表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
32/46

細江川跡を遡る1

前に宇治川に行ったとき、川沿いの平たい建物が観光用の船乗り場だった。それを見て、地元の住吉大社の南を流れる細江川、あの川沿いにも平たい建物があったな、と思った。元は何だったんだろう?

もしかしたら、あれも観光用の船乗り場だったとか??

全く違っているかもしれないけれど、ちょっと気になって細江川へ。ルートも気になった。今ではほぼ消滅していて、どこを流れていたのかよく分からないけれど、細江川あたりが住吉津の時代の湾港だったそうだ。細江川をさかのぼって物資を運ぶとかもしていたのかな。ちなみに一寸法師は、安立で買った針を刀代わりに、お椀で細江川をさかのぼって京に向かったそうだ。

川筋って、地図で見ると、道とかになって残っていて、どこを流れていたか、だいたい分かったりするのだって。わたしもちょっとくらいは地図から川筋を読めるようになったかも?

それで読んでみたのが、細井川駅(阪堺線)~沢ノ町駅(南海高野線)~住吉区役所~我孫子町駅(JR阪和線)~あびこ観音~あびこ駅(地下鉄御堂筋線)~大依羅神社というルートだった。

後で知ったことには、確かに細江川の源流は、大依羅神社あたりと長居公園あたりだったのだって。大依羅神社のあたりにはヨサミ池が、長居公園のあたりにはナガイ池があったそうだから、そういった池を水源としていたのかな。


住吉公園にまずは向かった。かつては住吉大社の松林とかだったところ。このあたりに古代、住吉津があったのだろうな。

2月の半ばを過ぎて、公園には河津桜が少しだけ咲いて、きれいだった。

2年前の台風で、住吉公園もすごくたくさんの木がなくなった。ソメイヨシノもほぼほぼ撤去されてしまって、その跡にはまだ若くて小さなソメイヨシノの他に、まだ若くて小さな河津桜も植えられたみたい。

木々の茂みが少ない分、空も広くて、さびしくなっているけれど、そのうちまた生い茂るようになるのかな。

グラウンドでは、グラウンドゴルフをしていた。いつもはもっと人でいっぱいのように思うのだけれど、おじいさんおばあさんが少ないようなのも、新型肺炎の影響でかな。

未就学児を対象にしたイベントのポスターに「中止」と大きく書かれていたりした。

公園を、南にある江川橋を渡って出ていった。渡った川が細江川。その名の通り細い川。

江戸時代、細江川の南側は色街で、住吉大社から色街(住吉新地)に直に行けるように、江川さんって御仁が自費でかけたのが江川橋だそう。

ここから細江川沿いを東に進んでいった。

橋が次々現れた。まずは長峡ながお橋。住吉大社は神功皇后が住吉三神を「長峡」に祀ったとされていて、当時ラグーンだったあたりが今の長峡町になったとされている。

神功皇后が住吉三神を祀った長峡は実はここではなく、神戸の住吉神社あたりだという説もある。

次は岸辺橋。それから御祓橋。

ここは紀州街道でもある。御祓橋を北に行けば、住吉大社の一の鳥居。周辺はすっかり市街地なので、チン電の停留所や南海本線の駅(住吉大社駅)、税務署や警察署や銀行などなどもある。けれど住吉大社とチン電の効果か、下町情緒も残る気もする一帯。

もう少し川沿いを進むと、右手に小さな細井川(細江川の別名)駅。チン電こと阪堺電車の地味な駅。

この北は住吉大社で、細江川と住吉大社との間は古い長屋なども多くて、迷路みたいなところだった。ところが新築のおうちが増えているのが見えた。

川を新墨江橋(住吉は墨江とも書かれて、どちらもかつては読みは「すみのえ」)で渡って、ちょっとそのあたりを歩いてみた。新しいおうちがいっぱいで、迷路な感じもなくなっていた。

丸山大明神が小さな一角に祀られていて、ここは住吉すみのえ仲皇子が葬られたとか伝えられるところ。


住吉仲皇子は、仁徳天皇と皇后の葛城磐之姫(葛城ソツヒコの娘)との間の子でありながら、反乱を起こして殺された人だ。

母はもう山背で亡くなっていて、父の新しい奥さんはウジノワキイラツコ(仁徳天皇の異母弟)の妹。

父(仁徳天皇)も亡くなると、住吉仲皇子は兄を焼き殺そうとした。兄(後の履中天皇)は石上神宮に逃げた。弟(後の反正天皇)は住吉仲皇子の部下に住吉仲皇子を殺させた。

そして住吉仲皇子の死体は投げ捨てられていたのだって。それを、だれかがこっそり葬ったとか、葬っていないとか。

新墨江橋を戻り、細江川沿い(南)の続きを東へ。

細江川をさかのぼると、この先、住吉大社の南端や浅沢社なんかのそばを通る。浅沢社は、住吉大社の末社の弁天さん。かつてこのあたりはカキツバタの名所だったそうで、今も少しだけカキツバタの育つ池がある。細江川をはさんで隣には「おもかる石」のある大歳社(ここも住吉大社の末社)。

このあたりに新地があったことを思うと、カキツバタの名所や弁天さんは、あるあるのようにも思う。

それから長居公園方面に向かい、途中で消える。

細江川の源流の1つが今の長居公園あたりだったそうだから、その川筋が残っているのかな。今回歩こうとしているのは、もう1つの源流、庭井あたりから流れていたという消えた川筋になるのかな。


新墨江橋あたりで、歩いていた川沿い(南)の道は川から離れていってしまう。この道を、庭井のほうから流れてくる川筋あたりと見た。

そちらに進んでいくと、かつては商店街だったとみえて、閉店しているスーパー(フレッシュにしおか)や、昔ながらのタバコ屋があった。昔ながらだけど、ペイペイ使えますと書いてある。

ここは何度か歩いたことがある。レトロでおしゃれな建築のおうちもあるし、どうしてこんなちょっと辺鄙なところに?と思っていた。

阪堺線の駅(細井川駅)があるからかな。今ではあまり存在感のない駅だけれど、歴史は古い。明治44年にできた駅らしく、当時は栄えていたのかも。

ぼろぼろのアパートとかもあって、ボロ好きなわたしとしては、歩いていて面白かった。壁がはがれ落ちて、中の木の枠組みが見えている。大阪市ではそんなのも珍しくないのだ。


つきあたりに古い道標が現れて、「左あびこ観世音」とあった。

このすぐ左手に子安地蔵寺。

境内はむちゃくちゃ狭くて、無人っぽかった。地蔵堂と、寺務所みたいな建物があった。住吉大社にある「五大力」がここにもあった。

ここの本尊が、平安時代(10~11C)の仏像らしい。大阪市指定の文化財。奥の方にいて見えにくかったけれど、きれいな状態だった。お寺には他にも五大力菩薩像なども秘蔵しているのだって。

今まで遠くの町の目立たない片隅で、「平安時代の仏像」「鎌倉時代の地蔵」なんかを見て驚いてきたのだけれど、こんな近くにもいらっしゃったんだな。

前にも来たことはあったけれど、まだ平安時代の意味もあまり分かっていないような頃だった。お寺自体はそんなに昔の建立ではないから、どこか廃寺になったお寺の仏像だったと思われるそうだ。


ここを北上すればすぐ大歳社、細江川を渡って浅沢社、住吉大社(南東端あたり)。

ほんの狭いところにいろいろあって、面白いところだなあ。

地蔵寺から大歳社に向かって少しだけ行ったところに東に向かう道があって、今ならば絶対にそちらの道を選んでいた。けれどこの頃はまだまだ未熟者だったんだな、地蔵寺から南下してすぐの長居公園通(雄略天皇の頃にあったシハツ道が通っていたあたり)に出て左折。

今まで気にしたことがなかったけれど、長居公園通に向かっては上り道で、東に向かう道は下り道だった。このあたりはちょっとした丘だったところなのかな。丘を回避して川は流れていただろうから、川筋は地蔵寺あたりから東に向かい、もっと東(南海高野線手前あたり)で南に向きを変えていたのかもしれない・・・と思いつつ、長居公園通を東に進むと、すぐの信号で右折。ここは住吉大社の東側から続く熊野街道で、ここを南下。

左手に墨江小学校が現れて、津守廃寺についての説明書きがある。ここは津守寺の跡地で、津守寺は古代にあった津守廃寺の後身だったと考えられている。

津守廃寺は津守さんが関係しているのだろう、白鳳時代頃のお寺。津守さんは住吉大社の歴代の神主さんの家系で、神功皇后の時からの「津の守り手」。七道にいたアメノホアカリの末裔で、神功皇后が住吉大社を創建した時に神主となり、古墳時代、白鳳時代・・・とずっと存続し、明治維新では男爵となった。

この西には住吉行宮跡もあって、天皇家とも深いつながりをもっていた津守さんが、南北朝時代、南朝の後村上天皇(後醍醐天皇の息子)に自宅を提供して、仮の宮としていたってところ。

後村上天皇はそこで亡くなり、息子の長慶天皇はそこで即位した。南朝の有名な面々も訪れたのだろうところ。

住吉大社の少なくとも南側の一帯は、津守寺もあり、屋敷もあり、津守さんの庭だったのだろうな。

戦国の世に、南朝の行宮が攻め放題ではどうにもならないから、環濠で守られていたのかな。西は海、北には細江川、東にもきっと細江川、南には環濠を掘っていたのかな。そこから出て行くところが出口地蔵のいるところなのかも。

南北朝時代には周辺には寺社がいっぱいで、そこに僧兵とかもいっぱいいて、がっちり守られていたのだろうな。


右手に高校、それから中学校。左手に住吉大黒天こと松宝寺。日蓮がつくったという大黒天があるのだって。今ではすっかり住宅地になっている。それから右手になかなか古そうな願生寺。

右手(西)には下り坂だった。かつてはすぐそばにあった海辺に向かう道だったのかな。

この四辻で左折。すぐ南海高野線の沢ノ町駅。南海高野線は市内でもまだほぼ地上を走っていて、踏切が多い。ここにも踏切があり、踏切を渡る前に右折。南下していった。この道が、今なら歩いていただろう道の続き。

途中、人ひとりにちょうどいいくらいの道幅になった。古そうな旧家に年季の入った看板が今もかかっていた。「ドラゴンミシン」だって。

道が右手にカーブして、歓喜地蔵尊がいた。どうして歓喜地蔵というのかとかは、なにも分からなかったけれど、大事にされている感じは伝わってきた。ここで踏切(南海高野線)を渡った。


沢ノ町駅から歓喜地蔵尊までの間、線路の向こうには止止呂支比売とどろきひめ命神社。

祭神はスサノオとその妻、クシナダヒメ。詳細は不明で、トドロキヒメという名の由来などもなにも分かっていないみたい。クシナダヒメの別名だとか、ここを川が轟きながら流れていたからだとか。

神功皇后が創建したとかいう話もあるらしかった。

ここにかつて小川が流れていたらしい。それが細江川だったのかも?

鎌倉時代には後鳥羽上皇の行宮だったことがあって、それも津守氏の関係でらしいから、このあたりもみんな津守さんの庭だったのだろうな。熊野詣に行く後鳥羽さんのために、神社の竹林に御所をつくったそう。

28回も熊野詣に行ったという後鳥羽上皇。ここに行宮を建てたというのは1220年のことだそうで、その翌年、後鳥羽上皇は承久の乱を起こしている。天皇家が鎌倉幕府(実権を握っていた北条氏)を倒そうとした最初の戦い・・・になるのかな?

後に鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇と同じように、下準備はいろいろしていたのだろうし、熊野詣もただの参拝ではなかったのかも。

神社から住吉区役所~我孫子町駅(JR阪和線)と細江川の川筋があったのじゃないかと、次は住吉区役所方面を目指していった。

神社の東のあべの筋を渡って、もう少し東に住吉区役所と沢之町公園。沢之町というからには、このあたりを沢が流れていたのかな。今は全くそんな気配もない住宅街だけれど。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ