京街道を牧野から
道なりに進むと、牧野駅(京阪本線)そばで踏切を渡り、線路沿いを北上。
西側には13号線が走っていて、途中13号線沿いのパン屋さん(メルシーベーカリー)でパンをゲット。
また戻って歩いた線路沿いは、古くは商店街だった感じがした。13号線のできる前、メインストリートだったのだろうな。
途中、下を車道が走っていた。とうかえでの道という道路かな。
右折して線路を渡る道(船橋川北踏切)と、やや左寄りに線路から離れていく道に分かれて、左手へ。
道が上りになって、船橋川の堤に出た。
手前には「八幡」とある地蔵だったか石だったかがあった。川向こうに道が続いているけれど橋がなく、左手の13号線の橋で川を渡った。西側に山々がきれいだった。
川を渡ると土手を歩いて、さっきの道の続きへ。地名は樋之上町で、古い集落の感じだった。すぐに13号線に合流(樋之上交差点)して、13号線を北上。
13号線が上り坂になり、左手は大規模工事中。新名神の橋脚の部分をつくっているところだった。そこは広い河川敷。見えないけれど、淀川が流れているみたい。河川敷を含む広い平野の向こうには山々が見えた。河川敷はゴルフ場になっていて、ゴルフカートが小さく幾台か動いていた。
ゴルフ場の一番南端で高速の工事が行われている感じなのかな。新名神がゴルフ場の上を走ることになり、ゴルフ場はリニューアル工事をして、再開して間がないようだった。
こんな風光明媚なところに、大きな赤白の鉄塔が山に向かって何本も立ち、赤白の大きなクレーンが並んで工事をし、その横のグリーンではゴルフカートがちょこまか動いていた。変な光景だった。
右手にはビルや樟葉駅、くずはモールが見えた。ここだけがぽっかりと都会だった。
駅の横を過ぎると、13号線の車道はそのまま北に直進していった。その先には、広々とした平野の向こうに色づいた山々が見えて、素敵だった。
歩行者はそちらには進めず、右手に分岐していく道に進むようになっていた。電車の高架の下をくぐり、そこで信号を渡るようになっていた。
信号を渡ると、13号線には戻らずにそのまま北上。
旧道っぽい道だった。そのまま北上していくと、右折する道にカラー舗装がされていて、そちらに。すぐに左にカーブして、道は北に。
このあたりを東に数百mで交野天神社だったようだった。境内社に貴船神社があって、そこに継体天皇が即位したという樟葉宮があったと伝わるそうだ。
けれど知らずにいてスルー。
後には桓武天皇が、父(光仁天皇)をここに祀ったのだって。787年、長岡京の時代。
このあたりも当時は交野だったのかな。交野に実家があったという母に縁の土地だったのかも。
継体天皇がここで即位したのも、親戚もいたからだったのかな。継体天皇のひいおじいちゃん(応神天皇の孫)の同母妹(田宮姫)は、伊加賀あたりに住んでいたのだって。親戚がいてもおかしくない。
人通りは余りなくて、すっきりとした広い道だった。
長福寺(浄土宗)への古そうな参道があり、光明院(浄土宗)があった。古そうな家もあったけれど、なんだかすっきりしていて、不思議な道だったな。
後で知ったことには、京街道とあって古いところだったけれど、鳥羽・伏見の戦いでほぼ焼失してしまったのだって。
桓武天皇の頃には藤原継縄なる人がこの近く(南樟葉)に住んでいたそうだ。父は藤原氏、母は百済王敬福の孫だそう。百済王敬福は、聖武天皇のとき、任地の陸奥で大量の金を発見。奈良の大仏づくりに必要な金が調達できたとあって出世したという人。
途中、フェンスで行き止まりになった。「マムシ注意」とか書かれていた。
ここを右折。久親恩寺なるお寺があった。建物は新しかったけれど、古くからある感じ。創建などは不詳で、ここも鳥羽・伏見の戦いで燃えてしまったみたい。
じぐざぐ北向きに進むと、広い空き地にでた。空き地というか、史跡らしかった。樟葉砲台場跡だって。
台場って、幕末に外国船を撃退するために築かれた、砲台をもつ要塞のことだそうだ。東京の「お台場」も台場があったところ。
尊王攘夷派の志士たちが京に入るのを防ぐ関所の意味もあったそうだ。淀川の対岸の島本町にもつくって(高浜砲台)、関門も設けた(山崎関門)のだって。
設計の総責任者は勝海舟。
京街道も新しくつくりかえられたらしい。
けれど歴史の流れはせき止められず、鳥羽・伏見の戦い勃発(1868年1月3日)。
1867年、江戸時代が終わった。世界と肩を並べる国になるべく、今までの江戸幕府による古い政治は終わりにして、新しい政治がスタートするはずだった。でもずるずると旧体制がそのまま残りそうだったのだって。それを不満に思う京の新政府軍(薩摩藩、長州藩など)と、大阪城に退いていた旧幕府軍(with 会津藩など)が鳥羽・伏見で衝突。鳥羽には主に薩摩藩が、伏見には主に長州藩がつけていたのだって。
旧幕府軍が3倍くらいの兵力だったみたい。でも淀藩が寝返り、高浜砲台を守っていた津藩も寝返って、樟葉砲台を爆撃(1月6日)。
びっくりしただろうな。樟葉砲台も反撃したけれど、あえなく敗走したそうだ(橋本の戦い)。
川の両岸から守っていたのはよかったけれど、こういうことにもなっちゃうんだな。
その後、旧幕府軍と新政府軍との戦い(戊辰戦争)は翌年の5月まで続いたそう。
広場の向こうには、いきなり新しい家々が建ち並んでいた。新しく開発されたようで、大きなスーパー(マツモト)もあった。屋上にも駐車場があって、広そうだった。車道からの出入り口にはガードマンさんも立っていた。けれどそんなには客足があるようには思われず・・・。
北には駅(京阪本線橋本駅)があり、古い集落もあるようで、そこに家々が増えてきている感じだった。
増えた新しい家々に隠れて分からなかったけれど、この砲台跡とスーパーとの間に久修園院があったみたい。
725年、行基が交野郡一条に建立したそうだ。大寺院だったけれど大阪夏の陣で焼け、江戸時代に宗覚なる人が再興したのだって。宗覚さんは多才な人で、手製の天球儀と地球儀が残っているそうだ。
こんなところで大阪夏の陣?と思ったら、大敗した大阪側の兵士がここまで逃げて、火を放って自殺したのだって・・・。
スーパーを過ぎると、広い交差点(信号はまだ無かった橋本駅南交差点)で、最近新しく造られた道路の感じだった。
京街道は交差点の左手(北)にあるようで、交差点を左折。新しく広い道は、線路(京阪本線)の上を通り、小さな川(大谷川)を越えて、13号線につきあたった。
13号線と線路の間、下に見えている道路が京街道のようだった。けれど降りていけるところがなかった。13号線を少し南に戻れば(楠葉中之芝2丁目交差点で)その道とつながっているようだったけれど、13号線は歩道もなくて、危なっかしくて歩けたものではなかった。
本当は久親恩寺の手前で西の13号線に進み、楠葉中之芝2丁目交差点で分岐する道に進めばよかったみたい。
けれど知らない土地、道が新設していっているところでよく分からなくて、橋本南交差点まで戻って、他に選択肢はなくて東へ。このあたりに西遊寺焼野霊園があった。
道はカーブして北の橋本駅(京阪本線)へ。
このあたりで大阪府から京都府(八幡市)に入った。西に流れる淀川は、京都では宇治川。このあたりで桂川と木津川と宇治川が合流するみたい。
橋本駅方向に歩いて行くと、新しく開設された感じの青空駐車場や駐輪場なんかがあった。一部の駐輪場には「使えなくなります」と案内がされていた。駅周辺が開発されている途中なのだろうな。
橋本駅の手前、四区公会堂なるレトロな建物の横を通って線路の向こうに行けた。つきあたるのが京街道で、ここを右折。
駅前には行かなかったので気づかなかったけれど、橋本駅前に西遊寺があったみたい。小田原城主の北条某の息子の創建で、隣には常徳寺なる寺がかつてあったそう。秀吉さんも訪れて、茶を所望したことがあるのだって。けれど湯ばかり出されて「湯沢山茶久蓮寺」とも呼ばれたのだって。本当かな?
古くは行基や法然にもゆかりの深い橋本寺もあったそうだ。
それから進んでいった道に沿って、意向を凝らした古い2階建て住居が多く建ち並んでいて、なんだか妙だなと思ったら、ここは遊郭跡だった。
遊郭の古い建物の横に新築のおうちが建っていたりして、ここも変わっていく過渡期なのだろうな。
すっかり変わる前に来られてよかったな。
橋本は宿場町として栄えたそうだ。宇治川と山(男山)にはさまれた小さな宿場町で、街道沿いに遊郭が軒を並べていたそうだ。
平安時代までは対岸の山崎との間に橋がかけられていて、それで地名が橋本。橋は何度か流されて、渡しになり、もうかけられなかった。
鳥羽・伏見の戦いでは、京街道の要所のこの地には、土方歳三率いる新選組など(旧幕府軍側)が本陣をおいたそうだ。
けれど対岸の高浜砲台から攻撃を受けるはめに。遊郭もその時に燃えてしまったそう。
明治20年、遊郭を再興。京阪電車の開通もあって賑わいをとりもどし、最終電車は帰る客でいっぱいになっていたのだって。すごい時代だな。
戦後、GHQの指導で遊郭は廃止になったけれど、遊郭の多くはその後もそういう場所のままだった。通称「赤線」(売春が黙認された場所を警察が赤色の線で囲っていたからとか)。昭和33年、売春防止法が施行されて、売春業を続ける者には刑事処分が課せられることになった。そして各地の遊郭はおおかた衰退。橋本遊郭もその1つ。