浄土寺の西門だった。荘厳浄土寺も表門は住吉街道沿いに面しているけれど、境内はこのあたりまで続いているんだな。
元は平安時代、平将門とかの時代の創建だそう。藤原道長が生まれる少し前。けれど衰退し、浄土教が流行した時代、住吉大社の神主の津守さんが白河天皇に望まれて再興。
白河さんも熊野詣をしている人だから、その折に住吉大社に立ち寄ったとかかな?
白河さんは延暦寺の僧兵たちに悩まされ、初めは源義家ら武の者を重用したそう。けれど人気者の義家を後には冷遇し、代わりに平氏を重宝しはじめた。
その頃、寺社が僧兵をもって巨大な力を有するようになっていったそうで、寺を再建させるってことは、僧兵を持たせるってことでもあったのかもしれない。
荘厳浄土寺を再建させたのは、八幡太郎義家が陸奥方面でごたごたをおさめていた頃かな。その後、白河さんは義家を冷遇するようになったみたいで、勝手に想像しただけだけれど、義家がいなくても住吉大社界隈などで武力をゲットしたからかな。それは義家よりも御しやすかったのかも。
白河さんの孫の鳥羽さんは平野(住吉郡平野庄)に大念仏寺を建てさせた人。それは、信心のためや民衆のためもあったかもしれないけれど、武力をもつためというのも大きかったのかもしれない。
そして住吉界隈に武力を持つことは、重要なことだったのかも。
荘厳浄土寺の西門の北には、駅(住吉東駅)前でありながら市営住宅や福祉センターなどなどが集まっていた。
駅の西には太田家住宅や住吉大社、反対の東側がここ。
周辺には真願寺や福祉系のカフェやラーメン屋、市営住宅の素敵な庭なんかがある。かつてのNHK朝ドラ「マッサン」に出てくる酒造のモデルになったという摂津酒蔵跡も。
住吉青少年会館の大きな建物が閉鎖されているものの残っていた。彫刻家の金城実さんと市民とで共同制作されたというレリーフが残されている。解放会館などもあって、壁面には電車からも「オガリの像」が見えていたけれど、それはどうなったのかな?
大きな寺社の近くには被差別の村があった。ここも住吉大社など大きな寺社がいっぱいだったところ。
駅の西側を北上していった。
高台に神ノ木停留所(チン電)。このあたりではチン電は高架になっていて、その下、南海高野線沿いに進むと左折。つきあたりを右折してこの道を北上したら、なかなか古そうなところだった。小さな池もあるような田畑だったのじゃないかな。そこに明治時代とかに、どんどん家が建っていったのじゃないかな。
途中道が2つに分かれて、左手の道は旧道だった感じだった。そちらに進んでいくと、住吉小学校の横を通り、住吉中学校で途切れた。
用水路のあるあぜ道とかだったのかもしれないな。
六道の辻や、帝塚山古墳や、万代池、田舎だった時代、道はどんなふうに通じていたのだろうなあ。
今は住宅密集地で、旧道は途切れ途切れ。住吉小学校あたりから東にかけては、上町台地の平らな高台の住宅地。区画整理されて、道は碁盤の目のようになっている。
碁盤の目は地図では斜めになっていて、南北の道も東西の道も30度ほど傾いている。熊野街道とか紀州街道とかを軸にして区画整理したとかなあ?
また別の日、この区画整理されたあたりを歩いてみた。
このあたりで一番古い道は熊野街道だろうな。
それに沿うように走るチン電(阪堺上町線)は、馬車鉄道として明治時代には敷設されていたらしい。
その後、チン電を軸にして道路がつくられていったのかな。
斜めの道の中、一本だけ真東に通る道があり、気になってチン電の帝塚山四丁目停留所から始まるこの道を歩いて行ってみた。
万代池公園の南側を通り、あべの筋に出て、その向こうは府立総合医療センター。
阿倍野筋を渡ると、医療センターの横(北側)に旧道らしい道が続いていた。
緩い下り坂になっていて、かつては水路があったような感じの道だった。
左手に大乗寺があって、道は左にカーブして北北東方面へ。
大乗寺は昭和にできた寺だそう。府立総合医療センターこと大阪府立急性期・総合医療センターは、とても大きくて明るい雰囲気の、新しい病院だった。けれど建て替えられたからであって、大正の時代からここにあるらしい。当時の名前は府立難波病院だったそうだ。
それまでは難波にあって、大阪に10あった遊郭の娼妓専用の病院だったらしい。性病などの検査をして、入院もさせていた。
大正13年、ここに移転。難波あたりが都会になって、もっと田舎に引っ越してきたのかな? 翌年、このあたりもみんな大阪市に編入されるまで、このあたりは村(住吉村)だった。今の病院敷地の東半分に大領池って池があり、その西側に病院が建てられた。
それから戦争になり、大阪空襲で被弾(建物や人は無事)。戦争が終わると、GHQによって遊郭は禁止されたから、娼妓専用病院としての役目は終わり、性病も診つつ、総合病院へと変わっていったのだって。
道を進むと、右手に見えたのは明善寺。
孝徳天皇の時代(大化の改新の頃ね)、「難波の渡辺の安曇江」あたりに、安曇寺があり、そこの石仏が
後に南船場あたりの寺(明善寺)に。人々はその石仏に油をかけて願い事をするようになり、油かけ地蔵となったのだって。
大阪大空襲で寺は被災。地蔵は無事で、南船場に今も残っているそうだ。そして寺は、ここに移転。
安曇江や安曇寺がどこにあったかはよく分かっていないのだって。
神功皇后を助けたと言われる安曇イソラ(架空の人物?)を祖とする安曇氏が本拠地にしていたと思われるそうだ。祖神はワタツミで、住吉大社の北の大海神社にも祀られている。
イソラさんは神功皇后の三韓征伐を「潮ふる玉、潮みつ玉(海彦と山彦の物語にも出てくる玉)」で助けたとかいう話になっていて、その玉の1つが沈められたという井戸も大海神社にある。
安曇さんは九州~朝鮮半島を行き来していた海の民だったのだろうと言われている。
前に茨木市のイソラ神社(疣水神社)に行った。元は新屋坐天照御魂神社(新屋神社)の境内にあったということだった。
新屋神社の祭神はアメノホアカリで、住吉大社の代々の神主である津守氏はアメノホアカリの子孫。住吉大社は神功皇后の創建で、新屋神社も神功皇后に縁が深い。
神功皇后とアメノホアカリの子孫たち(津守氏、尾張氏、丹比氏など)と安曇氏とは、なにか関係があるのだろうな。
明善寺の前を通って東に進んでいった。公園があった。近くにはきれいなマンションが多くて、公園では小さな子たち、その親たちがいた。
公園の東の道を北上して行くと、西園寺のあたりだった。
医療センター北側の旧道は、消滅しているけれど、西園寺の横を通り、西田辺駅あたりに通じていたみたい。
大きなクスノキが見えていて、行ってみた。真正面にハルカスを見ながら。
住吉配水場にあるクスノキだった。
周辺には、新しいきれいな一軒家と、おんぼろの長屋や文化住宅なんかが共存していた。
すごい細い、すごい急な階段の先に、天上の低い、暗い2階という、散歩していて時々見る古いタイプのアパートや、錦船温泉。
近くに大きな工場があって、風呂なしの狭いアパートに労務者の人々が多く住んでいたとかかな・・・?
思いがけないこんな一角も面白かった。




