安立
おかあさんの頭痛はおさまってきたけれど、おさまってきたら、自粛要請だ。
要請されたからというんじゃなけれど、ひとりひとり危機感をもっていないとだめなんだろうなあ、という感じが海外をみているとひしひしとして、自粛。
電車に乗らず、歩いての遠出もほとんどせずに過ごした。
コロナ、コロナ、コロナだものなあ。
「不要不急」じゃない用事で難波に行ったおかあさんは、様変わりに拍車がかかっていたと言っていた。閑散とした駅、閑散とした街。人がいることにはいるのだけれど、難波じゃなく、どこかの片田舎の中心地くらい。
いつもは人の多い通りを歩いても、一人一人の顔を確認できるくらいの人通り。シャッターには当面の間閉店しますの貼り紙が並び、大きな商業施設は11時オープンで、11時になったとて、たいした人出じゃない。
行列ができていたのはパチンコ屋、ドラッグストア、それからオタロードの一角。外国の人の姿は全く見なかったそうだ。
その前の三連休、春の陽気の住吉公園はすごい賑わいだった。「全国的に危機感が緩んでいた」と言われた三連休。小さな子連れのお母さんたちとか家族連れとかがいっぱい遊びに来ていて、レジャーシートに座って、まだ少し早いお花見。そこにも外国の人の姿は皆無だった。
ウィルスのことなんてなにも考えずに外出できるって幸せなことだったんだなあと思いつつ、近場の安立へ。近場で少しでも面白そうなネタを探して散歩するしかない。
安立には式内社もあったらしくて、それがどんなところか確かめに。霰松原公園あたりなのだけれど、前に行ったときは、住宅密集地にあって「元はこのあたりは松の美しい海岸で」とか言われても呆然とするばかり。今ならもう少しはかつての姿を想像できるかと思って。あと、前に歩いた時から月日が経っていたから、安立の古いところが変わってはいないかな、と思って。
住吉公園の桜はけっこう咲いていた。ただ前の台風でおおかた折れてしまい、新しい細い子たちがやって来たので、少し寂しい感じ。
曇り空なのもあってか、人はあまりいなかった。犬の散歩をする人がちらほら。
南の江川橋から公園を出ると、細江川沿いを東に進んでいった。
南海本線の高架下を通り、すぐに岸辺橋。川の向こう(北)には慈光寺(天台宗)や古い質屋なんかがあって、少し古い一角になっている。
ここで右折。道を南下して安立に向かうつもり。
南下するとすぐ長居公園通で、そばに安立1丁目交差点(紀州街道)。安立町歩道橋で長居公園通を渡った。渡ったところの古いおうちは崩れかけてぼろぼろだった。こういう間もなくなくなっていくだろう建物、かなり好き。
南下を続けると、右手に安立霊園。散歩していると、ときどき小さな霊園が大阪市の市街地にも現れる。最初は驚いたけれど、もう慣れっこになったな。
古い文化アパートみたいな面白い集合住宅も多かった。
それから左手に宝林寺(真宗本願寺派)。この周りにも古そうな建物や、墓地があった。古そうな建物が見えるのも道理で、紀州街道のあたりだった。この一本東の道が紀州街道。
宝林寺は16世紀の創建らしい。足利義昭の頃(天正時代)、近江は多賀の武士によって開かれたんだそう。
安立は江戸時代初期に名家、和気氏の医師(越前の半井安立さん)が移り住むことで集落になっていったという話だった。けれど、その前から移り住む人々がいたんだな。
道は自然な感じにカーブしていて、途中から、西への道が下り坂になっているのが目に見えて分かるようになった。
それから右手に安立小学校が現れて、左手に霰松原公園。
紀州街道は海沿いを紀州に向かう道で、江戸時代には参勤交代にも使われた。今は新田開発などで海が遠くなり、街なかを通っているけれど、かつては海を見ながら歩ける風光明媚な道で、特にこのあたりは松原が美しく、霰松原と呼ばれたそうだ。
ここに式内社跡の碑がある。このあたりに式内社の天水分豊浦命神社があったとされている。詳細は不明。
ここに式内社があったのだっても不思議じゃないな、と今では思った。
妙に大きなカーブを描く道、海の方向に向かって下り坂になっていて、このあたりになにかあったのが確かな雰囲気があるように思った。
入江近く、古くから神社があった、とかかな・・・。
公園には大きなクスノキが残されていて、以前にはここに町役場があったそう。町役場ができる前には神社(三宝荒神社や霰松原神社)があった。天水分豊浦命神社もまたこのあたりに鎮座していたといわれているそうだ。
住吉大社の南あたりは津守さんの庭みたいなものだったし、ここもそうだったのかな?
住吉大社を創建した神功皇后に祭祀を任された人(たもみのすくね)の息子(豊吾団)が津守の名をもらい、その子孫が代々、住吉大社の神主となり、遣唐使の時には祭祀を行いつつ同行。
出港したのは住吉津。住吉大社とか細江川とかのあたり。
この南にも津(港)があったそうだ。
大和川にとりこまれて消えたけれど、かつてはそこに狭間川なる川が流れていて、大阪湾に注ぐ河口部が榎津なる津だったのだって。
河口部は遠里小野にあって、付近で見つかった7世紀前半頃のものと思われる建物はとっても巨大で、7世紀半ば(大化の改新の頃)につくられた難波宮の宮殿クラスのものだったと思われるのだって。
遠里小野には7世紀後半には楼閣風建築物も建っていたらしい。渡来してきた客人を迎え入れる建物だったとか? 見張り台を兼ねた灯台だったりもしたのかな?
そばには榎津寺なる寺もあったそうだ。
難波大道がつくられたのもその頃かな。難波宮から真南に大道がつくられていて、幅17~18mくらい。左右に側溝(幅2mくらいの排水などのための溝)もあったのだって。
今は大和川に分断されているけれど、難波大道は堺市(と松原市との境目)あたりまで続き、そこから都の飛鳥に向かって丹比道が通っていた。
それが今の竹内街道だとか長尾街道だとか言われている。一般的には丹比道が竹内街道、もうひとつ記紀に記載のある大津道が長尾街道だとされている。難波宮からまっすぐ南下して、須牟地曽根神社あたりから東の都を目指すのが長尾街道、金岡神社あたりから都を目指すのが竹内街道。
長尾街道には他に、遠里小野からスタートする推定ルートもあった。わたしは何だって遠里小野?と思っていた。遠里小野なんて小さな地味な町で(でも実際に歩いてみると、ただものでなさを感じさせる古い町だ)、長尾街道のスタート地点なんてことはないだろう、と。
けれど遠里小野も、7世紀の頃には大規模な津のある重要な土地だったんだな。
オリオノって地名の由来は不明で、「瓜野」「瓜生野」とかとも呼ばれていたから、それが変化したのか?ともいわれるのだって。
もう少し行くと関西スーパーの裏手で、ツシ2階の古い建物を長屋に改造している集合住宅なんかがあった。土の細道を進んでいったところには昔の農家って感じのおうちがあって、このおうちがまだ残っているか気になっていた。
行ってみると、変わらずあった。けれど最初見た時の驚きはなかったな。あれからあちこち散歩して、住宅街で牛と目があうってこともあった。住吉の高台にもこんなおうちがあった。
じぐざぐと南下して行くと車道に出た。少し西には南海電車の高架があって、高架下には三宝地蔵尊。
南下はここまでとして、Uターンして戻ることにした。
同じ道を帰るのもな、と、高架下を通り、南海電車の西側を北上。
素敵な長屋が多かった。そういえばここは住之江(町名)で、住之江は素敵な長屋が多くて一部の人には有名なところなのだ。
長屋と言ったら、どちらかというと貧乏人の住まいってイメージだそうだけれど、大阪ではけっこうリッチな人も長屋住まい。こじゃれた長屋をつくる会社もあって、特に住之江あたりはそういう会社が住宅を手掛けたところ。今も素敵な長屋が残っている。
住ノ江駅(南海本線)近くで商店街っぽい道を東へ。
紀州街道、チン電と過ぎて、地名は清水丘だった。このあたりも古そうな空気感だった。今では住宅密集地だけれど、いろんな歴史があるような感じがした。
古いツシ二階のおうちが今も現役で建っていた。瓦も素敵に古く、庭には桃かなにかの花が咲いていた。
また別の日、清水丘あたりを歩いてみたのだけれど、丘のてっぺんだと思われるのは清水幼稚園あたりで、そこに銭湯(高手湯)なんかがあった。近くには清水丘サンロードなる商店街(西に進むと途中であびこ道商店街になり、我孫子道停留所(阪堺線)へ)。
清水丘からさらに東に上り坂になっていて、進んでいくと墨江だった。住之江、住吉、墨江、いろんな字を書くけれどかつてはみんな「すみのえ」と読み、このあたりを表す地名だったと思われている。
熊野街道を北上するとすぐ長居公園通、細江川。
コンビニに「藤澤桓夫旧邸跡」とあった。藤澤桓夫さんは昭和の文化人だそうだ。明治天皇の側室の一人が隠居して住吉に住んでいて、その邸宅跡に藤澤桓夫宅はつくられたらしい。
明治天皇は前の天皇の側室、中山慶子さんが産んだ子だった。明治天皇にも側室的なひとがいっぱいいたみたいで、側室の柳原愛子さんが産んだ子が次の大正天皇に。
天皇の息子のうち、成人できた男子が大正天皇だけだったのだって。死産や幼くしての死が多い時代だったんだな。
それからおうちに帰った。
榎津が河口部にあったという狭間川はどこを流れていたんだろうと思って調べてみた。
すると今も西除川の支流に狭間川があった。長曽根(堺市)から北上して、浅香山あたりで西除川に合流している。西除川は間もなく大和川に合流。
浅香山あたりから西の大和川は、狭間川の流路を利用しているそうだから、元は狭間川は長曾根から浅香山へ、浅香山からは今の大和川の流路あたりを流れていたんだな。
長曽根は以前に何度か散歩したことがある。ここもただものでなさを漂わせているところだった。どうしてこんな街中なのにこんな雰囲気を保っていられるのか、と不思議に思ったくらい。
地名も弥生時代の大集落「池上曽根遺跡」と同じ「曽根」がつき、近くにはスムジ曽根神社があった。曽根は物部系の曽根氏に関係する地名だとされている。
池上曽根遺跡には曽根神社があって、曽根氏の祖神だというニギハヤヒが祀られていた。曽根神社にも何度か行ったけれど、池上曽根遺跡にニギハヤヒが祀られているわけはよく分からなかった。
弥生時代、栄えていた場所に後にニギハヤヒの子孫が神社を建てただけなのかな?
その後、交野あたりを散歩して、物部系というのは、血縁関係にあるとは限らず、物部なる武の集団の一角をなす人々のことだったんじゃないかな、と思うようになった。
池上曽根遺跡は縄文人と弥生人が一緒につくった環濠集落だったと思われ、鍛冶工房なんかもあったそうだ。後にかな、近辺に二田氏が住んでいて、二田氏はニギハヤヒの仲間たち(天物部)の一部族だったそうだ。その関係でここにいたと思われるのが曽根氏。
「ながそね」と「ながすね」が似ているのも気になるところだった。
ニギハヤヒ(物部氏の祖神)の義兄だったナガスネヒコの「ナガスネ」は邑の名前だったともいう。
長曽根の近くには黒土、金岡、日置などの地名が残っていて、製鉄に関わる土地だったのじゃないか?と言われるようになってきているみたい。
さらには美原、南には狭山池があって、狭山池からは西除川(元は天野川)が流れている。
美原あたりで西に分岐して、日置~金岡~長曽根~遠里小野へと流れる流路があって、それが狭間川だったのかも??なんて思った。
むかし、美原(丹比)あたりでは製鉄が行われていた。
美原は「屈指の鉄製品の数々」が埋葬されていた黒姫山古墳(5世紀中頃)もあって、おそらくはその頃から鉄に深く関係していたところ。当地に古くからいた丹比氏が関わっていたのか、といわれている。
榎津は狭間川に勢力をもっていた一族の津で、それはもしかしたら丹比氏?
丹比氏は津守氏と同じくアメノホアカリの子孫。
津守氏の先祖(たもみのすくね)は七道あたりにいたところ、住吉大社を創建した神功皇后に呼ばれて住吉に行き、子孫代々が住吉大社の神官になった。住吉大社の神官というか、住吉津の責任者だったのかも。
七道は旧・狭間川のすぐ南。もしかすると同族の丹比氏に鉄材を送り届けていた??
そして神功皇后から住吉津も任された、とか・・・??
それならやっぱり安立の式内社を創建したのは、この一帯に住むアメノホアカリの子孫だったのかも??




