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今川と桑津

そのまま西に進むと内環状線だった。南に地下鉄平野駅。

天王寺駅から帰るべく、内環状線を渡り、さらに西へ。このあたりは初めて歩くところだった。

昭和の時代に都市化した感じの、比較的新しい土地のようだった。309号線を越えて、右手に平野白鷺公園。左手には天理教教会。どうして白鷺というのかな。

JAがあって、農園があった。元は田畑だらけだったのだろうな、と思ったら、このあたりはやっぱり低地で田んぼが一面に広がり、カエルが鳴き、いろんな生き物が生息するところだったのだって。白鷺もやって来ていたから「白鷺」。

今里筋線に出たけれど信号がなくて、少し北の白鷺公園前交差点で信号を渡り、西へ。

育英橋なる橋のかかる小さな川を渡った。この先には、すぐにまた小さな川(今川)を渡る清水橋。その2つの小川にはさまれた小さな中州のようなところだった。左手は今川公園。小さな墓地(今川霊園)や、「鳴戸川改修」の碑があった。

鳴戸川なんて初めて聞いたような。育英橋で渡った小川が鳴戸川。

今川は昔からある川だそうだ。南から北へと流れて、もう少し西を流れる駒川と一緒になって平野川に合流していく。

鳴戸川は東から流れてきて、今川の手前で北に向かい、今川と平行に流れていた灌漑用の川だって。今の姿を見ると、わざわざ平行に流さなくてもいいように思えた。けれどかつては今川はもっと大きな川で、灌漑用水路が別に必要だったとかかな。

鳴戸川は昭和36年頃に改修されて、東からの川筋はなくなり、このあたりにだけ今川から派生する川と姿を変えて残っているみたい。それまでは農地ばかりだったのが住宅地になっていく中で、灌漑用水路も消えていったんだな。

田辺大根、勝間南京、難波ねぎ、天王寺蕪、毛馬胡瓜、今の大阪市って、江戸時代には大部分が野菜の名産地だったようなところ。天満あたりだけが都会で、そこを離れたら、梅田や難波も片田舎。まだ電車もなくて、みんな自分の職場の近くの長屋に住んでいたような時代。

職場は都会に集中していて、長屋もそこに集中していたんだな。徒歩圏外は人口密度も低くて、田んぼや、灌漑のための川や池だらけだったのだろうな。


今では長居公園通あたりから流れはじめる今川だけれど、かつては狭山池のほうから流れていたみたい。

大和川がこの南にできるまでは、西除川とくっついたり離れたりしながら北上し、駒川も一緒になって平野川に注いでいたのかな。

わたしは勝手に、天野山から流れる天野川が狭山池に注ぎ、狭山池からは西除川が北上してよさみ池に注ぎ、よさみ池から細江川や今川、駒川なんかが流れていたのじゃないかな、とか思っている。

狭山池やよさみ池でつながる灌漑施設づくりは、10代崇神天皇やその周囲の有力者たちに始まったのだろうな、と思っている。

崇神天皇はよさみ池を造るために桑間宮に住んでいたそうで、駒川は桑間川から変化したんじゃないかとか妄想している。


今川にかかる清水橋は渡らず、今川沿い(東岸)の遊歩道を北上していった。

すぐの信号を渡ると、川沿いはうるし堤公園になっていた。

江戸時代、漆器の原料であるうるしの栽培が推奨されていて、今川や鳴戸川の堤にもうるしが植えられていたのだって。それでうるし堤。

日本と漆は深い関係みたい。英語では漆を「JAPAN」というそうだ。日本のうるしは漆器に適していて、最高級品。漆器は室町時代の頃、日本の主要な輸出品の1つだったそう。他には鉱物(金とか銅とか)や刀など。

そして世界で見つかっている中で最古の漆製品は、縄文時代が始まったばかりの頃の日本のもの。日本なんて小さな島国では文明もたいしたことなくて、なんでも大陸の真似をしただけだろうと思われていたそうだ。でも漆ひとつ見ても、世界最古。真似なんかじゃなく、日本発祥のノウハウで行われていたそうだ。うるしも育てて。

思うに、最果ての地の日本にまでやって来て住んだような人々は、やっぱり探求心がすごかったのじゃないかな。そしていろいろ探求する間に、いろんなことを克服し、知恵も得ていったのじゃないかな。

うるし堤だったところには今では桜が植えられていて、今川東岸は大阪でも有数の花見スポットになっているらしかった。確かにほぼずうっと川沿いには桜が植えられていた。

「平野土地区画整理組合」の碑があり、それによると昭和53年、391ヘクタールの土地が田畑から住宅地に変えられたらしかった。391ヘクタールは3.91㎦。1km×4kmくらいの範囲ね。


川沿いはずっと桜の植えられた遊歩道になっていて、ところどころでは公園になっていた。

今度はつくし公園が現れて、ここも、桜の季節には素敵だろうなあってところ。

空腹で、この近くに見つけたパン屋さんでパンをゲット。ベンチで休憩していただいた。散歩しているとときどき出会う、福祉系のパン屋さんだった。

この少し西あたりに北田辺駅(近鉄南大阪線)。駅との間には駒川が流れていて、この北のほうで今川と合流するみたい。合流地点あたりの地名は桑津。

つくし公園から北に車道(松虫通)を渡ると、ここにも公園が続いていて、今川に鳴戸川が合流。今川沿いを歩ける道がなくなった。

水門橋で公園を東から出て北上すると、すぐまた今川東岸の遊歩道へ。

堤の下の川べりの道で、大阪の市街地でこんな川のすぐ横を歩けると思っていなかったし、なんだか楽しかった。川になにか流れていくのが見えて、目を凝らしたら猫の死体だった。

散歩していると、猫と鳥の死体はときどき目にした。都会の中でも生と死が繰り返されているんだな。

市街地とあって、上には何度も橋が現れた。育和橋、北育和橋(高さ1.5mしかない)、撫子橋。

このあたりで、上の道路沿いに、古い煙突のある古い建物があった。牛舎みたいだな、と思ったら、泉養鶏場とあった。大阪市内でも養鶏所の文字を今もときどき目にする。もう閉まっているけれど。

杭全2号橋、はぜ橋。

川はもう少し北で駒川と合流し、すぐに平野川に合流し、生野や玉造の東を森之宮へと進み、(そこでかつては猫間川とも合流し、)大阪城の東を北上して、寝屋川に注ぐ。

川べりの遊歩道はまだ続いていたけれど、ここで上に上がり、櫨橋を渡った。

そのまま少しだけ西に進み、最初の信号を少し南下すると東住吉中学校。中学校の校庭で、1万年前くらい前(旧石器時代から縄文時代への移行期だって)の石器が見つかっているらしい。槍の先端につけられていたと思われるもの。

どんなところか気になっていたので、足を伸ばしてみた。

中学校のグラウンドでは生徒たちが授業でドッジボールをしていた。大昔の人が動物を追って走っていた、そこで行われるドッジボール。


中学校の北側の道を西へ。細い道に幼稚園があり、ピアノの演奏に合わせて園児たちが歌を歌っていた。ピアノが上手で、つい聞き耳をたてた。

細い川を南口橋で渡った。これが駒川。そして駒川の向こうは桑津小学校だった。

「桑津遺跡」の碑のあるところ。このあたりは縄文時代初めの頃からの大きな遺跡のただなかで、そばの中学校で古い石器が見つかっていても当然の話だった。

ここには前にもやって来ていたけれど、その頃はあまり分かっていなかった。住宅街の中、少し丘になったところに現れた「桑津遺跡」の碑が唐突に思われたのを覚えている。

今は、さもありなんって思うなあ。

このあたりは上町台地の南東端あたり。縄文時代前期には、今の大阪湾は、生駒山まで続く広い河内湾だった。ここは、そこに半島のように存在していた上町台地の付け根あたり。台地の東の海岸線は、大阪城あたりからこのあたりを、それから平野を通って、東大阪の方(十三街道あたり)に続いていたのかな。

それで縄文の人々の足跡が、森之宮(上町台地の北端)~桑津(同南端)~長原と残っているのかな。


駒川沿いを北上して、すぐの信号を渡った。今川の櫨橋から続く美章園街道。駒川沿いも捨てがたかったけれど、一本西側の道を北上。旧道風で、住宅密集地だけれど、田舎だった感じが残っていた。

右手にはゆるい下りで、左には上り(上町台地)。途中、左手の細道へ。なんだか空気が、古さを物語っているようだった。

西に進むと、桑津公園。何度かやって来たところで、いつものように、ベンチで囲碁だか将棋だかに興じるおじいさんたち。

公園の北には桑津天神社。このあたりが丘だったのを、歩いてきて分かった。

桑津は仁徳天皇の妃の髪長姫が住んだところ。病気になったとき、スクナヒコナを勧請して祈ると治ったのだって。それが今の桑津天神社。

神社の南側の道を西へ。この日もよく声をかけられたな。生野や鶴橋の界隈ではよく声をかけられる。「散歩か~」とか「かわいいねえ」とか。

けっこうすぐに近鉄(南大阪線)の線路にたどり着き、線路沿いを進んだ。

このあたりは都会とはいえ古い面白い建物がまだいっぱい残っている。大昌とある古そうなレンガ塀、ぼろぼろのアパートや長屋。

河堀口こぼれぐち駅を過ぎ、JRの高架と交差する複雑なところでは、どちらの高架下も通らずに、レトロなトンネルの手前を右折して進んでいった。

高松西交差点で25号線に出て、大通り(25号線)の向こうには覚えのある八反田地蔵。東西に走る25号線は竜田越奈良街道歩きで、南北の道は難波大道や猫間川をたどって歩いてみたところ。八反田地蔵のある高松あたりには池があって、ここから猫間川が流れ、大阪城あたりで平野川に合流していたのだって。

河堀は、桓武天皇のときの摂津大夫(摂津国長官)だった和気清麻呂がこのあたりで河川の改修を手がけ(788年)、掘り始めたところといわれている。

それで「河堀」なのだって。元々「こぼれ」という地名で、それに「河堀」の字をあてたのだとか。

当時、上町台地の東はかつて河内湾だった名残りの低地で、川の氾濫なんかも頻発していた。水を海に流したくても、上町台地が堰みたいになっていたんだな。

そこで上町台地に溝を掘り、そこから水を流そうとした。当時、大和川の本流は長瀬川や平野川で、掘った溝で平野川を大阪湾に流そうとしていたと考えられるそうだ。けれど地面が硬すぎたか、掘れなくて断念。

かつて仁徳天皇の時にも、大阪の水抜きのために溝をほっていて、それが難波の堀江だそうだ。難波の堀江は上町台地の北側にあたり、砂洲だったから掘れたのかな。ここは上町台地そのもので、重機なしでは無理だったのかな。

25号線を西に向かった。前方にはハルカスがときどき見えた。このあたりもまだ面白いぼろ屋が多い。

現れたコーナンでたい焼きをゲット。コロナは上陸していたけれど、まだ普通に人がいて、ベンチにはおじいさんたちがいっぱい座っていた。

あびこ筋を過ぎ、急に都会になってきた。大阪教育付属天王寺小学校があった。散歩のスタート地点には、教育大付属平野小学校があったな。

このあたりで、レンタサイクルのポートを始めて見た。乗り捨て自由で、150円。といっても、ポートに返す必要があり、150円は最初の30分に対してだけ。NPO法人がやっていて、収益はホームレスの人たちの就職支援に使われるのだって。

あとはてくてく行けば天王寺駅で、地下鉄に乗っておうちに帰った。

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