平野と天誅組
杭全神社の鳥居をくぐって北に向かうと、右手に金光教の教会と駐車場があって、左手には小さな宇賀神社と小学校、筆塚。
宇賀神社は弁才天的な神社で、前に来た時と違って、なんだかきれいになっていた。小さな神田みたいなのもつくられていた。
それから右手、少し高くなった位置に小さな公園。桜が多く植えられていて、あたたかな2月だったこの日、小さな子どもとお母さんがけっこういた。
左手に満願寺。かつて神社と寺が一緒になっていた時代、杭全神社の広大だった境内にはお寺もたくさんあったのだって。そのうちの1つが満願寺だったそう。
「天誅組中山忠伊終焉の地」とあった。ここにその人の墓地があったらしい。
なんでも光格天皇(明治天皇のひいおじいちゃん)の皇子が中山家に養子に入り、天誅組として討幕運動を行っていたのだって。それが中山忠伊。そして平野で亡くなった。
皇子云々は言い伝えで、真偽は不明らしい。けれど中山忠伊なる中山家の養子が平野で亡くなったのは事実で、平野の坂本家で自決したのだとか・・・。
中山家は藤原氏の支流で、明治天皇を産んだ女性(中山慶子)の一族だそうだ。
宝塚の中山寺は、明治天皇となる人の生母の安産祈願もなされたという話だったけれど、それが中山慶子さんだったんだな。中山忠伊は中山慶子さんのおじいちゃんが養子にした皇子だということになっているらしい。
天誅組は江戸時代末期、尊王攘夷を急進的に進めた暗殺集団のようなもの。五條で挙兵するも、まだ力のあった幕府によって壊滅させられた(天誅組の変)。
散歩していて天誅組の名を聞いたことは何度かあった。天誅組の記録係をしていた伴林光平さん(刑死)の生誕地や、天誅組の変で五條に向かう前に休憩した旅籠、油屋、密談したという水郡邸。
その天誅組のリーダーは中山慶子さんの弟(中山忠光)で、主要メンバーもまた、中山家の人たちだったそうだ。
この中山忠伊さんらが中山忠光をリーダーに天誅組をつくらせた感じみたい。
1852年 中山慶子さん後の明治天皇出産
1863年 天誅組の変
1864年2月 中山忠伊さん平野で自決
1864年11月 中山忠光さん暗殺される(19歳)
満願寺と杭全神社の間の細い道は、JR平野駅からの抜け道になっていると見えて、自転車や人がけっこう通っていた。
神社の境内に入ってすぐ左手に巨楠。右手の高くなったところには「平野環濠跡」とあった。水路が金網の向こうに見えていて、元はここからも神社に出入りできたのだろうな。住宅密集地に環濠跡が残っているなんてすごい。
神社には一服できるベンチもあった。いろんな神社が合祀されていて、人もときどき通って、フレンドリーな感じがある。
本殿は3つ横に並んでいた。
第一殿 862年創建で、祭神は牛頭天王。広野さんの息子が祇園社として勧請した。
第三殿 1190年創建。
第二殿 1321年、後醍醐天皇の勅命で創建され、祭神は熊野三所権現。
今残る社殿は、元禄時代のものと、2つは室町時代のものだって。
住吉区の平安時代の仏像と言い、大阪市内にもけっこう古いものが残っているんだな。
1321年は後醍醐天皇が親政を最初に始めた年(建武の親政の前)。そして杭全神社からすぐの大念仏寺を総本山とする融通念仏宗が石清水八幡の協力で再興された年。
再興したのは、深江の法明さん。淳和天皇(桓武天皇の息子)に仕えた右大臣、清原某さんの末裔で、京都御所の護衛をしていた人。妻は枚岡神社の神職の娘。
法明さんは丹南の来迎寺をたてなおし、若江の法明寺、河内長野(錦織)の極楽寺、河南(石川)の大念寺、高安の高安寺、久安寺の良明寺を次々とひらいたのだって。晩年は引退して喜連の法明寺に住んだそうだ。
そうして後醍醐天皇(南朝)を手助けしていたのかな??
新しく知ったことには、喜連には北畠顕家(南朝)が陣をおいていた(喜連城)そうだ。
そうして楠木正成(南朝)が戦死した時には、首実検のため、法明さんが呼ばれたそうだ。法明さんが南朝に深く関係していたのは確かだな。
後には瓜破に、楠木正成の三男、正儀が住んでいたこともあったそう。正儀さんは北朝側についていたこともあって、その時、大阪一帯の守護となり、瓜破に城を築いて住んでいたのだって。前に行った瓜破霊園の北あたり。
杭全神社を南の鳥居から出ると、25号線を渡ってそのまま南下。
すぐつきあたって、目の前には和菓子屋さん。古そうな建物だけれど、生チョコ大福とかもあるみたい。
広さのわりに、平野郷には和菓子屋さんが多い。堺と同じで中世、栄えた町だというのを物語っている感じがする。
ここに「右大坂」とか刻まれた道標がある。
左手には薄茶にカラー舗装された道(すぐつきあたって南下し、全興寺の方に向かう)、右手には歴史の散歩道の舗装(旧型)の道が続いている。
歴史の散歩道(旧型)のほうに進んでいった。道が2つに分かれ、左へ。道が3つに分かれ、歴史の散歩道は一番右手の道に進んでいたけれど、まっすぐ進んでみた。一瞬だけだけれど、昔のままのような路地だった。
大念仏寺の南の道に出て、ここにも歴史の散歩道の舗装が続いていた。
それから小馬場口地蔵。
平野郷からの出入り口の1つ。田辺や、平野郷の散郷だった今在家(今川)や新在家(杭全)方面につながっていたのだって。
「散郷」「今在家」「新在家」って、いまいちつかめない言葉。「今在家」「新在家」ってよくセットできく。多分なんだけれど、メインとなる、庄屋のいるような本郷があって、そこから派生した郷(散郷)、新しい農地やそこに住む人々の集落、または農業を主としない職業の人たちの住む集落(納税の単位)を「今在家」「新在家」と名づけるのがパターンだった、って感じ?




