表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/46

播磨町

散歩していても、だんだん影を感じるようになっていた新型コロナだけれど、ついに緊張感がでてきた。

町内の掲示板には「イベント中止のお知らせ」がはられ、公園では老人男女が「若いもんはいいけど、わたしらはなあ」と話していた。

テレビは「オリンピックの観戦チケットが当たる!」とか「車に乗ってでかけよう!」とか、以前のままのCMが空々しかった。

「加油武漢 加油中国」の文字をときどき見た。けれど、もうそんな局面じゃなかった。対岸からエールをおくる時期はとっくに終わり、北海道には緊急事態宣言。大阪にも迫っているのはひしひしと感じた。

それから園児と学生の春休みまでの休学要請が政府から出された。

要請なのに、ええ~!?と言いつつ従う学校の多さにびっくりした。田舎の、コロナの一人もでていない県の学校さえも。

大阪市は、それより少し早く2週間の休学を開始。外はしばらく、けっこう静かだった。公園で何人か遊んでいる程度だった。けれど一週間たって、春めいてきて、ややにぎやかに。そんなに家にこもっていられないものな。


おかあさんはしばらく頭痛がつづいていた。熱も咳も出ていないものの、念のため人ごみを避けて散歩。

どうしても近場の散歩ばかりになった。普段は目を向けないようなところにも探索しに行った。

前に庭井あたりまで歩いた時、長居公園にも寄っての帰り、万代池までの間に通ったあたりがちょっと気になったのを思い出して歩きに行ったり。

万代池公園までは、東粉浜小学校のグランドの北側の、地元民しか知らないような石の階段を上って行った。

ここから見る小学校の桜が素敵なので、蕾の頃から満開の時まで時折見に行った。この日はまだ蕾も固く、まだ地味な木々の並びだった。

このあたりは土佐藩住吉陣屋があったところ。幕府から大阪湾の警護を任された土佐藩の屋敷があった。そこにいる知人を訪ねて坂本龍馬がやって来たこともある。住吉大社に泊まって、大社そばにあった新地の料亭で遊んだのだって。その料亭の跡地は、チン電沿いの今の住吉警察署あたりなんだそう。チン電の走る道は元は紀州街道。

以前は全くぴんとこなかったのだけれど、今は少しは想像できる。このあたりは海に近い台地への急な坂道。西の海側には松林や、住吉大社。どんちゃん騒ぎできる料亭が夜も明るかった。海外とは緊張状態にあり、国内も不安定な中、生きた坂本龍馬や土佐藩の人々。


小学校横の石階段を上りきったあたりから万代池まで、一番の高台を探しながら歩いてみた。

ゆるい上り道を選んで進んでいくと、帝塚山ルーテル教会の南側の道を通って、南海電車(高野線)の線路に出た。

このあたりが丘のてっぺんあたりになるのかな? 近くには住吉中学校や帝塚山学院や帝塚山古墳。

帝塚山古墳は、かつては古墳でいっぱいだったらしい上町台地の、今も現存する数少ない古墳のひとつ。かなり切り崩されて住宅密集地の中に窮屈そうに残っている前方後円墳。仁徳天皇陵より少し古いかな、くらいの時代のものだ(4世紀終わり頃?)。

海にほど近い上町台地の、小さな丘のてっぺんあたり。海を見下ろす高台は、古墳をつくるにふさわしい場所だっただろうな。

木々がそよぎ、鳥が海辺を飛んでいたのだろうな。


帝塚山古墳のそばには、もっと大きな古墳がかつてはあったらしい。それは住吉中学校あたりと聞いていたのだけれど、最近知った話では、帝塚山学院あたり。

どちらもでもおかしくないなあ。

わたしは勝手に住吉あたりは元は葛城氏のものだったんじゃないかと思っている。たとえば葛城ソツヒコの子孫だっていう玉手臣の関係の墓・・・説とかはどうかな?

このあたりは元は帝塚山じゃなく、玉手山と呼ばれていたらしい。元々玉手山とか手塚山(←玉手塚山)とか呼ばれていたのだけれど、明治天皇が住吉大社参拝の折にか、天下茶屋、住吉行宮などにも立ち寄り、陸軍の大訓練をこのあたりで見たとかで帝塚山になったのだって。

玉手山は玉手臣とはまったく無関係なのかな?

たとえば葛城ソツヒコの関係者のどなたかがここに葬られ、たとえばそれはツヌコリ一族のどなたかで、葛城さんとも関係の深かった人。後にそこに関係の深い玉手臣が住み、玉手山とか玉手島とか呼ばれるようになった・・・とか・・・。

後には大伴氏(大伴金村とか)が住んでいたのかな。雄略天皇のとき、葛城氏はほぼほぼ力を削がれ、代わりに大伴氏などを天皇が台頭させたようだから、それまでの期間だったのかも。


帝塚山駅(南海高野線)の南の踏切を渡り、帝塚山学院前を通って万代池に。

万代池の周辺には桜が植えられて、一周4キロ弱の周遊コースのある公園になっている。

公園には普通に人々がいた。そんなには暖かくなかったし、桜にも早くてそれほどの人出ではなかったけれど、小さな子のいるお母さんやジョギングする人々は普通にいた。学校が休校になっている割には、見かける学生は1組くらいだけ。

万代池公園の西側の道は熊野街道。

改めて見ると、万代池は帝塚山古墳なんかのある丘のてっぺんの東の端くらいにあった。

ここから東にはゆるい下りで、少しずつ下ってあべの筋へ。お菓子のアトリエbellのある信号を渡ってさらに進むと、ベニバスモモの木。

まだ可愛い花を満開に咲かせていた。前回、この木の北東あたりがなんだか気になった。

地名は播磨町(阿倍野区)だった。もう少し東に行けば田辺や山阪、南にはすぐ長居というところ。

播磨守に仕えた人の墓があって播磨塚と呼ばれていて、そこから地名も播磨町になったのだって。赤松円心(播磨国守護)の息子に仕えた人の墓ともいわれるそうだ。

播磨塚跡の碑が少し北の王子町にある。


途中、広い四つ辻を左折。きれいな集合住宅の間を北上すると、左手に抜け道のような細道が現れて、ここを自転車の人が多く通っていた。

わたしたちもそこを進んでみると柵のある小さな丘みたいなところにつきあたった。柵の向こうには桜が並んで植えられていて、これは小規模ではあるけれど、よく見る「桜の植えられた水道施設」ではないかな?

右手に進むとお寺があった。西園寺(真宗本願寺派)だって。

そして水道施設は住吉配水場。住宅密集地に隠れているみたいにあった。

ここは・・・なんだろう? 元はなにがあったんだろう?と気になる空気感だった。

阿倍野界隈を含め上町台地一帯は、応仁の乱やらで戦場になって荒れに荒れたところで、古いことはほぼほぼ分からなくなっているみたい。

結局、気になる空気感の理由は分からなかったけれど、近くに配水場があるなんて知らなかったなあ、と思いつつおうちに帰った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ